―― 千尋、ありがとう。

 届くはずのない高みにいる君に、呟いた。

 至高の場所から見る景色は、どうだ? その歓喜がその熱狂が、君が戦い勝ち得た絆だ。
 出会った頃の君ならば、萎縮していたかもしれない。けれど今、君はきっと笑ってそこにいる。

 後悔がないと言えば嘘になる。伝えられなかったことが沢山あった。君と見たい景色が沢山あった。
 けれど今この時に願うのは、たった一つのことだけだ。

 ―― 千尋。どうか、幸せに―――。


「――ん…! おし…とさ…!」

 ああ、こんなときまで君の声が聞こえてくる。
 ……そんなに叫ぶな。将以上に、王は動揺を見せてはいけないのに。
 けれど最期に思い出したのが君の声だったなら、この人生もそんなに悪いものではなかった。

 

 

「忍人さん……! 忍人さん…っ!!」

 回廊を全速力で駆け抜けた私は、目の前に広がった光景に絶句し、次の瞬間何もかもを忘れてその人に縋りついていた。
 風早にそっと耳打ちされて、何か胸騒ぎを感じたのがつい数分前のこと。はじめは風早たちと一緒に歩いていた私だったけれど、宮中のざわめきと不穏な予感に押され、いつのまにか走り出していた。

 そして今、何度となく行き来した回廊の真ん中で、赤い海に沈んでいるその人を見つけた。

「忍人さん……! ねぇ、なんで…っ!?」

 おびただしい量の血にまみれた彼の顔は、それでも苦痛とは対極のところにあるようだった。この日のために用意された装束が濡れるのも構わず、彼の体を抱き起こす。すでに意識のない体はぐったりと重く、どこか冷たいように感じられた。

「忍人さん……忍人さん? ねぇ、いや……いやだよ…ッ!!」

 『なんで』なんて、この状況を見れば嫌でも推測がついた。
 だけどこういうとき、人はどうすればいいんだろう? ほら、学校で習ったじゃない。心臓マッサージをするんだっけ…? 違う、AEDっていうのを持ってくるんだっけ?
 違う、違う、そうじゃなくて。そんなものがあるはずがなくて!

 混乱と激しい感情の波にさらわれた私は、結局何もすることができずにただ忍人さんを抱きしめてその名を叫び続けた。


『神子……見せて』

 遅れてやってきたらしい遠夜が、割り込むように忍人さんの体を引き寄せた。
 やめて、私から取らないで! ……そんなことが言えるはずもなく、私はただ呆然と黙りこくった遠夜を見つめる。

 そして遠夜は…忍人さんの対たる彼は、神妙に告げた。


『弱いけど、まだ、息がある。……助かるかもしれない』




 


 いばらの冠









 ――瞼に、光。そう強くはないが確かな温もりを持つ太陽の光が顔を照らす。そして風。かすかな花の香りを乗せて、髪をくすぐる。
 ああ、この香りは何だっただろう。幾度となくかいだことのあるような――

「…………。……っ」

 唐突に、水底から急に引っ張り上げられたかのように、忍人は覚醒した。
 重い瞼を押し上げると、予想通り闇ではなく明るい視界が得られた。だが天井に見覚えがない。武人としての習性なのか、瞬時に気配を尖らせた忍人は部屋の様子を探った。

 だだっ広い室内に目をやると、そこには誰もいなかった。ただ手桶に布が浸しており、額の湿った感触から先ほどまでそれが乗せられていたのだろうと推測された。
 起きる直前の記憶は王の即位式に現れた不逞の輩と戦い、成敗と共に自身も力尽きて倒れたというところだ。だから、少なくとも奴らに捕らえられて捕虜になったとかそういうことではないようだ。そこまで考えて、忍人はゆっくりと上体を起こした。

「……つッ……」

 ズキリと鈍い痛みが全身を駆け抜け、忍人は思わず呻いた。歯を食いしばってなんとかやり過ごすと、やはり無人の室内をざっと眺める。だだっ広いと思われたそこは、よく見ると青銅鏡やら女性ものと思しき衣やらが雑然と置かれていた。
 そういえば、どこか見覚えがある――そう思ったそのとき。正面にある木の扉が突然開き、細い影が滑り込んだ。


「…………」

「……え……。……おし…ひと、さん……?」

 現れたのは、中つ国が二の姫――いや、女王となった葦原千尋だった。女王の装束に身を包んだ少女が、扉のところで立ち竦む。千尋はもともと大きかった目を呆然と見開くと、信じられないと言った様子で唇を奮わせた。

 ――ガシャン。千尋が持っていた皿のようなものが落ちる。床に瑞々しい果実が転がった。それにも全く頓着せず、千尋はひたすらに忍人に視線を向けていた。

「ああ。……すまない。俺はどのくらい寝ていた? 君の即位という大事な日に、酷い失態を犯してしまったようだな」

「…………。忍人さん……」

 忍人は忍人で結構な衝撃を受けていたが、すぐに状況を理解した。ここは王宮で、しかも自分は王の部屋で看病されていたらしい。
 もう一度呆然と呟いた千尋が、忍人の質問には答えずにふらふらと近寄ってくる。忍人が腰掛けている寝台の前に立った千尋は、急に顔を歪めると忍人にがばりと抱きついた。

「……っ!」

「おし…忍人さん…!! おしひ…忍人さ……っ……」

 少女の体当たりに、一瞬だけ肋骨がみしりと軋んだ。息を呑んだ忍人は、だが言葉にならないといった様子で喉を詰まらせた千尋の姿にかろうじて呻き声をこらえた。

 細かく震えた千尋は泣いているようだった。伏せられた頬から、いくつもの温かな雫が忍人の肩へと落ちていく。
 華奢な少女が忍人だけが全てだと言うように全身で抱きついてくるさまに、忍人はようやく千尋がどれほどの衝撃を受け、またどれほどの思いで自分が目覚めるときを待っていてくれたのかを理解した。

 ――生きている。尽きぬ業にとうとう滅んだはずの体が、どういうわけか永らえている。
 そして今、最愛の女性がこの胸の中へと帰ってきた。


「忍人さ…っ、馬鹿です! あんな人数に、たった一人で…向か…っ、なんて……。みんなが生きてても、あなた一人死んじゃったら…死んじゃったら……何にもならないのに…! け…っ、軽率です……っ」

「……ああ」

 忍人の上着を掴み、千尋が泣きながら怒る。かつて口癖のように浴びせてきた言葉を今少女にそのまま返され、忍人は口の端でかすかに笑った。もちろん千尋は気付かない。

「もう…十日も目が覚めなくて……駄目かと思って…っ! 私…私、まだ伝えてないのに…っ。忍人さんのことが好きだって、一度も言えないまま……忍人さん、が……」

「千尋……」

 悲鳴のように想いを告げた少女が、再び喉を詰まらせる。千尋は泣き濡れた瞳を上げると、忍人を正面から見つめた。

「私…忍人さんのことが、ずっとずっと……好きでした。だから…生きててくれて、よかった……! 目が覚めてくれて、本当に…よかった……」

 呟きながら、女王が子供のように手の甲で涙を拭う。忍人は目の前の少女がたまらなく愛おしく感じられ、抱き寄せて口づけたい衝動に駆られた。
 それ以上は何も考えられず、泣きじゃくる細い肩へと手を伸ばした。――つもりだった。


「……?」

 肩を抱くはずだった右の手が、見えない。……いや、ないわけではない。ただそれは忍人の意思に反したまま、だらりと体の脇に寄り添ったままだった。

「……っ」

 再度意思をもって右腕を持ち上げようとする。だが、ぴくりとも動かない。己のものとは思えぬそれに忍人が呆然とした視線を向けかけたそのとき、目前の千尋が身じろいだ。――気付かれてはいけないと、とっさに思った。
 忍人は左手を上げると、千尋の体を抱きしめた。


「俺も……君のことを、愛している。君の声が、黄泉から俺を連れ戻してくれたんだ――」

 

 

 

 

 

 忍人が目覚めてから、女王陛下は心身ともに見違えるように元気になったという。政務も滞りなく進み、明るい雰囲気に彩られた橿原宮の中を忍人はゆっくりと歩いていた。

(桜は…散ってしまったか。結局、約束は守れなかったな……)

 明るい日差しはすでにもう初夏のものだ。目が覚めてからこうして外を歩けるようになるまでも、思ったより多くの日数を要した。それだけ自分の体がボロボロだったということだ。
 忍人の右腕は目覚めた日以来、全く己の意思で動かすことができなくなっていた。温度や触覚といった感覚は正常に残っている。ただ運動に関する機能だけが、肩から完全に失われてしまっていた。

 腱が切れたか、神経が絶たれたか……どちらにしろ、医師の見立てでは回復の見込みはないとのことだった。
 もともと二刀流だったこともあり、日常生活にはさほど不便は感じない。それでも利き腕の機能を失っては以前のような戦闘力は得られなかったし、周囲には見せないものの何より将として、忍人は深い喪失感を味わっていた。……これでは、千尋を守れるかどうか分からない。

 何の慈悲があったのか、魂は取られなかった。だが砕魂刀はそれに次ぐ忍人の魂を――武人としての誇りを、確かに奪っていった。


 いつまでも隠し通せるものではないと判断して、先日千尋および風早ら親しい者たちには現状を説明してある。同じ武人である布都彦や風早は衝撃を隠せないようであった。だがそれ以上に忍人の心を重くしたのは、千尋が目に浮かべた悲哀の深さであった。

 自ら軍を率いたあの姫は、武人の在り方や誇りというものをよく理解している。
 砕魂刀を使うのをやめてほしいと願った夜も、忍人に戦場に立つなとは最後まで言わなかったのだ。忍人が戦うことで己の道を切り開き目標を掴もうとしてきたことを、きっと千尋は分かっていた。だからこそ、片手を失った忍人の喪失感を誰よりも理解していたのだろう。

 

「――師君、お呼びと伺いましたが」

「あぁ、ようやく来たかい。まーったく、遅くって昼寝しちまうとこだったよ」

 回廊を歩ききった忍人は、垂れ布を左手でかき上げてこの国の軍の最高責任者――大将軍・岩長姫に目礼した。

「久々に宮中を歩いたもので、色々見ていたら時間がかかってしまいました。すみません」

「お前、本当に冗談が通じない男だね。日をご覧よ。時間通りじゃないかい」

 とうに齢六十は超えているはずの将軍が快活に笑う。豪放磊落な彼女は(正直あまり女性とは思っていないが)今なお無敵の武力を誇って軍の頂点に君臨している。忍人もかつて師事していたという理由のためだけではなく、彼女には様々な面で頭が上がらなかった。


「それで、用件とは」

「まったくせっかちだね。まぁいいから座りなよ」

 岩長姫が示した茣蓙に忍人は仕方なく腰掛けた。全く用件が見えない。……いや、右腕以外は体も癒えたから、軍に戻れとの指示か。それか降格か。だがそれにしては、深刻さのかけらもない表情をしている。

「は〜、こないだの戦が終わってから、どうも全身にガタがきてる気がしてねぇ。足腰が痛いったら」

「そうですか? そのようには見えませんが……」

 溜息をつきながら、だが俊敏に岩長姫が茣蓙に座った。……とても足腰が弱っているとは思えない。

「そうなんだよ! やっぱりあたしも年かねぇ。そういえば最近目も霞んできた気が……」

「…………」

 一体どういう意図なのかさっぱり見えてこない。忍人がぼやき続ける岩長姫を見返すと、大将軍は大きく溜息をついた後にまた身軽に立ち上がった。そのまま壁際に置かれた机に向けて歩いていく。


「まったく、年寄りの意図が汲み取れない子だねぇ。……ほら。これ、お前が持ってな」

「……っ。急に物を投げないで頂きたい。……これは?」

 机の上に乗っていた何かを、岩長姫が忍人に向かって投げた。危うく床に落ちかけたそれを忍人は咄嗟に左手で受け止めた。手の中に握り込んだ白っぽいものを確認した忍人は、目を剥いて立ち上がった。

「師君! これは…!」

「あ〜。受け取っちまったからには、返品は不可だよ。あたしゃもう楽隠居したいのさ」

「……!」

 忍人の左手に乗った、白い石。見事な細工の施された台座の底にあるのは――大将軍のみが押せる印面。王印には及ばなくとも、現在の宰相である狭井君が持つ宰相印と、対になる位の印だ。

「こんなものを急に渡されても困ります! 俺に一体どうしろと――」

「そんな分かりきったことを聞くのかい? そいつを押せるのは、国で唯一大将軍だけさ。つまり、今日からお前が大将軍だ」

「……な……。そんなことを、勝手に決めていいはずがないでしょう! 口約束で賜る役職ではないのですよ」

 印を突っ返そうとした忍人に対し、岩長姫は両手を上げて完全に『受け取らない』という姿勢を示している。しかも、どこか楽しげに。
 岩長姫はわざとらしく口笛など吹くと、にやりと口の端を吊り上げた。

「お前、知らなかっただろう。大将軍はな、しち面倒くさい宰相位とは違って前代の大将軍からの指名だけで次代を決められるんだよ。…あたしはお前が適任だと思った。だから、お前はまっとうな方法で大将軍になったんだ」

 そんな話、嘘か真か分からない。だがどうしてか岩長姫が言うと、真実のように聞こえてくるから不思議だ。それでも忍人は印を捧げ持ったままで、それを懐に仕舞おうとは思えなかった。


「……腕を片方、失いました。利き腕がなくば十分な戦闘も指揮もできません。俺はこの位に値する将ではなくなりました」

「馬鹿言うんじゃないよ。腕や足がない兵なんて、中つ国じゅうにいったい何人いると思ってんだい。お前は身が残ってるだけ幸運さ。そんな言い訳は奴らに対する侮辱にしかならないね」

「…………」

 忍人は返す言葉がなく押し黙った。
 ――かつては、その武人としての至高の位を目指したこともあった。誰よりも傍近く王を守れる位。王と同じ視界を共有することを許された、唯一の位。いつか千尋を支え、守りきれるようにと。……だがその夢想は、目覚めたときに色褪せて消えてしまった。


「狭井君や……他の高官の方々は、ご存知なのですか。俺の状態は伝わっているはずです。彼らが納得するとは到底思えませんが」

「別に今までの実績を考えりゃ、反対もしないと思うけどね。……狭井君たちは知らないよ。こりゃあたしの独断だから公表もしない。言いたくなったらお前から言えばいい。幸いここのところその印を使うような案件もないからねぇ」

「……軽率な……」

 忍人が苦々しくこぼす。それに肩をすくめて応えた岩長姫は、話は終わりとばかりに戸口に向かって歩き始めた。

「とにかく、ちょっと預かってみるくらいの気持ちで持ってておくれよ。それでどうしても嫌だったら返せばいい。……ま、持ってれば多少はいいことがあるかもしれないね」

 そして前大将軍となったその人は闊達な足取りで室内から出て行った。

「…………」

 後に残された忍人は手の中の印を握り締め、何かを思うように瞳を伏せた。

 


 



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大本命の虎狼将軍です。
サザ千があまりに暗かったので忍千は明るく行こう!と思ってたのですが…く、暗いよまた…。
忍人都合よく助かっています。潔く捏造。ルート中で幸せになってほしいじゃないですか…。


(2008.9.6)