「ああ。君は執務が終わったのか? 決裁の竹簡が多くて苦労しただろう」
「あっ!」 「千尋!」 すると案の定、服の裾をつま先で踏んづけて体勢を崩してしまった。バランスを取りきれず、思わず両手が伸びる。硬い衝撃を覚悟した千尋だったが、倒れ込んだのは床ではなく忍人の腕の中であった。
「全く……君は子供か。女王がつまづいて転ぶなど、聞いたことがない。俺は逃げたりしないから、もっと堂々と女王らしく威厳のある態度で――」 「はいっ、すみません!」 「…………」 溜息をつく忍人の小言が長くなりそうだったので、千尋は再度勢いよく頭を下げた。
「え? ……?」 怒ったように身を翻した忍人の顔は、わずかに赤くなっていた。首を傾げた千尋を先導するように忍人が歩き始める。 「ほら、帰るんだろう。部屋まで送ろう。一人で歩かせたら、また何もないところで転びかねん」 「わ…私、そんなに間抜けじゃないですよ!?」
(やっぱり……かっこいい、よね) 忍人はいつしか歩みを緩め、千尋の歩調に合わせて先導してくれている。 (さっきの左腕……すごくしっかりしてたな。怪我してから、鍛えなおしてるって聞いたし……。それに、体も……) 細身のようでいて、藍色の衣の下の体は固く引き締まっていた。千尋のいささか丸みには欠けるが柔らかい体とは全然違う。 (男の人、なんだな……) 腕の感触を思い出し、千尋は思わず赤面した。 今までだって抱きしめられたことはある。キスをしたことも。そしてそういうことをされたら、その先を想像してしまうのは多分おかしなことではないと思う。現代でもその手の話題はしょっちゅう友人たちから聞かされていた。 (そろそろ私も、忍人さんと……?) 頭の中に一瞬未知の世界への妄想が駆け抜け、千尋は思わず顔を両手で覆った。『わー!わー!!』と心で叫んで妄想を吹き飛ばす。
「えっ!? い、いいえっ、大丈夫ですよ!」 突然呼びかけられ、千尋は飛び上がるほど驚いた。顔を上げるとそこはもう自室の扉の前だった。訝しむ忍人の視線を受けて、一瞬うっと息が詰まる。 「そうか? なら――」 「……あ……」 忍人が部屋の扉に手をかける。……ここで、二人だけの時間は終わりを告げる。忍人は明日早いと言っていたし、長居させるわけにもいかない。 「…………」 もう少し、一緒にいたかった。見とれていないでもっと話をすればよかった。千尋は名残惜しさをそのまま瞳に映して、忍人をじっと見つめた。『おやすみなさい』と言うことも忘れて。 「……っ。君は……」 忍人が目を逸らし、深々と溜息をつく。そして彼はざっと周囲に目をやると、千尋の顎に手をかけた。
ぶっきらぼうにも聞こえる言葉を残して、千尋の恋人は回廊を戻っていった。
「え。……やだな、そんな変な顔してないよ」 「してるよ。ヘラヘラニヤニヤ締まりがないんだよ。いいことあったのは分かったけど、少しは隠すってことを覚えなよ」 「那岐……ひどい……」
「うん。誰が来るかはまだ分からないんだけどね。使者を先導するはずだから、そろそろ帰ってくるんじゃないかなあ」 他愛無い会話を交わすうちに、話題は自然と忍人のことへと移っていた。今は宮中にいない恋人のことを話すと、千尋の頬が自然と緩む。那岐はその顔を見て、わざとらしく溜息をついた。
「えっ!? ま、まだだよ。心配事だって、何もないってわけじゃ……」 そう呟いた千尋がわずかに視線を下に落とす。何かあったのかと訝しんだ那岐は、千尋の顔がだんだん赤く染まっていくのを見て首を傾げた。 「な、那岐……あのね」 「なに?」 「いや、その、えーと……」 「……なんだよ」 千尋は真っ赤になり、とうとう顔を完全に伏せてしまった。襟足から覗く首筋まで赤い。何をそんなにためらっているのか皆目分からず、那岐は溜息をついて話の続きを促した。
「………………はぁ!?」
「……千尋……」 話を聞きながら、那岐は叫んで駆け出したくなった。何がどうして幼馴染から(しかも実は初恋で、さらには失恋した相手から)こんなことを聞かされなくてはならないのか。額に手を当てて、那岐は恐る恐る問いかけてみた。 「あのさ、千尋……今の話、他の誰か…風早とかにも、した?」 「ううん。あ、風早や柊に聞いたほうがいいのかな。長い間一緒にいたんだし……」 「いや、やめといたほうがいいよ。ていうかやめて、本当に。僕が全部相談に乗るから!」 「う、うん……。ありがとう那岐。でもどうして?」 「どうしてでも!」 『僕が風早に殺されるからだよ!』とは言えず、那岐は目をつぶって数秒間耐えた。
「ちっ、違うよ!? ただ、私は忍人さんが実は嫌なのに私に付き合ってくれてるんじゃないかって、少し心配で……。男の人がどういう風に考えるか、分からないし……」 そう呟いて、しゅんと肩を下げる千尋。その姿に那岐は『そんなわけないだろ!』と叫びたくなった。 「向こうの世界だと、付き合って何回目かのデートでは…とか言うでしょ? そう思うと、少し遅いかなって気も……あ、でもこっちはこれが普通なのかな」 「さあね。でも僕らの感覚よりも、こっちの人たちの方がむしろそういうことに関してはフリーかもね。結婚前にセックスしても、特に怒られたりしないみたいだし」 「……やっぱりそうなんだ……」 直接的な言葉に一瞬頬を染めた千尋が、再び肩を下げる。その様に那岐も肩を下げて(こりゃ気付かないはずだ……)と内心溜息をついた。千尋の心は忍人のことでいっぱいなのだ。
「え……そう、なの?」 「ああ。僕らからすれば笑っちゃうようなしきたりだけど、再婚って分かってる場合を除いたら、純潔じゃない姫は政略結婚のとき価値が下がるんだって。国の上層部もそういう事情で、政略結婚じゃなくても婚前交渉には否定的だ。だからあの人も手を出してこないんじゃない? ……これで安心した?」 「…………」 千尋は口に拳を当てて、喜ぶべきか寂しがるべきか分からないという顔をしていた。那岐だって千尋に「価値」とか言いたくはなかったが。
「な、那岐っ! そんなことしないよ!」 「別におかしくないんじゃないの? 采女たちだって結構積極的にやってるよ?」 意趣返しするように軽く笑った那岐に、千尋が赤い顔で怒る。だが千尋はふと黙り込むと、那岐の方をじろりと見やった。
「…………」 那岐は内心しまったと思った。先ほどうやむやにした千尋の質問を、自らの失言で掘り返してしまった。 「那岐」 「……ノーコメント」 「なんで!」 「だって答えたって僕にはなんのメリットもないだろ。だから答える必要もない。……じゃ。ほら風早が呼んでるよ」 「那岐!」
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