深夜、千尋は極力足音を立てないように暗い草むらを駆け抜けていた。言うまでもなく、忍人に会うためだ。

 しかし忍人は既に宮中にはなく、兵舎の自室に移ってしまったと副官から伝え聞いた。
 それほど自分の傍にはいたくないのか――そう落胆する間は千尋にはなかった。明日の夜は、アシュヴィンたちを交えて宴を催すことが決定してしまったからだ。

 下手をすれば、その場でアシュヴィンとの婚約を宮中の皆に発表されてしまうかもしれない。それは今夜行動を起こさなければ、永遠にその機会が失われることを意味していた。


「はぁっ、はぁ……っ。あ…ッ!」

 普段は歩いても十分とかからないはずの距離が、異様に長く感じられる。一刻も早くと兵舎への道を急いでいた千尋は、何かにつまづいて足をもつれさせた。振り返ると地面に盛り上がった木の根だ。転倒は免れたものの、足首を軽く捻ってしまった。

「い…った……」

 歩けないほどはないが、これではもう走ることはできない。眉をひそめた千尋は、しかし次の一拍には前を向いて再び足を動かし始めた。
 こんな怪我がなんだ。明日には一生消えぬ心の傷が刻まれるかもしれないのに。

 迷っている暇はなかった。ただひとりの人を求め、千尋は迷いのない足取りで兵舎を目指した。

 


 兵舎の中に入り込んだ頃には、千尋は緊張と本調子ではない足のために息を切らすまでになっていた。忍人の部屋がある一角まで辿りつき、そこで呼吸を整える。

 橿原宮からここまで来る間、途中何人もの兵に遭遇した。深夜ということでそう数は多くなかったが、彼らは一様に息を切らして走る女王を驚愕と困惑の体で引き止めた。そんな仕事熱心な彼らを、千尋は柊から貰った眠り薬を使ってやむなく眠らせてきた。

 『勿論毒性などありませんし、便利なことにその直前の出来事……つまり貴女のことも、忘れてしまうのです。効果はほんの数分程度。彼らが怠慢を罰せられることもありますまい』

 そう柊は言ったが、それで千尋の胸の痛みが治まるわけでもなかった。「本当にごめんなさい」と兵たちに小さく告げながら、人知れず女王は大将軍の部屋の前まで忍び込んだ。


「…………」

 扉に手をかける寸前で、千尋はためらった。まず、忍人がいなかったらどうしよう。もしいたとして、それでも話にならなかったらどうしよう――そんな不安が、少女の指を鈍らせる。しかし廊下の奥から宿直の兵らしき者の足音がわずかに聞こえ、千尋は唇を引き結んだ。
 そして、意を決して静かに扉を押し開けた。



 室内は当然のごとく静まり返っていた。暗いながらもなんとか月光を頼りに部屋の奥に目を凝らすと、黒髪の男性が寝台に横たわっているのが見えた。
 ……忍人だ。静かな寝息を立てる最愛の人の姿に、千尋は安堵で涙が滲みそうになった。

 忍人の眠りを妨げることにためらい、千尋は息を殺して寝台に歩み寄った。
 一歩、二歩……千尋ははやる気持ちを押さえて寝台の前まで辿りついた。そして、静かな寝顔に無意識のうちに手を伸ばす。


「…ッ!!」

 そこで千尋の視界は反転した。足をかけられて相手の体ごと寝台に叩きつけられ、衝撃で一瞬目を瞑る。次に千尋が目を開いたとき、その首には――月光を受けて光る生太刀が押し当てられていた。

 

 


「な――。ち…ひろ……!?」

「…………」

 忍人は己が引き倒して刃を押し当てた侵入者の正体に、目を見開いた。

 目が覚めたのはつい先ほどだ。深い眠りについていた忍人は、室内に聞こえた不規則な足音に覚醒を促された。
 殺気は感じられなかった。だからといって、室内に踏み込まれるまで気付かないとは何という不明だ。
 心中で舌打ちした忍人は仕方なく賊の出方を窺い、そして伸ばされた未熟すぎる腕を掴んだのだが――。


「…!」

 一拍の後、銀色の刃が食い込むものの正体を自覚し、忍人ははっと腕を上げた。動かぬ右手の代わりに少女を押さえ込んだ体をずらし、千尋の上から去る。
 呆然としながらも少女の安否を確認するが、千尋もまた忍人に押し倒されたままの格好で呆然と目を見開いていた。

「おい…大丈夫か!?」

 打ち所が悪かっただろうか。それとも喉を掻き切ってしまったのか。忍人が焦燥に駆られてその肩を掴むと、千尋はようやく意識をその瞳に取り戻した。何度か咳き込みながらも自力で起き上がる。


「ご……ごめんなさい。驚かせてしまって……」

 ゆっくりと立ち上がった千尋が、喉を押さえながら頭を下げる。どうやら大きな怪我などはしていないようだが―― 千尋の頭の先からつま先までざっと見た忍人は、しかし次の瞬間こみ上げる激情のままに怒鳴った。

「君は――、君は、何をしている!? こんな時間に忍び込んで……もう少しで殺されるところだったんだぞ!! 俺が、君を…! 冗談ではない! 君は君だけでなく俺のことまで殺す気か!?」

「は、はい……ごめんなさい」

「謝って済む問題ではない! なんて軽率な――何を考えているんだ! 殺されたいのか!?」

「ごめんなさい…っ」

 感情に任せて叫び、忍人ははっと我に返った。
 目の前には自分の叫びを真正面から受け止める少女の姿。千尋は忍人のあまりの剣幕に縮こまりながらも、忍人から目を逸らしてはいなかった。その何かを訴えるような眼差しに、忍人の中の熱が急速に冷まされていく。

 忍人は瞳を閉じて数回深く呼吸をすると、ゆっくりと目を開いた。変わらず忍人を見つめ続けていた千尋と視線が結ばれ、ふいにそれを逸らしたい衝動に駆られる。しかしなんとか自制を利かせると、忍人は冷えた口調で詰問した。


「……何をしにきた。こんな夜中に男の部屋に忍び込んで……あらぬ疑いをかけられても、どうすることもできないぞ」

「…………」

 忍人の声音に、千尋がわずかに息を詰めたのが分かった。しかし千尋はキッと顔を上げると忍人を強く見据えた。そして次に放たれた言葉は、忍人の想像を遙かに上回るものだった。


「夫問い……です」

 

 


「……おっと…どい?」

「はい。忍人さんに結婚を申し込みに来ました。妻問いがあるんだから、夫問いがあってもいいでしょう?」

 予想外の言葉に忍人は一瞬目が丸くなった。千尋は淡々と、しかしどこか有無を言わせぬ迫力をもって忍人に告げる。

「私、やっぱり納得できません。頭では理解できるけど、心はそんなにすぐには追いつかない。昨日忍人さんはああ言ったけど、忍人さんの気持ちが分かりません。『忍人さん』が本当はどう思ってるのか、全然分からなかった。だから、聞きに来ました」

「……っ。だから言っただろう、あれが最上の答えだと。それ以外に言うことはない」

 詰問する千尋を忍人はすげなくかわした。しかし千尋は全く引かず、逆に一歩忍人のもとへと踏み込んできた。


「……忍人さん、ずるいです。私は泣き叫んであなたにひどい言葉まで叩き付けたのに、全然…本音を言ってくれないんだもの。……私、知ってます。忍人さんは確かに嘘をついてない。だけど、本当の言葉もきっと紡いではいない」

「…………」

「さっき怒鳴ったのは忍人さんの本心ですよね? あんなに怒った忍人さん、初めて見ました。忍人さんが怒っているのが私にも痛いくらい伝わってきて……でも、昨日のお話ではあなたの心はそこにはなかった」

「戯言を……。感情などどうとでも隠すことができる。上に立つものとして当然の技術だ」

「そうかもしれません。……でも、私はそう感じたんです」

 千尋は静かに言うと、そっと瞳を閉じた。冷たく返してもゆるぎないその態度に、忍人は逆に焦燥を覚える。……平常心が乱される。冷徹に固めた鎧が崩れそうになり、忍人はいらいらと髪をかき上げた。


「それで? 君はそう感じて、ここに何をしに来たんだ? 俺が『あれは嘘だった。君を愛している』と言えば満足なのか? 言葉だけ与えても、事態は何も変わらない」

「そうですね。だから、結婚を申し込みに――。……いいえ」

 先ほど告げた目的を再度口にしかけ、千尋は唐突に言葉を切った。唇を引き結び、何か決意するように拳を腹の前で握る。次の瞬間少女はその拳で帯を強く引き、肩から着物を肌蹴た。


「抱いてもらいたくて……来ました。葦原千尋を――あなたの妻にして下さい」

 

 


 闇夜に突然現れた白い肌に、忍人の思考が止まった。
 ほとんど夜着に近い、普段よりも簡素な衣装が衣擦れを立てて床へと落ちる。その下にあったのは、抜けるように白い…少女の肌。

 全裸ではない。何か不思議な形をした布が、かろうじてその膨らみと腰を覆っている。しかし忍人からすれば全裸と寸分変わらぬ格好となった千尋は、夜目にも赤くなったのが分かる顔でそれでもこちらを見つめ続けていた。


「何を……している……」

「…………」

 かろうじて問いかけた声も、衝撃のためか掠れて弱々しい。無言で返した千尋との間に、張り詰めた緊張が落ちた。
 忍人はのろのろと千尋の着物を拾うと、艶かしい肢体を晒す千尋へそれを差し出した。しかし千尋は首を振って拒む。


「嫌です。抱いてくれるまで帰りません」

「…っ。君は……自分が何を言っているのか分かってるのか? 未婚の女王が、こんな真似をして……正気の沙汰とは思えない!」

「正気じゃなくてもいいです! だって、今夜しかなかったもの! 私が忍人さんと一緒にいられるの……今夜しか……」

 忍人の激昂に同じく叫び返した千尋は、徐々に声を弱らせた。細い指で二の腕を所在無さげに握り、俯く。そこで忍人はようやく、この少女が先程から赤くなるのと共に細かく震えていたことを知った。

 彼女にとって、確かにこれは平静でいられる出来事ではない。赤い頬は羞恥を表し、震える指先は躊躇いと恐れを示していた。それでもこの行為を千尋が選んだことに、忍人は衝撃と共に、浅ましい喜びの感情が閃いたのを感じ取った。
 ……だが駄目だ。ここで欲望のままに流されては、千尋の未来が――


「……誰にでも、するわけじゃないです……。忍人さん……忍人さんだから、私……」

「君は……愚かだな。一度抱いたくらいで、俺がほだされて君と結婚するとでも? それは随分と子供じみた甘い考えだな。……君を抱いたところで、俺の気持ちが変わるわけでもない。俺にとってはその程度の行為だ」

「……っ」

 忍人が冷徹に言い放つと、千尋は大きく顔を歪めた。その表情に心がきつく引き絞られる。だが忍人は千尋に氷の棘を刺すように、今度は嘲笑を唇に刻んだ。

(――どうか、諦めてくれ。君とこの国の未来のために、頼むから……!)


「……それに俺に抱かれて困るのは君では? 純潔を失えば、政略婚における君の価値は下がる。この婚姻を提案した狭井君に泥を塗り、アシュヴィンを貶めるつもりか?」

「……それでも、構いません。本当はいけないことだって分かってるけど、でも……!」

 千尋は俯いていた顔を上げると、忍人の腕を両手で掴んだ。泣きそうな顔の少女は、ありったけの想いを込めた表情で忍人に告げる。


「結婚できなくてもいい。今夜だけでもいいんです。だから……忍人さんを、私に下さい……! 私に、あなたの痕を残してほしいんです。今夜だけでいいから、嘘でもいいから、愛してほしい……っ」

 


「…………」

 千尋の激しい告白に、忍人はその手を振り払うことも忘れてただ固まった。
 少女の美しい髪がさらりと揺れ、顔が伏せられる。そのうなじをぼんやりと眺めた忍人は、目を閉じてゆっくりと天井を仰いだ。
 己への敗北の瞬間であり、また勝利の瞬間でもあった。


(……神よ。この世界を司る龍神よ。……この愚かな男を許したまえ。大局の行く末も将来の不透明さも忘れ、ただ目の前の神の娘に溺れる弱い男を、どうか許したまえ――)


 忍人は千尋の両手を掴むと、ゆっくりとそれを下ろした。顔を上げた千尋が絶望を碧の瞳に浮かべる。忍人は耐えるようにその視線から顔を逸らすと、深々と息を吐いた。

「無理だ……」

「…!」

「君を嘘で愛することなど……できるわけがない。今夜だけで終わらせることなど、触れてしまってから手放すことなど、できるわけがない……!」

「……おし、ひとさ――、…!」

 少女が自分の名を呼ぶ。それを最後まで聞き終わらぬうちに忍人は手を伸ばし、千尋を固く抱きしめた。


「俺の負けだ……。俺は、君の夫となる。この先何があろうとも構うものか。君の隣にいる限り、俺は君を愛し、守り抜くことを誓う。死んでなどやるものか……!」

 

 


 ――何が起こったのか、分からなかった。
 羞恥を押し殺し裸をさらけ出して迫ってみても、彼の刺すような言葉にわずかな可能性が崩れていくのを感じていた。
 絶望が心を埋め尽くし、それでも最後に縋りついた手を下ろされ……終わった、と思った。

 だけど――


「忍人、さん」

「…………」

 腰に固く回された左腕の強さが、彼の胸の温かさが、冷えた千尋の肌へと染みていく。
 千尋はこわごわと両手を上げると、忍人の背にそっと添えた。……忍人は逃げない。確かな存在を腕の中で感じて、千尋は震えた。

「おし…ひとさん。……っ、忍人さん…!」

 再び触れることのできた最愛の人の名を叫ぶと、千尋は泣きながら忍人にしがみ付いた。

 




 


 千尋が一通り泣き終えると、名残を惜しむように忍人はゆっくりと体を離した。しゃがみ込み、先ほど落とした着物を拾い上げる。それを千尋の肩にかけた忍人は、白い肌から目を逸らして合わせを整えた。


「……すまない、冷えてしまったな。……明日、俺から狭井君とアシュヴィンに事情を説明するから、君はもう休め。この部屋から出すわけにはいかないが――」

「え……」

 着物を千尋に託すと、忍人は数日ぶりの柔らかい口調を取り戻しながらも極めて冷静にそう告げた。千尋は思わず忍人の顔を見返してしまう。

「なんだ? ……ああ、足を引きずっていたな。少し捻っているかもしれない。手当てするから、君はそこの寝台に……」

「あ、あの…!」

 てきぱきと状況判断し指示を飛ばした忍人に、千尋は咄嗟に呼びかけていた。忍人が「なんだ?」という顔をする。千尋は言葉に詰まってしまった。
 足首はもともと強く捻ったわけではないから、多分手当ては必要ない。それよりも、それよりも……!

(な、なんでこの状況で平然としていられるの? 忍人さんて、忍人さんって……!)

 
 千尋は赤くなったり青くなったりしながら、次の言葉を言おうか言うまいか迷った。だが結局こらえきれず、着物を掴んでいるのとは逆の手で忍人の服の裾をそっと掴むと、小さく告げた。

「あの……決死の覚悟で来たんですが……、できたら本当に、あの……ふ、夫婦になりませんか?」

「…!」

 今度は忍人が赤くなる番だった。咄嗟に口元を押さえた将軍は、裾を掴まれたまま視線を彷徨わせた。そして千尋の手をそっと掴むと、忍人は再び溜息をついた。


「君は、本当に……。全く、こちらが必死で自制しているのなんてお構いなしだな。あまり男を調子に乗らせると、痛い目をみるぞ」

「えっ。えっと……でも、忍人さんなら……。私、だってずっと―――」

「……だからな……」

 忍人がさらに深く項垂れる。何かまずいことを言ってしまっただろうかと千尋は少し慌て、忍人の様子を探った。しかしその肩が細かく揺れて彼が笑っていることに気付くと、千尋もつられて笑い出してしまった。


「全く……君は、本当に無茶苦茶だ。こんな王がいるのは世界広しといえど中つ国ぐらいだろう」

「ひ、ひどいですよ忍人さん…! 私、どうにかしなくちゃって必死で……」

「ああ、分かっている。……すまない。君を傷付けた罪は、一生を使って贖わせてもらう」

「……絶対ですよ」

 顔を合わせ、ふっと微笑みあう。その瞳の距離が急速に縮まって、千尋は目を閉じた。

 

 髪に回された忍人の左手。頭を引き寄せられ、唇が触れ合う。
 角度を変えて何度も啄ばまれると口の合わせがわずかに緩んだ。忍人の左手に少しだけ力が篭もる。

 温かく湿った彼のそれが、千尋の中に入ってくる。どこか性急さのあるその動きに千尋は翻弄され、忍人の背中にしがみ付いた。
 深く重ねた唇から雫が顎へと伝い落ちる。それを追って忍人は喉へと舌を滑らせ、千尋はようやく息を継ぐことができた。


「……はぁっ……。は……おしひと、さ……」

「……っ……」


 少女の艶めいた響きに忍人は顔を上げた。闇に慣れた目に、唇を赤く濡らした千尋の顔が浮かび上がる。忍人は乱してしまった金の髪を左手で梳くと、薄く苦笑を浮かべた。

「参ったな……。君を思いきり抱きしめたいのに、腕が足りない」

 この胸いっぱいに千尋を感じたい。忍人がそう漏らすと、千尋は目を細めた後におもむろに忍人の右手を掴んだ。だらりと力の入らないそれを大切に包み、持ち上げる。

「抱きしめて下さい。左手だけでも十分です。……その代わり、私は忍人さんの右手を抱きますから。そうしたらもっと近付けるでしょう?」

「……そうだな」

 千尋が笑う。つられて忍人も微笑を浮かべると、千尋はおし抱いた指の先に小さく口付けを落とした。


「……ありがとう。忍人さんを守ってくれて……ありがとう」



 千尋の口付けは、指先から徐々に腕の付け根へと上がっていった。その唇が喉に達したとき、忍人は千尋の髪を撫でると再度唇を奪った。千尋がゆったりと身を預けてくる。

 二つの影が重なっていく。磨かれた床の上に衣が落とされ、衣擦れの音が暗闇にそっと響いた。



 苦痛を上回る快楽と、そして快楽を上回る喜びがあることを、千尋はこの夜初めて知った。

 

 

 

 


 



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(2008.9.21)