「―――高千穂の視察?」

「ええ。あなたも王となられてから早一年弱。そろそろ国内を見て回られても良い頃合いかと思いまして」

 ある日狭井君に呼び出された私は、その口から紡がれた懐かしい地名に目を丸くした。


「えっと…またあそこに行けるのは嬉しいんですけど、どうして今なんですか? 常世との戦もまだ終わってないのに……」

 高千穂といえば、サザキ以外の日向の一族が天鳥船(あまつとりのふね)で再び帰っていった場所だ。ここ橿原宮(かしはらのみや)から遠く離れた場所にいるかつての仲間たちを思い、私の口は一瞬緩みそうになった。それを慌てて引き締め、疑問をそのまま口にする。

「今だからですよ、陛下。この一年、あなたの統治のおかげで優秀な兵が集まり、常世との争いも決して劣勢とは言えない状況になってきました。ですがまだ決定的な勢いに欠けるのも事実。そこで陛下には高千穂一帯から兵を募り、士気を鼓舞してきて頂きたいのです」

「…………」

 にっこりと笑った狭井君の真意は、一年前と同様に簡単には見えない。食えない臣下の顔をじっと見つめ、私は口を開いた。


「本当に理由はそれだけ? 他にも何か考えてるんじゃないですか」

「まぁ…嬉しいことですね、陛下。言葉の裏を読めてこそ、本当の君主というものです。……ええ、兵を募るのは表向きの用件に過ぎません。もう一つの狙いは、高千穂に根強く残る反体制派…日向の一族の動向を、探って頂きたいのです。あなたならば、彼らも話を聞いてくれるでしょうから」

「……日向のみんなの……」

 薄い笑みを浮かべた狭井君に対して、私は憮然とした表情を向けてしまった。
 ……そんなところだろうとは思った。聞かなければ良かったと顔に出した私に、狭井君は慈愛にも似た笑みを貼り付けた。

「再び臣従させられるならそれに越したことはないですが、万が一にでも常世側につくようなことがあっては一大事ですからね。もしそのような兆候があるならば……陛下、分かりますね。葛城将軍を同行させる意味が」

「…………」

 中立から反対勢力へと転じるならば、一族諸共滅ぼすのも辞さないということか。
 私の不快な表情も気にせず、狭井君は話を続けた。


「先に言っておきますが、『行かない』…という選択肢はないものと思って下さい。陛下が行かれないのなら私の配下を向かわせます。話が通じるかは怪しいところですが」

「脅しのつもりですか。……言われなくても行きます。話もせずに攻撃するようでは、常世が支配していた頃と変わりませんから」

 私は狭井君を睨み付けると踵を返した。暗い気分で部屋を出ようした私に、背後から声がかけられる。


「お待ち下さい陛下。……あの者に、今回の視察について伝えてはなりませんよ」

「……サザキにですか?」

「ええ。同行するのも言うまでもありません。これ以上、何か間違いがあっては困りますから」 

 振り返った私に狭井君の言葉が突き刺さる。短く息を吸って、私は聞きたくない疑問を口にした。

「間違いって……サザキが日向のみんなに合流するとでも言うんですか。それとも私が一緒についていくとでも?」

「…………」

 狭井君は答えない。ただわずかに口角が上がり、その微笑に私の中の何かが切れた。

 ―――信用されていない。サザキも、私も。
 これだけ国を思って毎日生きているのに、この人が見ているのは国のあり方だけであって、個としての私たちは必要とされていない。信頼すらされず、ただ国が傾かないようにと監視されている。


「……出立は三日後ですね。急ぎ支度を整えます」

 震える唇でそれだけを告げると、私は振り返らずに狭井君の部屋を出た。

 

 

「明日出発か。天鳥船もないのに吉備たぁ遠いが、気をつけて行けよ」

「あ……うん」

 出立前夜。しばらく離れる前に存分に抱き合った私たちは、眠るか眠らないかの瀬戸際で静かな会話を交わしていた。サザキの腕の中でまどろんでいた私は、彼の漏らした言葉に一瞬反応し、ごまかすような笑みを浮かべた。

 サザキには今回の目的地は吉備だと告げてある。騙しているという事実に胸がちくりと痛んだが、本当のことは明かせなかった。


「しっかし心配だぜ。オレも付いていきたいが、こればっかりは命令だからな。従うしかねぇか」

「大丈夫だよ。忍人さんも那岐も同行するし。吉備は行ったことなかったから、楽しみだな」

 決まり悪そうに頭をかいたサザキに、私は笑みを浮かべた。するとサザキの手が私の頭にかかり、金色の髪を梳いて流した。


「……姫さん、ずいぶん髪が伸びたな。もう結べるんじゃないか?」

「え? ああ、そうだね…まだ三つ編みはできないけど、なんとかポニーテールくらいは……」

 優しい手つきに導かれるように、私は髪を持ち上げた。後頭部まで持っていき、指で輪を作って止める。私を見つめるサザキが、眩しそうに目を細めた。

「ああ、懐かしいな。まるで出会った頃のあんたみたいだ」

「…………」

 その口調に、ズキリと胸が痛んだ。
 出会った頃は―――私はまだ姫でしかなくて、その姫としての立場さえよく理解していなかった。サザキも自由に空を飛びまわっていて、お互い今みたいに地位と場所に縛られてはいなかった。


「髪…長いほうが好きだった? あの頃みたいに……」

「いんや? オレはどっちだって可愛いと思うぜ。たとえ姫さんが坊主になろうと、オレがあんたのことを好きだってのは変わらねぇさ」

「もう……恥ずかしいよ」

 そう言って私は笑うと、彼の長い赤髪にキスを落とした。

 

 

   ◇ ◇ ◇ ◇ ◇     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

「ああ、サザキ。今日は訓練もないのかい?」

「お、久しぶりだな風早。……忍人が姫さんと行っちまったからな、しばらくはのんびりさせてもらうさ」

 千尋が高千穂へと旅立って数日。真実を知らぬサザキは、宮中の回廊で風早とすれ違った。


「しっかしあんたも置いてかれたのか。従者ならいつも一緒だと思ったんだがな」

「俺はこっちで仕事があったから。高千穂に行くのは心配だけど、まぁ忍人も一緒だし危ないことは―――」

「……? 姫さん行ったのって吉備だろ? なんで高千穂……」

「え……。―――ッ」

 きょとんと聞き返した風早の顔が強張る。「しまった」と浮かべた彼にサザキは詰め寄った。


「……どういうことだ。姫さん、高千穂に行ったのか」

「……君は聞いていなかったんだね。おそらく千尋は口止めされていたんだろう。今聞いたのは忘れてくれ…と言っても無理か」

「…………」


 ―――今になって、気付く。そうだ、千尋は出立前、確かに少し様子がおかしかった。ぎこちない雰囲気は久々の旅を控えて緊張しているためと思っていたが―――。


「なんで…オレに言わなかったんだ。知ってれば、同行して守ってやれたのに……。くそっ」

 踵を返し、門に向かって駆け出そうとする。その背を風早の厳しい声が止めた。

「今から追いかけるつもりかい? ……そんなことをして何になる。騒ぎになるだけだよ。忍人も那岐もついてるし、おそらくこの件は狭井君あたりが提案したことだろう。なぜ君に知らせなかったか―――君にだって分かるはずだ」

「……っ」

 静かな瞳におされ、足が踏みとどまる。風早はふいに眦を強めると、サザキをじっと見据えた。

「いい機会だから、言っておこうと思う。……少し、千尋から距離を取った方がいいんじゃないか。君がいなくなったら今度こそ千尋は立ち直れないだろうけど、側にいすぎても逆に彼女を苦しめることになる。……立場だけの問題じゃない。君と距離が近づくほど、千尋は後悔に苛まれる。それは見ていて……俺もつらい」

「…………」

「それでできれば、結婚するまでもう彼女を抱かないでほしい。君たちについて良くない噂が広まり始めている。千尋が強く望むのかもしれないけど、王としての彼女を尊重するなら色事に依存させないでやってほしい」


 真摯な眼差しの奥には、隠しきれない苦悩が宿っている。
 サザキと立場は違っても、風早が千尋のことを真剣に案じているのは言うまでもなく分かる。風早の言葉は、これまでにサザキが何度も自問してきたことと同じだった。

 周囲の臣に助けられ、千尋はよく国を導いている。戦で混乱していた国政も軌道に乗り始め、おそらくあと一年もしない間に常世との決着がつくだろう。

 だが国が安定するほどに、『千尋』という一人の少女の存在は否応なく希薄になっていく。不安定な精神を政とサザキへの執着に向けることでなんとか安定を保っているが、心身が徐々に磨り減っているのは火を見るより明らかだった。
 身体が近付けば近付くほどに、心が離れていく気がする。

(そういえば姫さんの本当に笑った顔、最近見てねえな……)
 

「こんなことを言って……本当にすまない。君が千尋に示してくれた忠義と愛情を疑うことはないけれど、今の状態は見ていられなくてね。気に障ったら忘れてくれ」

「いや…あんたの言うとおりだ。オレもそろそろ、どうにかしなきゃいけねえな……」

 風早と視線を合わせ、サザキは苦笑した。……情けない。惚れた女の心一つさえ守ってやれないとは。
 サザキは背を向けると、今度は千尋の部屋ではなく始めに宛がわれた自室に向かって歩き出した。


「……サザキ」

「んあ?」

「この国は再生の道を歩み始めている。今ならばたとえ王一人が欠けたところで―――」

「………。あんたにそう言われるとは思わなかったな。誰か聞いてるかも分からねぇから、それ以上は言うな。……でも、ありがとな」

「……いや」

「……なぁあんた、時々何もかもが分かってるような目をすることがあるな。ほんとにオレより六つも年下か? 柊みてーに、未来が視えてるみたいな言い方をする」

 風早が目を丸くする。その顔に少しだけ興味を覚えたが、サザキは肩を竦めると今度こそ歩き始めた。


 ―――二人が選んだ道は、確かにどこかで曲がってしまったのかもしれない。けれどそれがこの先、必ずしも暗闇へ続くとは限らないと風早は思った。


「ねえ千尋。あなたたちはこの時空で、幸福を掴めるはずなんですよ。……今ならばまだ、遅くはない……」

 風早の呟きは風に流れ、サザキの耳に届くことはなかった。

 

 

   ◇ ◇ ◇ ◇ ◇     ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

 

 

「え……カリガネ、いないの?」

 出立から一月近くが過ぎた頃、諸事を済ませた私は忍人さんたちと共に阿蘇の天鳥船までやってきた。
 懐かしい船内には何人かの日向の仲間が残っていて、忙しく動き回っていた。けれど今の船長であるカリガネの姿が見えない。

 サザキの翼が切り落とされたことをカリガネから聞いていたらしい仲間たちは、困惑の眼差しで私たちを見やった。けれどカリガネに会いたいだけで他意はないことを伝えると、従者を忍人さんだけにすることを条件に、しぶしぶ彼の居場所を教えてくれた。


「すごい…、船だわ……」

 翌日、私と忍人さんは阿蘇の西方にある湾まで馬で駆け、そこに停泊していた立派な船に目を瞬いた。出航準備をしているのだろう。新しい船に水樽や食料が積み込まれていく。
 きびきびと作業をしている日向の一族の中に目立つ姿を捉え、私はゆっくりと歩み出た。私に気付いたその人が、無表情の下に驚きを浮かべた。

「君は……」

「久しぶり、カリガネ。……高千穂に視察に来たから、寄らせてもらったの」

 


 真新しい船内に一人案内された私は、船室でカリガネと向かい合って座った。
 狭い室内は沈黙で満たされた。カリガネはもう、あの頃のような眼差しでは私を見ない。居心地の悪さに胸を塞がれながら、私は手をついて頭を下げた。

「……?」

「あの時は……本当にごめんなさい。サザキと引き離されて、無理やり王宮から締め出されたと後になって聞いたわ。手紙だけじゃなくて、ちゃんと会って謝りたかったの。今さらと思うだろうけど……」

「……顔を上げろ。王がそんなに簡単に頭を下げていいのか」

 静かな言葉に促され、顔を上げる。カリガネは少々困惑した顔で私を見下ろしていた。
 私は口を引き結び、かみ締めるように告げた。

「関係ないよ。誰も見てないのに王も姫もない。……王として国の名代で来たんじゃないもの。葦原千尋が、カリガネと日向の民みんなに謝りたくて来たんだよ」

「…………」

 カリガネは声を発さなかった。ただ小さく息をつき、少しだけ姿勢を崩した。


「……あいつの容態は」

「……うん、随分元気になったよ。この前忍人さんの軍に入隊して、厳しい訓練についていってる。もう実践に戻ってもいいって、忍人さんも言ってた」

「……そうか」

 カリガネが視線を伏せる。しばらく沈黙が落ちて、私は口を開きかけた。だがまたすぐに閉ざし、息を吐き出す。

 ……何か。何かを言葉にしたかった。吐き出したいのか、願いたいのか、自分でもよく分からない。胸を押される感覚があるが、言葉は喉で引っかかったままで発されることはなかった。


「……後悔しているのか。それとも、気にかかることがあるのか」

「……っ」

 私の逡巡に気付いたのだろう。カリガネが探るような視線を向けた。喉のつかえがひどくなる。私は二、三度呼吸を繰り返すと、掠れた声を絞り出した。


「後悔…なんて……、今さらしたって遅いよ。どんなに願ったってもう、翼は戻ってこないんだから……」

 カリガネは応えない。その沈黙が非難を孕んでいるような気がして、私は耐えられずに言葉を重ねた。

「サザキ、やっぱり王宮は窮屈そうで……もう開放してあげたいと思うのに、翼がなければここに戻ることもできない。だけど一番最悪なのは、そう思うことでサザキを王宮に留めている私自身だわ―――!」


 胸のつまりを吐き出した私は、そのまま項垂れた。……認めてしまった、自分自身の過ち。

 サザキと離れてみてよく分かった。今までどれほど彼の存在に依存してきたかを。
 離れては生きていけないと思った。けれどこうして距離を置いても、王として生きていくことに支障はない。それでも彼を留めようとするのは、私の甘えにしか過ぎない。

 断罪を待つように、カリガネの反応を待つ。軽蔑しているだろう、怒りもきっとあるだろう。
 だが沈黙の後にカリガネが発したのは、予想外の言葉だった。


「…………船が、出る」

「……え? あ、ああ……。とうとう念願の船を取り戻せたのね。これでまた海に出られるね」

「……橿原宮から、法外な恩賞が出た」

「……そう、だったの……」

 それは知らなかった。『これで手を打ち、刃向かうな』という意味か。自分の知らぬ間に行われていた取引に私は唇を噛んだ。だが続くカリガネの言葉に、私は勢いよく顔を上げた。


「……これから十日の後に、浪速(今の大阪)の港に船を着ける。……橿原宮からでも十分徒歩で来られるはずだ。船長室は、空けてある」

「…ッ!」

「……天鳥船で王宮の付近まで送ろう。ついて来い」

 言葉を反芻する前にカリガネが立ち上がり、私を船の外へと導く。
 それから天鳥船までの道中、私はカリガネの言葉を何度も頭の中で繰り返していた。

 


「ここからは仲間に送らせる。……道中、無事に過ごしてくれ。中つ国のやり方は気に入らないが、君とサザキが息災でとりあえずは良かった」

「カリガネ……色々ありがとう。なるべく早く、戦が終わるようにするから」

 天鳥船の前で、供の臣たちを先に乗せた私はカリガネと最後の挨拶を交わした。
 忍人さんに引き続いて船に乗り込もうとする。するとカリガネが一歩進み出て、静かに私を呼んだ。


「……二の姫。我らは、翼があるから日向の民と呼ばれるのではない。陸、人…何ものにも縛られぬ自由な魂を持つがゆえに、我らは日向なのだ。たとえ翼を失おうと、あいつが誰よりも日向の民であることには変わりない」
 

 その言葉は、私の胸を強く打った。

 

 


 天鳥船の懐かしい堅庭で、風に吹かれて彼を想う。
 舞い上がる髪を押さえると、出立の前夜に触れられた手の感触を思い出した。


「何ものにも縛られぬ、自由な魂……」


 私は懐から懐剣を取り出すと、それを首筋に押し当てた。
 ふつりという感覚と共に長くなった金の髪が切れて、高千穂の夜空へと舞っていった。

 

 一つの決意を内包し、船は一路、橿原宮を目指す―――。

 






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前後編で終わると思ったら、思いがけず長くなったので一話増やしました。
久々に長時間打ち込んでいたら、前腕が痛くなった…。筆力も筋力も落ちるの早すぎる…。

(2008.7.19)