届くはずのない高みにいる君に、呟いた。 至高の場所から見る景色は、どうだ? その歓喜がその熱狂が、君が戦い勝ち得た絆だ。 後悔がないと言えば嘘になる。伝えられなかったことが沢山あった。君と見たい景色が沢山あった。 ―― 千尋。どうか、幸せに―――。
ああ、こんなときまで君の声が聞こえてくる。
「忍人さん……! 忍人さん…っ!!」 回廊を全速力で駆け抜けた私は、目の前に広がった光景に絶句し、次の瞬間何もかもを忘れてその人に縋りついていた。 そして今、何度となく行き来した回廊の真ん中で、赤い海に沈んでいるその人を見つけた。 「忍人さん……! ねぇ、なんで…っ!?」 おびただしい量の血にまみれた彼の顔は、それでも苦痛とは対極のところにあるようだった。この日のために用意された装束が濡れるのも構わず、彼の体を抱き起こす。すでに意識のない体はぐったりと重く、どこか冷たいように感じられた。 「忍人さん……忍人さん? ねぇ、いや……いやだよ…ッ!!」 『なんで』なんて、この状況を見れば嫌でも推測がついた。
遅れてやってきたらしい遠夜が、割り込むように忍人さんの体を引き寄せた。 そして遠夜は…忍人さんの対たる彼は、神妙に告げた。
「…………。……っ」 唐突に、水底から急に引っ張り上げられたかのように、忍人は覚醒した。 だだっ広い室内に目をやると、そこには誰もいなかった。ただ手桶に布が浸しており、額の湿った感触から先ほどまでそれが乗せられていたのだろうと推測された。 「……つッ……」 ズキリと鈍い痛みが全身を駆け抜け、忍人は思わず呻いた。歯を食いしばってなんとかやり過ごすと、やはり無人の室内をざっと眺める。だだっ広いと思われたそこは、よく見ると青銅鏡やら女性ものと思しき衣やらが雑然と置かれていた。
「……え……。……おし…ひと、さん……?」 現れたのは、中つ国が二の姫――いや、女王となった葦原千尋だった。女王の装束に身を包んだ少女が、扉のところで立ち竦む。千尋はもともと大きかった目を呆然と見開くと、信じられないと言った様子で唇を奮わせた。 ――ガシャン。千尋が持っていた皿のようなものが落ちる。床に瑞々しい果実が転がった。それにも全く頓着せず、千尋はひたすらに忍人に視線を向けていた。 「ああ。……すまない。俺はどのくらい寝ていた? 君の即位という大事な日に、酷い失態を犯してしまったようだな」 「…………。忍人さん……」 忍人は忍人で結構な衝撃を受けていたが、すぐに状況を理解した。ここは王宮で、しかも自分は王の部屋で看病されていたらしい。 「……っ!」 「おし…忍人さん…!! おしひ…忍人さ……っ……」 少女の体当たりに、一瞬だけ肋骨がみしりと軋んだ。息を呑んだ忍人は、だが言葉にならないといった様子で喉を詰まらせた千尋の姿にかろうじて呻き声をこらえた。 細かく震えた千尋は泣いているようだった。伏せられた頬から、いくつもの温かな雫が忍人の肩へと落ちていく。 ――生きている。尽きぬ業にとうとう滅んだはずの体が、どういうわけか永らえている。
「……ああ」 忍人の上着を掴み、千尋が泣きながら怒る。かつて口癖のように浴びせてきた言葉を今少女にそのまま返され、忍人は口の端でかすかに笑った。もちろん千尋は気付かない。 「もう…十日も目が覚めなくて……駄目かと思って…っ! 私…私、まだ伝えてないのに…っ。忍人さんのことが好きだって、一度も言えないまま……忍人さん、が……」 「千尋……」 悲鳴のように想いを告げた少女が、再び喉を詰まらせる。千尋は泣き濡れた瞳を上げると、忍人を正面から見つめた。 「私…忍人さんのことが、ずっとずっと……好きでした。だから…生きててくれて、よかった……! 目が覚めてくれて、本当に…よかった……」 呟きながら、女王が子供のように手の甲で涙を拭う。忍人は目の前の少女がたまらなく愛おしく感じられ、抱き寄せて口づけたい衝動に駆られた。
肩を抱くはずだった右の手が、見えない。……いや、ないわけではない。ただそれは忍人の意思に反したまま、だらりと体の脇に寄り添ったままだった。 「……っ」 再度意思をもって右腕を持ち上げようとする。だが、ぴくりとも動かない。己のものとは思えぬそれに忍人が呆然とした視線を向けかけたそのとき、目前の千尋が身じろいだ。――気付かれてはいけないと、とっさに思った。
忍人が目覚めてから、女王陛下は心身ともに見違えるように元気になったという。政務も滞りなく進み、明るい雰囲気に彩られた橿原宮の中を忍人はゆっくりと歩いていた。 (桜は…散ってしまったか。結局、約束は守れなかったな……) 明るい日差しはすでにもう初夏のものだ。目が覚めてからこうして外を歩けるようになるまでも、思ったより多くの日数を要した。それだけ自分の体がボロボロだったということだ。 腱が切れたか、神経が絶たれたか……どちらにしろ、医師の見立てでは回復の見込みはないとのことだった。 何の慈悲があったのか、魂は取られなかった。だが砕魂刀はそれに次ぐ忍人の魂を――武人としての誇りを、確かに奪っていった。
自ら軍を率いたあの姫は、武人の在り方や誇りというものをよく理解している。
「――師君、お呼びと伺いましたが」 「あぁ、ようやく来たかい。まーったく、遅くって昼寝しちまうとこだったよ」 回廊を歩ききった忍人は、垂れ布を左手でかき上げてこの国の軍の最高責任者――大将軍・岩長姫に目礼した。 「久々に宮中を歩いたもので、色々見ていたら時間がかかってしまいました。すみません」 「お前、本当に冗談が通じない男だね。日をご覧よ。時間通りじゃないかい」 とうに齢六十は超えているはずの将軍が快活に笑う。豪放磊落な彼女は(正直あまり女性とは思っていないが)今なお無敵の武力を誇って軍の頂点に君臨している。忍人もかつて師事していたという理由のためだけではなく、彼女には様々な面で頭が上がらなかった。
「まったくせっかちだね。まぁいいから座りなよ」 岩長姫が示した茣蓙に忍人は仕方なく腰掛けた。全く用件が見えない。……いや、右腕以外は体も癒えたから、軍に戻れとの指示か。それか降格か。だがそれにしては、深刻さのかけらもない表情をしている。 「は〜、こないだの戦が終わってから、どうも全身にガタがきてる気がしてねぇ。足腰が痛いったら」 「そうですか? そのようには見えませんが……」 溜息をつきながら、だが俊敏に岩長姫が茣蓙に座った。……とても足腰が弱っているとは思えない。 「そうなんだよ! やっぱりあたしも年かねぇ。そういえば最近目も霞んできた気が……」 「…………」 一体どういう意図なのかさっぱり見えてこない。忍人がぼやき続ける岩長姫を見返すと、大将軍は大きく溜息をついた後にまた身軽に立ち上がった。そのまま壁際に置かれた机に向けて歩いていく。
「……っ。急に物を投げないで頂きたい。……これは?」 机の上に乗っていた何かを、岩長姫が忍人に向かって投げた。危うく床に落ちかけたそれを忍人は咄嗟に左手で受け止めた。手の中に握り込んだ白っぽいものを確認した忍人は、目を剥いて立ち上がった。 「師君! これは…!」 「あ〜。受け取っちまったからには、返品は不可だよ。あたしゃもう楽隠居したいのさ」 「……!」 忍人の左手に乗った、白い石。見事な細工の施された台座の底にあるのは――大将軍のみが押せる印面。王印には及ばなくとも、現在の宰相である狭井君が持つ宰相印と、対になる位の印だ。 「こんなものを急に渡されても困ります! 俺に一体どうしろと――」 「そんな分かりきったことを聞くのかい? そいつを押せるのは、国で唯一大将軍だけさ。つまり、今日からお前が大将軍だ」 「……な……。そんなことを、勝手に決めていいはずがないでしょう! 口約束で賜る役職ではないのですよ」 印を突っ返そうとした忍人に対し、岩長姫は両手を上げて完全に『受け取らない』という姿勢を示している。しかも、どこか楽しげに。 「お前、知らなかっただろう。大将軍はな、しち面倒くさい宰相位とは違って前代の大将軍からの指名だけで次代を決められるんだよ。…あたしはお前が適任だと思った。だから、お前はまっとうな方法で大将軍になったんだ」 そんな話、嘘か真か分からない。だがどうしてか岩長姫が言うと、真実のように聞こえてくるから不思議だ。それでも忍人は印を捧げ持ったままで、それを懐に仕舞おうとは思えなかった。
「馬鹿言うんじゃないよ。腕や足がない兵なんて、中つ国じゅうにいったい何人いると思ってんだい。お前は身が残ってるだけ幸運さ。そんな言い訳は奴らに対する侮辱にしかならないね」 「…………」 忍人は返す言葉がなく押し黙った。
「別に今までの実績を考えりゃ、反対もしないと思うけどね。……狭井君たちは知らないよ。こりゃあたしの独断だから公表もしない。言いたくなったらお前から言えばいい。幸いここのところその印を使うような案件もないからねぇ」 「……軽率な……」 忍人が苦々しくこぼす。それに肩をすくめて応えた岩長姫は、話は終わりとばかりに戸口に向かって歩き始めた。 「とにかく、ちょっと預かってみるくらいの気持ちで持ってておくれよ。それでどうしても嫌だったら返せばいい。……ま、持ってれば多少はいいことがあるかもしれないね」 そして前大将軍となったその人は闊達な足取りで室内から出て行った。 「…………」 後に残された忍人は手の中の印を握り締め、何かを思うように瞳を伏せた。
大本命の虎狼将軍です。
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