「常世の使者は到着したの? さっき少し門の方が騒がしかったみたいだけど」 「ええ、お着きになっていますよ。狭井君の御前でお待ちです」 穏やかにそう答えた風早は、何かを隠すように含み笑いをした。問いただした千尋に『すぐに分かりますよ』とまた微笑むと、狭井君の政務室の扉を押し開ける。
「――お待たせ致しました。女王陛下のお出ましにございます」 「あっ……。アシュヴィン! それにリブも!」 風早の先導で室内に足を踏み入れた千尋は、そこに居並んだ長身の男性二人組に目を丸くした。
「ア、アシュヴィン陛下……。や、女王陛下、お久しぶりです。以前よりもさらにお美しくなられた」 「もう! 一言多いよアシュヴィン。……二人が来るって分かってたなら、畝傍山まで出迎えに行ったのに」 かつてと変わりない二人の様子に千尋の頬が緩んだ。なんでも非公式的に(つまり友人を訪ねる目的で)来訪するため、できる限り大事にはしたくなかったのだそうだ。こちらが迎えの兵を寄越したことについて、リブはしきりに恐縮していた。 「かえって兵の皆さんを混乱させてしまったようで。こんなことなら、はじめからきちんと報告を差し上げた方が良かったですね」 「ううん、大丈夫よ。二人が来てくれたなんて嬉しい。みんな宮中にいるから、ゆっくりしていってね」 かつての仲間である二人に千尋が微笑みかけると、その場の空気は打ち解けたものになった。
「これは公式の発言ではなく、あくまでわたくしの個人的な提案に過ぎぬのですが……アシュヴィン陛下はじめ常世の方々の並々ならぬご尽力を頂き、中つ国を千尋陛下の手にお返ししてから早一年弱。中つ国、常世の国ともかつてない繁栄をこの豊葦原に築きつつあります。そこで、両国の友好をさらに深めそれぞれの地の礎を確かなものとするため、是非とも結んで頂きたい義がございます」 「……?」 とうとうと語る狭井君を千尋はきょとんとした目で追っていた。
一瞬、何を言われたのか分からなかった。コンイン?
…つまり結婚だ。……誰と、誰が――? 「狭井君…! それは、あまりに急なお話ではないですか!? ちひ…陛下のお心も聞かず、また詮議もせずに相手方にいきなりことを伝えるとは――」 「控えなさい、風早。そなたには発言を許しておりませんよ。従者にすぎぬ己の立場をわきまえなさい」 「……っ」 狭井君に食って掛かった風早が、言葉を封じられて拳を握る。その一連の出来事を蚊帳の外から眺めるように、千尋はやはりぼんやりとその場に突っ立っていた。 「……いかがお考えでしょう? アシュヴィン陛下――」 狭井君が顔色を伺うようにアシュヴィンに視線を向ける。さすがに驚いたのか口元に手を当てて思案していたアシュヴィンは、それでも小さく笑みを浮かべると面白そうに狭井君を見やった。 「俺としては、大義名分はともかくこの姫のことはかなり気に入っている。それゆえその提案に特に異論はないな。しかし――」 「は、はぁ……」 ちらりと視線を向けられ、細い目をさらに細くしてリブが後頭に手をやる。発せられぬその言葉の先を引き継ぐように、アシュヴィンは千尋に視線を移すと皮肉な笑みを浮かべた。 「そちらの女王陛下は、確か葛城将軍と恋仲だったように思うが…? 葛城の姓ならば王との婚姻でも遜色はないだろう。……中つ国では、利き腕を失った男は結婚相手にふさわしくないと判断されるのか?」 薄い笑みの中に痛烈な批判を隠して、アシュヴィンが狭井君を見やる。そこで狭井君は、彼女にしてはこれまでになかったほどの狼狽を見せた。
「…………」 己が王の掠れた声に、狭井君は痛ましげに眉を寄せた。だがアシュヴィンにゆっくりと視線を向けると、女宰相は静かに語り始めた。
「忍人にはその旨、すでに打診してあったのか」 一息に語り、狭井君は小さく息をついた。一度目を閉じ、そしてどこか投げやりにまた開く。 「しかしさる事情のため、陛下や大臣たちに対する公表を待たずして、この婚姻は破棄されこれ以上進められないこととなりました。けれども陛下に後ろ盾が欲しいのは、変わることなき事実。……恥を忍んで申し上げます。アシュヴィン陛下、どうかこの件前向きに検討しては頂けませんでしょうか。失礼は重々承知しておりますが、わたくしは全てを包み隠さずお話しいたしました。それを知った上でご検討下さるなら――三日の後に、朝廷から正式な使者を立てさせて頂きます」 (だが――) 返答を返す前にアシュヴィンは千尋を盗み見た。予想通り、中つ国の女王陛下は蒼白な顔で自国の宰相を見ていた。その腕が細かく震え、限界かとアシュヴィンが思った瞬間。千尋は悲愴な表情で口を開いた。
「……千尋、落ち着いて」 掠れた声はすぐに激昂へと転じた。従者の制止を振り切って、千尋が狭井君を睨む。目を閉じて沈黙に徹する宰相と女王とを眺め、アシュヴィンは問いかけた。
アシュヴィンが辛辣に問いかけると、狭井君は皺の刻まれた瞼をゆっくりと押し上げた。 「同意も何も……こたびの件は、葛城将軍から上奏されたものであります」 「…!!」 千尋がはっと口を押さえる。瞳を大きく開いた少女は、狭井君の顔を信じられぬという表情で見やった。女宰相はどこか苦渋と戸惑いを浮かべながらも、千尋にとっては拷問にも等しい言の葉を紡ぎ続けた。 「! ―― 千尋!」 「陛下!」 狭井君の発言が終わらぬうちに、千尋はその場から駆け出した。風早と、珍しく声を荒げた狭井君の制止が室内に虚しく響く。
回廊を走りながら、千尋は混乱とこみ上げる激情に胸を押さえた。 (違うって言ってもらわなきゃ…! そんなこと言ってないって。だって、こんなのおかしいよ!)
「――忍人さん。今…狭井君とアシュヴィンに会ったんだけど……」 「…………」 忍人は、そこにいた。室内に据えられた椅子に腰掛け、竹簡を見ている。まるで千尋が来ることを予想していたかのようにゆっくりと振り向いた姿に、千尋は逆に心臓が引き絞られるような痛みを感じた。 「私と、アシュヴィンが結婚した方がいいって、忍人さんが言ったって……。ふふ…なんか変なこと言われちゃって。一応確認しに来たんです。お休みのところごめんなさい」 軽く笑いながら忍人に話しかける。全く馬鹿馬鹿しいことを聞いている。呆れられないだろうかと苦笑しながら、千尋は忍人の否定の言葉を待った。だが十秒待ってみても、その口からは否定も肯定も発せられることはなかった。 「……いや。事実だ」 「嘘ですよ。だってそんなの―――」 「事実だ。俺が言った。……王陛下は、アシュヴィンと婚姻を結ぶべきだと」 「……っ」
「千尋」 「どうしてですか!? 私、何にも聞いてない! 忍人さん、何も話してないのに……どうしてこんなこと…っ!」 堰を切ったように千尋は叫んだ。寄る辺ない両手が袴を固く握り締める。情けないほどあっという間に歪んだ視界で忍人を捉えると、かの人は目を閉じ静かに首を振った。 「目覚めてからずっと考えていた。君の作る世に、俺は君の相手としてふさわしいのかを。君の治世のために、俺にできることは何だろうと」 「…………」 「君にとっては青天の霹靂かもしれないが、これが俺の辿りついた最上の答えだった。君にもアシュヴィンにも人づてで伝える形となってしまったのは申し訳ないが……」
忍人の目をこちらに向けさせたくて、今考えられる『理由』を千尋は切実に訴えた。 忍人は無言で首を振り、千尋の訴えを拒んだ。それ以上聞くことも話すこともないと、その態度は語っていた。
「……っ」 断固とした拒絶を忍人が放った。千尋は再度服の裾を握り締めると、最後の望みに縋るように問いかけた。 「忍人さん、言ってくれましたよね…? 私のこと愛してるって。……私のために生きてみたいって、言ってくれたじゃないですか! あの言葉は嘘ですか!?」 掠れた問いかけは、すぐに涙混じりの叫びに転じた。忍人は答えない。ただしばらくして、『すまない』という小さな呟きが聞こえたような気がした。…千尋の幻聴だったかもしれないが。 「……帰れ」 「……っ……」
――なぜ―― 王と将軍でなければ。ただの女と男として出会っていれば。
……こんな事態には、ならなかった………?
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