いつもならば『大丈夫です』と強がるところだが、今日はとてもそんな気分にはなれなかった。
千尋が暗く落ち込んでいるのは、何も婚姻の件についてだけではなかった。 (『王になんてならなければ良かった』なんて――どうして言ってしまったんだろう) 昨日、勢いで忍人へ投げかけてしまった言葉。忍人の部屋を飛び出した直後から、千尋は後悔に苛まれていた。 忍人の腕の自由だって、元を正せば今このときの中つ国を作るために失われたのに――
千尋はこみ上げてきた苦いものをこらえるように、庭を進む足を速めた。
「あ……」 「おおっと、姫さん! …なんだぁ? 仕事サボって散歩か?」 『……神子』 裏手に回ろうかと角を曲がったそのとき、千尋はちょうど向かいからやってきたサザキ・遠夜と出くわした。
「…うん」 からりと笑ったサザキに千尋も笑顔で応えた。すると子犬のように様子を伺っていた遠夜が、幾分か沈んだ表情で口を開いた。 『……神子。顔色が悪い。……大丈夫か』 「……っ……。あれ……そう? 別になんてことないんだけどな」 おずおずと問いかけられた言葉に、千尋はぎくりと反応した。咄嗟に笑みを浮かべ、首を振ってみせる。すると遠夜の視線に引かれたのか、サザキも再びこちらを向くと千尋を覗き込んできた。 「姫さん……よく見りゃあんた、ひどい顔してるぞ。どうした? もしかして気分でも悪いのか?」 サザキが心配そうに眉をひそめる。遠夜と共に真剣な表情で見つめられて、千尋は戸惑った。
心の中で目を伏せて、千尋は外面上は再び笑みを繕った。今度は表情が明るく見えるように。 「大丈夫、ちょっと疲れただけなの。裏に行って、のんびり休憩したらきっと平気だよ」 うまく笑えただろうか。少しでも二人の心配が減るといいのだけれど。そう思って肩をすくめた千尋は、二人の横を通って奥へと歩き始めた。二人の、とりわけ遠夜の不安げな視線を背中に感じたが、もう一度振り返って微笑むと今度こそ歩みを進める。
だって自分は、この国の王なのだから。
橿原宮の裏手まで歩いてきた千尋は、人気のない木立の中で再び溜息をついた。
アシュヴィンのことは勿論嫌いではない。はじめこそ敵同士として出会ったが、その後は互いの目標を抱いて共に戦ってきたのだ。だがその間にある絆は、恋愛感情というよりは戦友のそれに近かった。アシュヴィンもきっとそうだろう。 はじめは少し…いやかなり怖かったが、その厳しさは真に国と仲間とそして千尋を思いやるからこそ生まれるのだと知った。そこから先は、坂を転がるように彼のことが好きになっていった。 大好きで、大好きで、ずっと一緒にいようと思った。
気付くと、千尋は涙を流していた。指先を伝う水滴を自覚すると、さらに頬が濡れていく。 (一体、どうしたいいんだろう――)
「――我が君? ……泣いていらっしゃるのですか?」 「……!」 やがて涙も出し尽くしたと思った頃、突然声をかけられて千尋はびくりと肩を震わせた。草むらを踏む音と共に聞こえたのは、聞きなれた甘い響きの声だ。
千尋は慌てて顔を拭った。だが驚きのためか再び雫が溢れてきて、顔が上げられない。座り込んだまま悪戦苦闘する千尋へ、しばらくしてすっと手拭が差し出された。 「どうぞ。あなたの涙を拭けるなら、この布も本望でしょう。私の服も…特に胸の辺りが空いておりますが、こちらをお貸ししましょうか?」 「……布の方を借りるわ。……ありがとう……」 どこかかぐわしい香りのする布を受け取った千尋は、ありがたくそれで目を拭わせてもらった。 ……どうしよう。泣いていたところをはっきりと見られて、何も言わないというのも気まずい。
「え……」 千尋が悩んでいると、助け舟を出すように柊は独特の軽みのある口調でさらりと告げてきた。まだ赤みの残る目を瞬かせた千尋は、柊の言葉に顔を強張らせた。 「ああ、彼を責めないでやって下さいね。必死に一人で悩んでいたところを、私が無理に聞き出したのです。風早も我が君のため、藁にも縋る思いだったのでしょう。何かいい案はないかと懇願されましたよ。…男に縋りつかれる趣味はないのですが」 「…………」 柊のおどけた口調に千尋はその光景を想像し、思わず口を緩めた。だがその笑みはすぐ薄い諦めに覆い隠されてしまう。柊は隻眼をじっと細めると、ふいに空に目を向けぽつりと口を開いた。
「え……」 唐突な問いかけに千尋は目を見張った。柊は夕暮れの空を見上げたままで、こちらに視線を向けてはいない。そしてそのまま言葉を続ける。 「あちらの世界では、王に冠をかぶせる習慣があったそうですね。……我が君がいま戴いているのは、痛みしかないいばらの冠でしょうか。それとも甘やかな花冠でしょうか?」 「いばらと……花?」 「ええ」 柊は薄く笑んで、千尋に視線を流した。心まで深く見通すような隻眼に見つめられ、千尋の鼓動が跳ねる。 だが…、と千尋の瞳がふっと翳る。それを見逃さず、柊は千尋の逡巡に手を貸した。
「…………。だけど……時々、重いの。自分が背負っているものが大きすぎて、王位に就くまではすぐに触れられたものが、遠くて……どうしたらいいのか分からなくなるの」 「……成る程」 溜息のように呟いた直後、千尋はまたも薄い後悔に襲われた。だが何事もなかったかのように柊に相槌を打たれ、少しだけ心が軽くなる。
「えっ。今のは別に忍人さんの話じゃ――」 「同じことですよ。我が君」 目を見開いた千尋をなだめるように柊がわずかに首を振る。そしてまたあの笑みを浮かべ、柊は呟いた。 「そうですね……貴女が仰られたように、王位とはいばらであると同時に花でもあるのでしょう。甘いものと思ってかかると痛い目を見ます。けれど苦難の後には、概ね美しい結果がついてきます。まあ枯れてしまうことも往々にしてありますが」 「なんだか……薔薇みたいね」 「バラ?」 「ええ。柊もあっちの世界で見なかった? こういう形の花びらで―――」 千尋は落ちていた手頃な枝を手に取ると、地面に薔薇の花を描いた。拙い絵だったが、すぐに柊は理解してくれたようだ。 「ああ、『うまら』のことですね。……ふむ、薔薇の冠か。美しい貴女にはさぞかしお似合いでしょうね」 「もう…何言ってるの」 柊の軽口に千尋は苦笑で応えた。彼のこういう物言いにもいい加減慣れたと思っていたが、至近距離で言われるとやはり心臓には良くない。 「恋愛も……いえ、忍人も、薔薇と同じです。彼の場合は、棘の部分が人よりもずっと硬そうですが」 同じ口調で急に忍人のことへと話を移され、千尋ははっと顔を上げた。忍人が、薔薇…? 言っては悪いが、あまり似合うとは思えない。 「あくまで比喩ですよ。……そうですね、硬く強張った棘はいわば鎧のようなもの。彼の揺れる心を守るために、ことさらに強くなったのかもしれません。花弁に触れられたら、陥落する以外に方法がないですから。……忍人を例えるにはいささか叙情的に過ぎるかもしれませんが」 「…………」 柊の比喩は、千尋には少々難解だ。それでもなんとか解釈してみようと千尋は頭をひねる。 「花弁に触れられたら、どうして陥落してしまうの?」 「弱いからですよ。最も弱い部分を掌握されれば、全体が落ちるのは容易いこと。ましてそれが愛しい者の手であったならば、尚更……。花弁に触れたいのならば、その花がいばらで覆い尽くされる前に手を打たなければ」 囁くように告げた柊がふっと笑う。彼は、提示してくれているのだ。今ならばまだ忍人との糸を繋ぎ止めることができると。
「おや。変えられぬはずの既定伝承すら乗り越えた我が君のお言葉とも思えませんね。今さら恐れることなどないでしょうに」 「…?」 柊の不可解な呟きに千尋は首を傾げた。言っている意味が分からない。 「なんの思し召しか、こうして私も生き長らえておりますし……そうですね、貴女に頂いた残りの生涯、貴女の幸せのために知恵を使ってみるのも悪くはないですね」 「柊……?」 ますます言葉の真意が読めない。すると柊は『こちらの話なのでお気になさらず』と笑んだあと、千尋ににじり寄った。その近さに思わずたじろいだ千尋に構わず、柊はその耳に触れるほどの至近距離で、囁いた。
昨夜の少女の叫びが、あれからずっと胸を軋ませ続けている。 あそこで追えば、決心が鈍る。感情が揺らぎ、あの華奢な少女をこの手で抱きしめてしまうだろう予感…確信があった。腕を這わせて自分のものにしてしまえば、二度と手放すことはできなくなると思った。
忍人は自嘲した。だが静まり返る部屋には、その問いに応えるものはない。 右腕の自由をなくしてから、忍人は表には出さないものの焦燥を感じていた。 けれどその問題が解消しても晴れぬ心に、忍人は別の懸念が心を占めていることをようやく感じ取った。 そして忍人は理解した。この先、魂が奪われないという保障など――どこにもないということを。
あの男とならば、きっと千尋は幸せになれる。今は苦しくとも、いつかは雷のように猛々しく大地のように大らかなあの皇を愛し、手を携えて生きていけるだろう。
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