「あっ、忍人さん! 偶然ですね、こっちに来てたんですか」

「ああ。君は執務が終わったのか? 決裁の竹簡が多くて苦労しただろう」


 女王の執務室から回廊へと出た千尋は、偶然向こうからやってきた忍人と鉢合わせて喜色を浮かべた。
 仕事が終わってすぐに会えるなんて、今日はきっとラッキーな日だ。肩に薄くのしかかっていた疲労感がすぐに解消され、千尋は動きづらい女王の装束であるにもかかわらず忍人に向かって駆け出した。

「あっ!」

「千尋!」

 すると案の定、服の裾をつま先で踏んづけて体勢を崩してしまった。バランスを取りきれず、思わず両手が伸びる。硬い衝撃を覚悟した千尋だったが、倒れ込んだのは床ではなく忍人の腕の中であった。
 躊躇なく伸ばされた左腕と胸板で体を包み込まれている。我に返った千尋は、慌てて忍人からその体を離した。


「あっ、ああああの、すみません! 忍人さん、ありがとうございました」

「全く……君は子供か。女王がつまづいて転ぶなど、聞いたことがない。俺は逃げたりしないから、もっと堂々と女王らしく威厳のある態度で――」

「はいっ、すみません!」

「…………」

 溜息をつく忍人の小言が長くなりそうだったので、千尋は再度勢いよく頭を下げた。
 旅の始め頃も、こうしてしょっちゅう忍人に怒られた。その頃からあまり進歩がないのが悲しいが、一つだけ千尋は学んだことがある。
 先に謝ってしまえば、忍人は危険な事態以外ではそれ以上強くは千尋を叱らないのだ。視線を上げると、案の定言葉を封じられていささか憮然とした様子の忍人の顔がそこにはあった。


「はぁ……。そんな顔をされては、怒るものも怒れなくなる」

「え? ……?」

 怒ったように身を翻した忍人の顔は、わずかに赤くなっていた。首を傾げた千尋を先導するように忍人が歩き始める。

「ほら、帰るんだろう。部屋まで送ろう。一人で歩かせたら、また何もないところで転びかねん」

「わ…私、そんなに間抜けじゃないですよ!?」


 忍人の歩調を追いかけるように千尋が小走りで続く。苦笑を浮かべた忍人に千尋は憮然となったが、怜悧で整った将軍の横顔を見つめていると、その目が憧憬と思慕を浮かべるのにそう時間はかからなかった。

(やっぱり……かっこいい、よね)

 忍人はいつしか歩みを緩め、千尋の歩調に合わせて先導してくれている。
 手を引くことも腕を組むこともない。それでもその広い背は何より雄弁に『千尋を守る』と語っているようで、千尋は視線を注ぐことをやめられなかった。

(さっきの左腕……すごくしっかりしてたな。怪我してから、鍛えなおしてるって聞いたし……。それに、体も……)

 細身のようでいて、藍色の衣の下の体は固く引き締まっていた。千尋のいささか丸みには欠けるが柔らかい体とは全然違う。

(男の人、なんだな……)

 腕の感触を思い出し、千尋は思わず赤面した。
 ……あの腕にじかに触れてみたら、どんな感じがするんだろう。この上着を脱いだら、どんな感じなんだろう。そんなことをぼんやりと考え、また赤面する。……恥ずかしい。本人が目の前にいるのに。

 今までだって抱きしめられたことはある。キスをしたことも。そしてそういうことをされたら、その先を想像してしまうのは多分おかしなことではないと思う。現代でもその手の話題はしょっちゅう友人たちから聞かされていた。

(そろそろ私も、忍人さんと……?)

 頭の中に一瞬未知の世界への妄想が駆け抜け、千尋は思わず顔を両手で覆った。『わー!わー!!』と心で叫んで妄想を吹き飛ばす。
 本当に何を考えているのだ! こんな顔を他の誰か、中でも忍人には絶対に見られたくなくて、千尋は熱い顔を抱えて項垂れた。


「……二の姫? 気分でも悪いのか?」

「えっ!? い、いいえっ、大丈夫ですよ!」

 突然呼びかけられ、千尋は飛び上がるほど驚いた。顔を上げるとそこはもう自室の扉の前だった。訝しむ忍人の視線を受けて、一瞬うっと息が詰まる。

「そうか? なら――」

「……あ……」

 忍人が部屋の扉に手をかける。……ここで、二人だけの時間は終わりを告げる。忍人は明日早いと言っていたし、長居させるわけにもいかない。

「…………」

 もう少し、一緒にいたかった。見とれていないでもっと話をすればよかった。千尋は名残惜しさをそのまま瞳に映して、忍人をじっと見つめた。『おやすみなさい』と言うことも忘れて。

「……っ。君は……」

 忍人が目を逸らし、深々と溜息をつく。そして彼はざっと周囲に目をやると、千尋の顎に手をかけた。
 「あ」と思った瞬間、少しだけヒヤリとする唇が千尋のそれをかすめ、そして離れていった。


「……おやすみ。朝議に遅れないように」

 ぶっきらぼうにも聞こえる言葉を残して、千尋の恋人は回廊を戻っていった。
 千尋は夢ごごちのままフラフラと自室に入ると、声にならない声を上げてハイテンションで寝台へと飛び込んだ。



 ――戦いは終わり、夢見た新しい時代を生きている。恋人も危機を脱し、千尋はこの先の未来が輝きに満ちているとその夜信じていた。
 今日出会った瞬間に忍人が何かを懐へ仕舞いこんだことに、千尋が気付くことはなかった。
 

 

 

 


「―― 千尋。その顔、いい加減やめなよ。気色悪い」

「え。……やだな、そんな変な顔してないよ」

「してるよ。ヘラヘラニヤニヤ締まりがないんだよ。いいことあったのは分かったけど、少しは隠すってことを覚えなよ」

「那岐……ひどい……」


 それからさらに数ヶ月。うららかな午後に、千尋は政務の休憩がてら那岐と差し向かいで茶を楽しんでいた。


「忍人、何日だか前から畝傍山うねびやまの警備に行ってるんだっけ? 常世から使者が来るとかって」

「うん。誰が来るかはまだ分からないんだけどね。使者を先導するはずだから、そろそろ帰ってくるんじゃないかなあ」

 他愛無い会話を交わすうちに、話題は自然と忍人のことへと移っていた。今は宮中にいない恋人のことを話すと、千尋の頬が自然と緩む。那岐はその顔を見て、わざとらしく溜息をついた。


「ふーん、ずいぶん順調みたいだね。心配事なんて何もないって感じ? ああ、そういえばそろそろ婚儀の話とかも出てきた頃?」

「えっ!? ま、まだだよ。心配事だって、何もないってわけじゃ……」

 そう呟いた千尋がわずかに視線を下に落とす。何かあったのかと訝しんだ那岐は、千尋の顔がだんだん赤く染まっていくのを見て首を傾げた。

「な、那岐……あのね」

「なに?」

「いや、その、えーと……」

「……なんだよ」

 千尋は真っ赤になり、とうとう顔を完全に伏せてしまった。襟足から覗く首筋まで赤い。何をそんなにためらっているのか皆目分からず、那岐は溜息をついて話の続きを促した。
 俯いたまま茶碗をいじっていた千尋は、何かを決意したように勢いよく顔を上げると小声で、しかし激しく問いかけた。


「那岐は……エ、エッチしたこと、ある!?」

「………………はぁ!?」


 


 ―― 千尋の話は、こうだ。
 もう忍人が目覚めてから数ヶ月。その間二人は恋人同士として周囲にも認められ、キスも交わした。だが忍人はそれ以上のことに及んでくる気配が、ちらとも見られないのだと。


「私が子供っぽいから、そういう気分にならないのかなぁ……」

「……千尋……」

 話を聞きながら、那岐は叫んで駆け出したくなった。何がどうして幼馴染から(しかも実は初恋で、さらには失恋した相手から)こんなことを聞かされなくてはならないのか。額に手を当てて、那岐は恐る恐る問いかけてみた。

「あのさ、千尋……今の話、他の誰か…風早とかにも、した?」

「ううん。あ、風早や柊に聞いたほうがいいのかな。長い間一緒にいたんだし……」

「いや、やめといたほうがいいよ。ていうかやめて、本当に。僕が全部相談に乗るから!」

「う、うん……。ありがとう那岐。でもどうして?」

「どうしてでも!」

 『僕が風早に殺されるからだよ!』とは言えず、那岐は目をつぶって数秒間耐えた。
 『那岐〜? 俺の姫に、何を吹き込んだのかな〜?』 そうニコニコ笑って迫ってくる風早の図が脳裏に浮かび、那岐は鳥肌が立った。想像だけでも怖すぎる。

 己の不運を那岐は呪った。いやだが待て、こんなことを千尋が話せるのはきっと今、僕以外にはいないんだ。そう思い直し、一つ溜息をつくと無理やり口端を引き上げる。


「それにしても……なに? 千尋、そういうことしたいって気分になっちゃったの? やーらしー」

「ちっ、違うよ!? ただ、私は忍人さんが実は嫌なのに私に付き合ってくれてるんじゃないかって、少し心配で……。男の人がどういう風に考えるか、分からないし……」

 そう呟いて、しゅんと肩を下げる千尋。その姿に那岐は『そんなわけないだろ!』と叫びたくなった。
 那岐は忍人の強靭な理性に心底から尊敬の念を抱いた。千尋も少し考えれば、理由なんて分かりそうなものなのに……。

「向こうの世界だと、付き合って何回目かのデートでは…とか言うでしょ? そう思うと、少し遅いかなって気も……あ、でもこっちはこれが普通なのかな」

「さあね。でも僕らの感覚よりも、こっちの人たちの方がむしろそういうことに関してはフリーかもね。結婚前にセックスしても、特に怒られたりしないみたいだし」

「……やっぱりそうなんだ……」

 直接的な言葉に一瞬頬を染めた千尋が、再び肩を下げる。その様に那岐も肩を下げて(こりゃ気付かないはずだ……)と内心溜息をついた。千尋の心は忍人のことでいっぱいなのだ。
 とりあえず那岐は悩める幼馴染に助け舟を出すことにした。非常に不本意ではあったが。


「でも、王族だけは別なんだ。男はともかく未婚の姫は、たとえ恋人がいたとしても普通結婚前にそういうことはしない。相手の男もそこはわきまえるみたいだよ」

「え……そう、なの?」

「ああ。僕らからすれば笑っちゃうようなしきたりだけど、再婚って分かってる場合を除いたら、純潔じゃない姫は政略結婚のとき価値が下がるんだって。国の上層部もそういう事情で、政略結婚じゃなくても婚前交渉には否定的だ。だからあの人も手を出してこないんじゃない? ……これで安心した?」

「…………」

 千尋は口に拳を当てて、喜ぶべきか寂しがるべきか分からないという顔をしていた。那岐だって千尋に「価値」とか言いたくはなかったが。
 この理屈でいけば千尋が忍人と本当に結ばれるのは結婚を待たなければいけないということだから、少々物足りない気持ちもあるのだろう。いくら面倒くさがりとはいっても健常な成人男子である那岐には、その気持ちは痛いほどに理解できるものだった。


「ま、狭井君あたりにバレなきゃいいんだし、千尋から迫ってみれば? 案外ころっと落ちるかもよ」

「な、那岐っ! そんなことしないよ!」

「別におかしくないんじゃないの? 采女うねめたちだって結構積極的にやってるよ?」

 意趣返しするように軽く笑った那岐に、千尋が赤い顔で怒る。だが千尋はふと黙り込むと、那岐の方をじろりと見やった。


「……那岐。さっきの質問、答えてもらってない。どうして采女たちが自分から行くって知ってるの?」

「…………」

 那岐は内心しまったと思った。先ほどうやむやにした千尋の質問を、自らの失言で掘り返してしまった。

「那岐」

「……ノーコメント」

「なんで!」

「だって答えたって僕にはなんのメリットもないだろ。だから答える必要もない。……じゃ。ほら風早が呼んでるよ」

「那岐!」


 千尋の追求を受ける前に、賢明な那岐は早々にその場を退散した。
 入れ替わりに従者がやってきて、千尋はとうとう那岐から答えを得ることなくその場を立ち去るしかなかった。

 

 

 

 
 



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あ、ちょっと明るくなったかな…?
次の話は結構早くアップできそうです。

(2008.9.9)