しかし忍人は既に宮中にはなく、兵舎の自室に移ってしまったと副官から伝え聞いた。 下手をすれば、その場でアシュヴィンとの婚約を宮中の皆に発表されてしまうかもしれない。それは今夜行動を起こさなければ、永遠にその機会が失われることを意味していた。
普段は歩いても十分とかからないはずの距離が、異様に長く感じられる。一刻も早くと兵舎への道を急いでいた千尋は、何かにつまづいて足をもつれさせた。振り返ると地面に盛り上がった木の根だ。転倒は免れたものの、足首を軽く捻ってしまった。 「い…った……」 歩けないほどはないが、これではもう走ることはできない。眉をひそめた千尋は、しかし次の一拍には前を向いて再び足を動かし始めた。 迷っている暇はなかった。ただひとりの人を求め、千尋は迷いのない足取りで兵舎を目指した。
橿原宮からここまで来る間、途中何人もの兵に遭遇した。深夜ということでそう数は多くなかったが、彼らは一様に息を切らして走る女王を驚愕と困惑の体で引き止めた。そんな仕事熱心な彼らを、千尋は柊から貰った眠り薬を使ってやむなく眠らせてきた。 『勿論毒性などありませんし、便利なことにその直前の出来事……つまり貴女のことも、忘れてしまうのです。効果はほんの数分程度。彼らが怠慢を罰せられることもありますまい』 そう柊は言ったが、それで千尋の胸の痛みが治まるわけでもなかった。「本当にごめんなさい」と兵たちに小さく告げながら、人知れず女王は大将軍の部屋の前まで忍び込んだ。
扉に手をかける寸前で、千尋はためらった。まず、忍人がいなかったらどうしよう。もしいたとして、それでも話にならなかったらどうしよう――そんな不安が、少女の指を鈍らせる。しかし廊下の奥から宿直の兵らしき者の足音がわずかに聞こえ、千尋は唇を引き結んだ。
忍人の眠りを妨げることにためらい、千尋は息を殺して寝台に歩み寄った。
そこで千尋の視界は反転した。足をかけられて相手の体ごと寝台に叩きつけられ、衝撃で一瞬目を瞑る。次に千尋が目を開いたとき、その首には――月光を受けて光る生太刀が押し当てられていた。
「…………」 忍人は己が引き倒して刃を押し当てた侵入者の正体に、目を見開いた。 目が覚めたのはつい先ほどだ。深い眠りについていた忍人は、室内に聞こえた不規則な足音に覚醒を促された。
一拍の後、銀色の刃が食い込むものの正体を自覚し、忍人ははっと腕を上げた。動かぬ右手の代わりに少女を押さえ込んだ体をずらし、千尋の上から去る。 「おい…大丈夫か!?」 打ち所が悪かっただろうか。それとも喉を掻き切ってしまったのか。忍人が焦燥に駆られてその肩を掴むと、千尋はようやく意識をその瞳に取り戻した。何度か咳き込みながらも自力で起き上がる。
ゆっくりと立ち上がった千尋が、喉を押さえながら頭を下げる。どうやら大きな怪我などはしていないようだが―― 千尋の頭の先からつま先までざっと見た忍人は、しかし次の瞬間こみ上げる激情のままに怒鳴った。 「君は――、君は、何をしている!? こんな時間に忍び込んで……もう少しで殺されるところだったんだぞ!! 俺が、君を…! 冗談ではない! 君は君だけでなく俺のことまで殺す気か!?」 「は、はい……ごめんなさい」 「謝って済む問題ではない! なんて軽率な――何を考えているんだ! 殺されたいのか!?」 「ごめんなさい…っ」 感情に任せて叫び、忍人ははっと我に返った。 忍人は瞳を閉じて数回深く呼吸をすると、ゆっくりと目を開いた。変わらず忍人を見つめ続けていた千尋と視線が結ばれ、ふいにそれを逸らしたい衝動に駆られる。しかしなんとか自制を利かせると、忍人は冷えた口調で詰問した。
「…………」 忍人の声音に、千尋がわずかに息を詰めたのが分かった。しかし千尋はキッと顔を上げると忍人を強く見据えた。そして次に放たれた言葉は、忍人の想像を遙かに上回るものだった。
「はい。忍人さんに結婚を申し込みに来ました。妻問いがあるんだから、夫問いがあってもいいでしょう?」 予想外の言葉に忍人は一瞬目が丸くなった。千尋は淡々と、しかしどこか有無を言わせぬ迫力をもって忍人に告げる。 「私、やっぱり納得できません。頭では理解できるけど、心はそんなにすぐには追いつかない。昨日忍人さんはああ言ったけど、忍人さんの気持ちが分かりません。『忍人さん』が本当はどう思ってるのか、全然分からなかった。だから、聞きに来ました」 「……っ。だから言っただろう、あれが最上の答えだと。それ以外に言うことはない」 詰問する千尋を忍人はすげなくかわした。しかし千尋は全く引かず、逆に一歩忍人のもとへと踏み込んできた。
「…………」 「さっき怒鳴ったのは忍人さんの本心ですよね? あんなに怒った忍人さん、初めて見ました。忍人さんが怒っているのが私にも痛いくらい伝わってきて……でも、昨日のお話ではあなたの心はそこにはなかった」 「戯言を……。感情などどうとでも隠すことができる。上に立つものとして当然の技術だ」 「そうかもしれません。……でも、私はそう感じたんです」 千尋は静かに言うと、そっと瞳を閉じた。冷たく返してもゆるぎないその態度に、忍人は逆に焦燥を覚える。……平常心が乱される。冷徹に固めた鎧が崩れそうになり、忍人はいらいらと髪をかき上げた。
「そうですね。だから、結婚を申し込みに――。……いいえ」 先ほど告げた目的を再度口にしかけ、千尋は唐突に言葉を切った。唇を引き結び、何か決意するように拳を腹の前で握る。次の瞬間少女はその拳で帯を強く引き、肩から着物を肌蹴た。
全裸ではない。何か不思議な形をした布が、かろうじてその膨らみと腰を覆っている。しかし忍人からすれば全裸と寸分変わらぬ格好となった千尋は、夜目にも赤くなったのが分かる顔でそれでもこちらを見つめ続けていた。
「…………」 かろうじて問いかけた声も、衝撃のためか掠れて弱々しい。無言で返した千尋との間に、張り詰めた緊張が落ちた。
「…っ。君は……自分が何を言っているのか分かってるのか? 未婚の女王が、こんな真似をして……正気の沙汰とは思えない!」 「正気じゃなくてもいいです! だって、今夜しかなかったもの! 私が忍人さんと一緒にいられるの……今夜しか……」 忍人の激昂に同じく叫び返した千尋は、徐々に声を弱らせた。細い指で二の腕を所在無さげに握り、俯く。そこで忍人はようやく、この少女が先程から赤くなるのと共に細かく震えていたことを知った。 彼女にとって、確かにこれは平静でいられる出来事ではない。赤い頬は羞恥を表し、震える指先は躊躇いと恐れを示していた。それでもこの行為を千尋が選んだことに、忍人は衝撃と共に、浅ましい喜びの感情が閃いたのを感じ取った。
「君は……愚かだな。一度抱いたくらいで、俺がほだされて君と結婚するとでも? それは随分と子供じみた甘い考えだな。……君を抱いたところで、俺の気持ちが変わるわけでもない。俺にとってはその程度の行為だ」 「……っ」 忍人が冷徹に言い放つと、千尋は大きく顔を歪めた。その表情に心がきつく引き絞られる。だが忍人は千尋に氷の棘を刺すように、今度は嘲笑を唇に刻んだ。 (――どうか、諦めてくれ。君とこの国の未来のために、頼むから……!)
「……それでも、構いません。本当はいけないことだって分かってるけど、でも……!」 千尋は俯いていた顔を上げると、忍人の腕を両手で掴んだ。泣きそうな顔の少女は、ありったけの想いを込めた表情で忍人に告げる。
千尋の激しい告白に、忍人はその手を振り払うことも忘れてただ固まった。
「無理だ……」 「…!」 「君を嘘で愛することなど……できるわけがない。今夜だけで終わらせることなど、触れてしまってから手放すことなど、できるわけがない……!」 「……おし、ひとさ――、…!」 少女が自分の名を呼ぶ。それを最後まで聞き終わらぬうちに忍人は手を伸ばし、千尋を固く抱きしめた。
「…………」 腰に固く回された左腕の強さが、彼の胸の温かさが、冷えた千尋の肌へと染みていく。 「おし…ひとさん。……っ、忍人さん…!」 再び触れることのできた最愛の人の名を叫ぶと、千尋は泣きながら忍人にしがみ付いた。
「え……」 着物を千尋に託すと、忍人は数日ぶりの柔らかい口調を取り戻しながらも極めて冷静にそう告げた。千尋は思わず忍人の顔を見返してしまう。 「なんだ? ……ああ、足を引きずっていたな。少し捻っているかもしれない。手当てするから、君はそこの寝台に……」 「あ、あの…!」 てきぱきと状況判断し指示を飛ばした忍人に、千尋は咄嗟に呼びかけていた。忍人が「なんだ?」という顔をする。千尋は言葉に詰まってしまった。 (な、なんでこの状況で平然としていられるの? 忍人さんて、忍人さんって……!) 「あの……決死の覚悟で来たんですが……、できたら本当に、あの……ふ、夫婦になりませんか?」 「…!」 今度は忍人が赤くなる番だった。咄嗟に口元を押さえた将軍は、裾を掴まれたまま視線を彷徨わせた。そして千尋の手をそっと掴むと、忍人は再び溜息をついた。
「えっ。えっと……でも、忍人さんなら……。私、だってずっと―――」 「……だからな……」 忍人がさらに深く項垂れる。何かまずいことを言ってしまっただろうかと千尋は少し慌て、忍人の様子を探った。しかしその肩が細かく揺れて彼が笑っていることに気付くと、千尋もつられて笑い出してしまった。
「ひ、ひどいですよ忍人さん…! 私、どうにかしなくちゃって必死で……」 「ああ、分かっている。……すまない。君を傷付けた罪は、一生を使って贖わせてもらう」 「……絶対ですよ」 顔を合わせ、ふっと微笑みあう。その瞳の距離が急速に縮まって、千尋は目を閉じた。
髪に回された忍人の左手。頭を引き寄せられ、唇が触れ合う。 温かく湿った彼のそれが、千尋の中に入ってくる。どこか性急さのあるその動きに千尋は翻弄され、忍人の背中にしがみ付いた。
「……っ……」
「参ったな……。君を思いきり抱きしめたいのに、腕が足りない」 この胸いっぱいに千尋を感じたい。忍人がそう漏らすと、千尋は目を細めた後におもむろに忍人の右手を掴んだ。だらりと力の入らないそれを大切に包み、持ち上げる。 「抱きしめて下さい。左手だけでも十分です。……その代わり、私は忍人さんの右手を抱きますから。そうしたらもっと近付けるでしょう?」 「……そうだな」
二つの影が重なっていく。磨かれた床の上に衣が落とされ、衣擦れの音が暗闇にそっと響いた。
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