『その声をそばで聞いていられるなら……オレは翼を失ってもかまわない』

 そう言って彼は、ためらいもなく身体の一部を差し出した。


 彼の誇りと引き換えに、私は彼を手に入れた。





  A lost wing, a dearest pride






「…っ……、う……」

 あの悪夢のような日から一体何日が過ぎたのだろうか。私は政務も放り出して、自室で一日中サザキの看病をしていた。

 『未婚の王が自室にこのような者を連れ込むなど』と狭井君(さいのきみ)たちは私を強く制した。それを無理やり振り切って、私はサザキと一緒にいることを選んだ。

 だってサザキはもう日向の民じゃない。翼を切り落としまでさせておいて、これ以上命令などされる筋合いはなかった。それに今目を離したら今度こそサザキと引き離されそうな…知らぬうちにその命までも奪われてしまいそうな気がして、臣の誰もが信用できなかった。

 そうして私は、生死の境で苦しむサザキを今日も無力に見つめていた。


(どうして…こんなことになったのだろう……)

 こんな結末を望んでいたわけじゃなかった。こんな風に苦しむサザキが見たかったのではなかった。ただ平和な国を取り戻そうと、ただ彼と共に在る未来のために、皆で必死に頑張ってきただけなのに―――。


 あの日サザキが来てくれたと聞いた瞬間、私の心は浮き足立った。政務政務で追われていて、ひょっとしたらもう二度と会えないんじゃないだろうかと思い始めていた頃だったから。
 けれど詮議で彼の叫びを聞いたとき、にわかな喜びは絶望へと叩き落された。

『……ならば、翼を落とせ』

 自分の臣下が言ったとはとても思いたくなかった言葉。それに、彼は静かに応じた。
 ねぇ、そんなのサザキらしくないよ。いつもなら『ふざけんな』って言って怒るじゃない。
 けれどそうしなかったのは彼の全ての言動が―――私を想ってがゆえ、だったからだ。彼の視線は何よりも私の制止を弱くさせた。

 そんな瞳で笑わないで。優しい言葉をかけないで。……止められなくなってしまう。


 サザキを手放すことができなかった弱い私は、彼の決断を受け入れてしまった。

 

 
(でもこんなことになるのなら、あの時無理やりにでも止めていれば良かった…!)

 枕元でサザキを眺めていると、薄れることのない後悔に身を押し潰されそうになる。

 あの後、無理やりに近い形で自室へと連れ戻された私が次に目にしたのは、翼を切り落とされて血まみれになったサザキの後姿だった。
 分かってはいても、実際に目にしたその光景に私は泣き叫んでいた。その時にはもうサザキに意識はなかった。

 それからすぐに熱が出て、今日までサザキは昏睡し続けている。


 もしかしたら、サザキはこのまま死んでしまうかもしれない。この世界には抗生物質も点滴もありはしない。遠夜に貰った変若水(おちみず)を必死で飲ませてみても、サザキの容態が良くなることはなかった。
 翼を切り落としたことで―――サザキは永遠に私の側からいなくなってしまうかもしれない。


「サザキ……ごめんね…っ。私のせいで、本当にごめんね……」

 燃えるように熱い手を握り、額に持っていく。力なく投げ出された手はいつものように私の髪を撫でることもない。それでもまだサザキが生きているという温もりを感じたくて、私は大きな手のひらを頬に押し当てた。

「……っ……、ぅ……」

「……?」

 その手が―――ぴくりと身じろいだ気がした。大仰に驚いて、まじまじとサザキの顔を見つめる。すると固く閉ざされていた瞼が、苦しそうに何度か震えた。

 ゴクリと唾を飲み込む。唇が震えたが、なぜだかその名を呼ぶことができなかった。息を詰めて、永遠のように感じられるその一瞬をやり過ごす。


「…………。……ち…ひろ……?」

 やがて現れた熱にけぶった双眸と、掠れた優しい響きに―――私の涙腺は決壊した。

 

 

「……サ…ザキ……、サザキ……! …ッ、……ふ…ッ……」

 もう二度と、呼んでもらえないかと思った。もう二度と、温かい眼差しが私を見ることはないのかと思った。

 もう一度声を聞きたいのに顔を確認したいのに、私の口も瞳もうまく働いてはくれなかった。
 涙で視界がぶれて、サザキの顔が見えない。たまらず俯いた私の髪に、その時優しく触れるものがあった。


「……オレ…熱出してたんだな。姫さん、ずっと看病しててくれたのか」

「……っ……」

「あー…悪ぃ、心配かけたみたいで。……ほら、泣くなよ……。あれだ、また会えたんだから、たぶんもう大丈夫だって」

 小さく笑ったサザキが、私の目元を拭う。指先は熱かったが、それは確かにサザキの意思で動かされていた。さっきまでとは違う。
 その手に自分の手を重ね、私は強く縋りついた。


「サザキ…ッ、ごめん……ごめんね…ッ! 私が止められなかったから、私が…放してあげられなかったから、こんな…っ、ことに……」

 今さら謝っても、何になるというんだろう。サザキの翼は二度と戻ってはこない。それでも私は口にせずにはいられなかった。
 サザキが息を詰めたのがわかる。表情を強張らせた彼は、しばらくするとホッと息を吐いて小さく笑った。


 サザキがゆっくりと背中を起こそうとする。まだ熱のある身体が、バランスを失ったかのように一瞬よろけた。その背を咄嗟に支えた私は、サザキの変化にまた一つ気が付いた。

(サザキ……痩せたな。背中もまだ熱い……)

「―――姫さん、やつれたな。ちゃんと食ってたか? ただでさえ細っこいのにそれ以上痩せたら吹き飛んじまうぞ」

「……え……」

 思っていたことをそのまま返され、私は顔を上げた。すると荒い息をつきながらも、サザキがじっと私を見つめていた。鳶色の瞳に私が映り、愛おしむように細められる。


「……姫さん。あんたが謝ることは何もないぜ? あんとき言ったみたいに、オレはあんたの側にいるためなら何を失っても構わなかったんだ。だから、あんたが気にすることはない」

「サザキ……」

「ま、寝込んじまったのはちっと予想外だったけどな。でももう大丈夫だ。オレは生きてる。もうあんたの側から離れたりしない。千尋、これはオレが望んだことだから―――オレは後悔なんかしてないぜ」

「…………」


 朗らかに、本当に一片の曇りもなくサザキは笑った。私の好きな、太陽のような笑顔だ。
 サザキが腕を伸ばしてくる。意思を持った熱い身体に、私は引き寄せられるように身を委ねた。

 ―――本当にこれで良かったのだろうかと、ぼんやり考えながら。
 

 


   ◇ ◇ ◇ ◇ ◇     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

 それからのサザキは、少しずつではあるが順調に回復していった。
 熱が引き、部屋の中をリハビリがてら歩き回っていると那岐や風早に「もう少し大人しくしていれば良かったのに」などとボヤかれている。サザキはそれに怒り、そして笑った。
 いつものサザキと変わらぬ態度に、私の後悔と緊張も少しずつほぐれていった。

 それでも、傷痕が完全に癒えたわけではない。ふとした拍子にバランスを取り損ねるのか、その背が揺らいだところを何度か目撃した。そして今はもう布で隠されてしまった肩甲骨が……時折羽ばたきたさそうに動いていることを、私は知っていた。


 失った翼のことを、サザキはあれ以降一切口にはしなかった。ただ気が付くと、ぼんやりと玉垣の向こうにある空を眺めていることが何回もあった。
 サザキは無意識なのかもしれないが、その静かな瞳は私の心をきつく締め付けた。

 

 

   ◇ ◇ ◇ ◇ ◇     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

「……サザキ! もう訓練は終わったの?」

「おー、姫さん。…ったく忍人の奴、病み上がり相手に散々しごき入れてくれたぜ」

「あはっ……。配下になっちゃったんだもの、仕方ないわよ」


 その日私は回廊で、連兵場から歩いてきたサザキを見つけて駆け寄った。

 傷の塞がったサザキは、「オレにも何か仕事をさせろ」と頼み込んできた。まだ静養が必要だと私は受け流そうとしたが、サザキはサザキなりにこの王宮に馴染もうとしていたらしい。

 あの陰湿な仕打ちを提案した文官とは関わらせたくなくて、とりあえず私はまだ角が立たなさそうな軍門―――とりわけ狗奴(くな)などの異民族に寛容で、かつ統率が取れている忍人さんの軍にサザキを配属することにした。


「新入りだからって、足往(あゆき)と扱いが同列なんだぜ? っかー、32にもなって12歳のガキんちょと一緒かよ。ヘコむぜ〜」

「ふふっ…。でも忍人さんは、名目上は配下だけど将と同じように扱うって言ってたんでしょ? それをサザキが希望して他のみんなと同じ扱いにしてもらったって聞いたけど」

「……まぁな。今までは姫さんの私兵って感じで、正規の兵じゃなかったしよ。それに…陸上の戦いじゃ、オレはやっぱり初心者だからよ。今までは上からの攻撃しか考えてなかったから、ここらで正当な戦い方を覚えといた方がこの先いいだろ」

「…………。そうね……」


 自室へ向かって歩きながら、私はそっと目を伏せた。
 いくらサザキが明るく言ってくれても、こういう話題になるとどう返したらいいのか分からなくなってしまう。それを察したのか、サザキはがらりと話題を変えて今日の出来事などを面白く語った。


「―――でさ、そんとき那岐がやって来てよー」

「うんうん」

 回廊ですれ違う臣たちが、無言で目礼をしていく。
 あの日以降、声高にサザキの存在を非難するものは王宮内にはいなくなった。それでも私たちに向けられる臣の眼差しは、とても温かいとは言いがたい。

 だけど表面上のことだけだったとしても、もう誰にも文句は言わせない。控えめに気遣わしげな視線を向けたサザキを引っ張って、私は堂々と宮中を歩いた。


 この回廊をまっすぐ進めば、後はもう私の部屋しかない。早く二人きりになりたくて、早くサザキを臣の視線から解放したくて、私の足は急いた。その時―――


『―――おお、王がたぶらかされておるわ。翼を失ったとて異民族には変わりないのに、よくも手元に置かれる』


「……!」

 回廊の片隅から聞こえた、悪辣な視線と言葉。明らかに聞こえると分かっていて発された言葉に、私は眉を寄せた。


『いや、案外情けをかけられることが分かっていたからこそ、切り落としたのかもしれませぬぞ。翼など所詮付属品でしかありませんからのう』

『あの者の安い演技に王も骨抜きというわけか。ま、珍重なものを愛でる気持ちは分からないでもないがな。それに鳥人は色々と激しいようであるし―――』


「……あいつら……。不敬もいいところだ」

 サザキの声色がすっと下がった。自分への罵声よりも私への暴言に反応した彼を制し、私は服の裾を引っ張った。

「……行こう。あんなの、聞くことなんかない」

「でも姫さ―――」

「いいから」


 サザキの腕を取り、見せ付けるように腕を組んで歩き出す。こんなところを狭井君あたりが見たら、何と言うだろうか。……きっと眉をひそめて、汚いものでも見るかのように私たちを見るに違いない。
 私は大股で自室に入ると、回廊へと続く扉を固く閉ざした。

 

 信用されてないことなんか分かってる。受け入れられてないことだって分かってる。

 でも、あなたたちに私たちを責める権利がどこにあると言うの?

 もう離れたくない。もう失いたくない。
 この牢獄のような場所からサザキが消えてしまったら―――今度こそ私は生きていけない。

 

「姫さ―――ぉわッ!?」

 扉を閉めて振り向いた瞬間、私は噛み付くようにサザキに口付けた。
 腕を回せば、翼がなくなった分しっかりとその背中を抱きしめることができる。飢えたようなキスを繰り返し、私は荒い息と共にサザキの唇を解放した。

「……サザキ……」

「……千、尋……」

 上目遣いに見上げると、サザキの困惑した眼差しが振ってきた。それを遮るように瞳を閉じ、キスをせがむ。そうすると恐る恐る応えてくれることを、私は今までの経験から知っていた。
 サザキが私を突っぱねることはない。だから今夜も、私は褥にサザキを誘った。


 サザキが回復してから、私は彼と関係を持つことを幾度となくねだった。

 未婚の女王相手…正式に認められた仲でもなく、まして自分は臣たちに厭われているからと、サザキは最初、私の誘いに乗ってはこなかった。
 『あんたのことは大事にしたいから』『そんなに焦る必要はない』サザキはそう言ってくれた。その言葉自体は私も素直に嬉しかった。

 だけど私は焦っていた。いつかサザキはここからまた飛び立っていってしまうのではないか。私を置いて、この窮屈な橿原宮(かしはらのみや)から突然いなくなってしまうのではないかと、恐れていた。怖かった。

 だから私は―――自分が唯一持っているものを差し出した。それ以外に、彼を繋ぎとめる手段が思い浮かばなかった。


 サザキはいつも優しい。閨の中ですら、私を労わり続けてくれる。
 その優しさが心地良くて、同時に私はもどかしかった。

 昂ぶらされて、彼の背中に爪を立てた。大きく羽ばたく翼はもうない。根元に残った傷痕が小さく盛り上がり、そのいびつさに私は心で泣いた。








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はじめましての方ははじめまして。いつもお馴染みの方は、えーと…スミマセン。
本来のジャンルの連載を放っぽって、突発的に書いてしまいました。
クリア直後の今のテンションでなければこの先書けないと思いましたので、
短い期間になると思いますがお付き合い頂ければ幸いです。

はい、それにしても暗いですねー(笑)。作風です。
あの物悲しいエンドの後、二人がどうなったのかの妄想が働いたらこうなりました。
千尋が弱いかもしれませんが、あの選択を受け入れたらこれぐらいにはなるかな…なんて。
希望はある…はず…。

(2008.7.17)