14、穏やかな日常



 森で一夜を過ごした たちは藍閃へ向けて歩みを進めた。
 すっきりしたというよりはどこか釈然としない気分だったが、とりあえずはコノエの呪いも解けたようだし、自分の賛牙としての力が発動した理由も一部は解明されたため、 はなんとなく脱力して歩いていた。

 ふと隣を見ると、コノエもどこかホッとしたような顔をしている。事態が解決したわけでも好転したわけでもないが、その追い詰められたような緊張感が幾分か緩んだ顔に はホッと息をついた。

「これから君たちはどうするの?」

  がフードの下から穏やかに声を掛けると、コノエが振り向く。数秒考え込むように耳を伏せると、コノエは顔を上げた。

「とりあえず、藍閃に戻ってリークスの出方を待ってみる。本当に呪いが解けたかどうかも分からないし。……アンタはどうするんだ?」

 今度は が問われる番らしい。 は手を顎に当てると「うーん」と唸った。

「私もとりあえず宿に戻って、悪魔やリークスについて調べてみるわ。賛牙の力の事も知りたいし、なんだか私も無関係ではないみたいだしね。私で役立つ事があれば協力させて欲しい」

  がそう答えると、コノエは逆に考え込むように目を伏せた。

「でも、アンタだって目的があって藍閃に来てるのに。それに危険だ」

「私の職探しなんて今は後回しでいいのよ。君の呪いの事も、私の力の事も、放っておいたままじゃ他の事なんて手に付かないもの。私が望むから関わるんだって言ったでしょ。……それに何をしてたって、もう既に追われてる身なんだから危険なのは一緒よ。だったら核心に近付けた方がいい」

  が肩をすくめて明るく言うと、コノエは一瞬辛そうな顔をした。――しまった、追われるとか言ったのはまずかったか。 はさりげなく話題を変えることにした。


「それよりも、耳――本当はそういう色だったのね」

  がコノエの頭を見て言うと、コノエは驚いたようだった。思案するように耳を揺らすと、何故か眉をひそめる。

「なんだよ。アンタも、子供っぽい色だって言いたいのかよ」

 この台詞には が目を丸くした。先程ライに「幼い色だ」とからかわれた事を気にしているのか。その拗ねたような口調に は思わず口元を緩めた。

「違うわよ。アサトも言ってたじゃない、いい色だって。私もそう思う。優しい色で好きだな」

「……ッ」

  の言葉にコノエの顔がサッと染まる。それには気付かず、 は言葉を続けた。

「それに尻尾……鉤尻尾なのね」

  が笑いかけると、コノエは途端に暗い顔をして尾を丸めた。そのまま恥じるように俯くのを は瞠目して見つめた。

「……鉤尻尾なんて、みっともないだろ。俺は嫌いだ」

「どうして? 素敵じゃない」

「どこがいいんだよ。……アンタみたいに真っ直ぐな方が絶対良かった」

「そうかなあ……。でも私はその尻尾好きだな、うん」

  が一人勝手に納得すると、コノエは俯いたまま尾をせわしなく振った。そしてしばらく沈黙した後、頬を染めてポツリと呟いた。

「……物好きだな、アンタ」

「それならそれでいいわよ。――でも、良かったわね」

「?」

 目を細めて が言うと、コノエは問うように視線を向けた。もう隠す必要のなくなったその姿を見て、 は口を開いた。

「フード、取れて。もう堂々と歩けるわね。とりあえずは良かったと思って」

「……ッ。――アンタが、まだ取れていない」

「え?」

「アンタも…ッ、顔、隠さなくていいようになったらいい。俺だけじゃなくてアンタも自由にならなきゃ、終わりじゃない」

「…………」

 振り絞るようなコノエの発言の意味を受け取りかねて は一瞬きょとんとしたが、やがてそれを理解した。その言葉は、さざ波のように の心に染みていった。

「……ありがとう」

 こんな時でも他人の事を思いやれるその優しい心根に胸を打たれ、 は目を伏せると小さく口を開いた。





 
 結局コノエたちも再びバルドの宿へ赴く事になり、藍閃入りして数分後、 はようやく帰るべき宿へと辿り着いた。
 数日のうちに随分と色々な事があった。感慨すら抱きながら扉を開けると、カウンターには懐かしい縞猫が相変わらずやる気なさげに腰掛けていた。


「? お……。あんた、一体どこ行ってたんだ。森で野垂れ死んでるんじゃないかって思ってたんだぞ」

「ゴメ――、……?」

  に気付いたバルドが少し怒ったように言ってくる。それに謝ろうと は頭を下げたが、妙な殺気を感じて背後を振り向いた。

「……何故貴様がここにいる」

 殺気を露わにしたライがバルドを睨んでいる。 はコノエと共に、突然勃発した二匹の遣り取りを固唾を呑んで見守った。

 どうやら、二匹は昔からの知り合いらしい。が、どうもライの方が一方的にバルドを嫌って――というか、憎んですらいるようだ。
 この白猫がここまで嫌悪の感情を露わにするとは思わず、 は目を見開いた。

「……あの悪いクセ、まだ治ってないのか?」

 バルドの一言にライが静かに激昂する。だが他に空いている宿はないとのバルドの言葉に、足音も荒くライは階段を上っていってしまった。コノエが慌てて後に続く。
  は一連の遣り取りを呆然として見送り、ゆるゆるとバルドの方を向いた。


「……知り合い、だったの?」

「知り合いも何も、生まれた頃から知ってる。それより、あんたたちも知り合いだったのか。世界は狭いな」

「ううん、私もこの前知り合ったばかりだけど――」

 悪いクセとはなんだろう。生まれた頃から知っているくせに、なぜそんなに仲が険悪なのか――
 聞いてみたいことは沢山あったが、まず第一に言うべき事をハッと思い出し は顔を上げた。

「あの、ごめんなさい……。勝手に留守にして、何日も手伝えなかった」

 一度契約したのに、ほとんど手伝えずに無断で外出するなど恩知らずもいいところだ。たとえ理由があっても、それはバルドには関係ないことだ。ここはきっちりと謝らねばならないところだった。
  が深々と頭を下げると、バルドは驚いたように目を瞬いた。

「おいおい、頭上げろよ。……別にいいさ、無事だったなら。また今夜から手伝ってくれればそれでいい。明日から暗冬だしな」

「うん。ちゃんと仕事するから」

「ま、適当にやってくれよ。それから、何本か研ぎ物を頼まれたから部屋に置いといたぞ」

 バルドはひらひらと手を振ると、鍵を投げ渡した。そのまま帳簿に目をやるバルドに は感謝して声を掛けた。

「……ありがと。アンタ、結構いい猫ね」

「あ? ……あんたな、そういう発言は誤解を招くから控えた方がいいぞ」

「?」

 訳が分からず は首を傾げると、踵を返して階段を上り始めた。






 自室で荷物整理などをした は疲労にそのまま眠り込みそうになったが、今寝たら絶対に朝まで起きられない。 は一念発起すると立ち上がって宣言した。

「――よし! 水浴び行こう!」

 確か宿の裏手に水浴び場があったはずだ。旅の間もこまめに毛づくろいはしていたが、さすがにそろそろ隅々まで洗い上げたい。
  は衣服などをまとめると、勇んで人気のない水浴び場へと乗り込んだ。くたびれた外見の小屋の戸を勢いよく開ける。


「…………」

「…………」

 小屋には先客がいた。
 青い瞳、濡れて身体に張り付いた白い髪、水が滴る白い肌、濡れそぼった尾――

「……ッ!? ご、ごごごゴメン!!」

 目を見開いて数秒固まった だったが、我に返ると音を立てて扉を閉めた。取っ手を掴んだまま、あわあわと口を動かす。
 なんだ今のは。なんだ今のは。なんだ今のは――!

(どうしてライがこんなところに…ていうかなんで鍵掛けてないの…!? じゃなくてじゃなくて――!)

「見ちゃった……」

  はガックリと扉の前にへたり込んだ。扉に手をつけて、乱れた呼吸を鎮める。膝に顔をうずめると尋常ではない火照りを感じた。

(あああ……なんで確認しなかったの私のバカ! ……うう、どうしよう……)

 ひとしきり動揺すると、 は腕を組んで小屋の前を回り始めた。ここは謝るべきか、それともそ知らぬ顔をして逃げるべきか。
 ――今、顔を合わせて謝罪するのは正直言って物凄く恥ずかしい。というかライだって怒っているだろう。

 だが確認せずに飛び込んだのは自分だし、何も言わずに逃げるのはあまりに卑怯な気がした。これは絶対的に自分が悪い。 は腹をくくるとライが出てくるのを待った。

 そういえばライは、旅の間もまめに毛づくろいをしていた。いつも身綺麗にしているし、もしかしたら毛づくろいや水浴びが好きなのかもしれない。そんな事を が考えていると、小屋の扉が静かに開いた。


「…………」

「…………。ごめんなさい……」

 静かな気配に思わず圧されそうになったが、 は耳と尾を下げて悄然と謝った。さすがに顔を上げる勇気はなかった。ライが溜息をつく気配がする。

「……他には」

「あの、申し訳ありませんでした……」

「違う」

「……確認しなくてゴメン……?」

 怪訝に思い、思わず顔を上げるとライは を見下ろしていた。その視線に先程の光景を思い出し、不覚にも頬が染まる。

「……それも違う」

「?? えと……じゃあ、お詫びに私のも見る……?」

「馬鹿かお前は! だからよく考えて発言しろと言っている、阿呆猫!」

 困り果てた が口にした言葉に、すかさずライから叱責が飛ぶ。思わず は首をすくめた。

「冗談だってば……。ゴメン、分からない。なに?」

「……まったく。確かに確認はすべきだが鍵を掛けていなかった俺にも責任はある。それだけだ」

「!?」

 ライが謝った。その事実に がポカンとすると、ライはさっさと の脇を通り抜けた。

「――鍵はしっかり掛けておけ」

 それだけ告げて、白猫がその場を去る。その親切ともいえる忠告に は呆然とすると、よく回らない頭で「はぁい……」と気の抜けた返事を返した。





 水浴び場の中は、ほのかに暖かかった。ぼんやりと残るライの残り香に気を乱されそうになり、 は水を汲むと修行僧のごとく頭から勢いよくかぶった。

 それからは隅々まで身体を磨いた。父の死後に色々ありすぎて、以前よりも身体は幾分か痩せたように思う。
 だが健康だ。今のところ失躯にかかる気配もない。その事に感謝して、 は丁寧に身体を流した。

 入浴ついでに洗濯物も洗うことにした。ふと上着に付いた黒い染みを見つけ、これは何だろうかと考えるとあの日の光景に行き当たった。これは、ウルの血だ。
 少量こびりついた血を無言で眺めると、 は石鹸をつけて上着を洗い始めた。

 服を洗ったところで、心の中まできれいに消える訳ではない。今も の胸の中でウルは血を流し続け、キルは憎しみを込めた瞳で を見つめてくる。
 だがそれで良かった。忘れることは許されないし、 も忘れたくなかった。償えるものではないが、殺した側の最低限の責務だと思った。
 二匹の姿を思い浮かべ、 は上着を静かに擦った。




 さっぱりとした気持ちで水浴びを終えると、 は「ありゃ?」と間抜けな声を上げた。身体を拭くために持ってきた布がないのだ。

 これは、どうやら先ほど動転して小屋の外に落としてきてしまったのかもしれない。
 とりあえず周囲に猫がいないか確認して取りに行こう。そう思い、 は鍵を外すと取っ手に手を掛けた。しかし が力を加えることなく扉は向こうからひとりでに開いた。

「…………」

「…………」

 手を中途半端な高さで止めた一糸纏わぬ と、闖入者――コノエが無言で見つめ合う。 がその顔を唖然として見ていると、首から順に物凄い勢いでコノエの顔が朱色に染まっていった。

「ゴゴゴ、ゴメンッ!!」

 バタンと音を立てて、目前の扉が閉まる。その風圧に押され、 もようやく我に返った。
 なんというか――なんという日だろう。もう照れるとか驚くという次元を超えて、 はたまらず吹き出した。



   




 一方コノエはその頃、先程の と同様に扉の前で頭を抱えていた。

(なに……やってるんだ俺……!)

 思わず確認せず扉を開けてしまったが、もしかしなくても自分は大変な事をしてしまったのではないか。
 先程の の様子を思い出し、コノエは苦悩した。もしかすると呪いを掛けられた時以上にコノエは動揺した。

 目を見開いた 。濡れた金の髪、白い肌、細い腰、意外と豊かな――


 そこまで思い出し、慌ててコノエは頭を大きく振った。――何を思い出しているんだ! 
 少しして、後悔に身を苛まれるコノエの前で扉が小さく開いた。中から白い腕が飛び出してひらひらと振られている。

「コノエ、いる? いたらそこに布が落ちてないかな。拾って欲しいんだけど」

 その腕の意外な白さに再びギクリとしながらも、コノエの目は小屋の周囲を探った。それらしき布を見つけると細い腕に手渡す。「ありがと」と告げて扉は再び閉まった。


 その後、立ち去るべきか否か迷ってうろつくコノエの前で、扉がゆっくりと開いた。 が出てくる。コノエは覚悟を決めると の前に立った。さすがに顔は、上げられなかった。

「……本当に……ゴメン」

「……うん、まあ仕方ないわよ。むしろ因果応報というか――」

  の言葉にコノエは首を傾げたが、慌てて言葉を付け足した。

「でもあの……俺、見てないから――!」

「…………」

  が「いやさすがにそれは無理があるだろう」と内心で突っ込みを入れたのには気付かず、コノエはますます耳と尾を下げた。それを見た がフッと笑う気配がする。

「……別に怒ってないから。お互い気にしない、そして忘れる。これでおあいこよ」

 どうやら は怒ってはいないようだ。しかし逆にその事に申し訳なさを感じて、再び深く項垂れたコノエの頭にポンと触れるものがあった。

「ちゃんと鍵は掛けなさいよ」

 驚いて顔を上げると、横を通り過ぎた の手が離れていくところだった。立ち去る をコノエは呆然として見送る。

 小さいけれど、温かい手だった。
 だがしかしその手の印象を追うと、どうしても先程の光景に辿り着く。


 コノエは小屋に入り服を脱ぎ捨てると、水を汲み頭から思い切りかぶった。
 あたかも、修行僧のように。







 

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