15、器用な手
がどこかドッと疲れた気分で宿の扉をくぐると、バルドが声を掛けてきた。
「おー。どうだった、水浴び。意外と使えるだろ、鍵も掛かるし」
「ああ、うん、そうね……。色々と楽しかったわ……」
が投げやりに応えると、バルドがカウンターから身を乗り出した。
「おいおい、何だか疲れてるなあんた。……というか、髪くらいちゃんと拭いてこいよ。フード濡れてるぞ」
「え。あーホントだ……」
が前髪をつまむと、指先を水滴が伝った。それを見てバルドが呆れた調子で
の腕を掴んだ。
「ちょっとこっち来い。そのままじゃ風邪ひくぞ」
「ええ? 大丈夫よ。ちゃんと拭くから――」
「いいから来い。明日から暗冬なのに従業員に風邪なんてひかれてたまるか」
がバルドに引きずられていくと、厨房の奥の部屋に放り込まれた。……ここは、確かバルドの私室だ。 古ぼけた椅子を示されて渋々座ると、突然後ろから白いもので視界を埋め尽くされた。
「わ! 何!?」
驚いた
が振り向こうとすると、今度は布の上から頭皮をかき回された。――どうやら拭いてくれるらしい。
「自分で拭くから――!」
が慌てて叫ぶと、「いいから拭かれていろよ」とバルドが笑い含みの声で言ってきた。この強引さは、誰かに対しても感じた事がある。ただし、受ける印象はまるで異なるけれど。 息を吸うと、布から陽の月の匂いがした。これは、光の下で干さなければ出ない香りだ。オヤジのくせに意外なところでマメな雄だ。
はさりげなく失礼な事を考えた。
抵抗するのも面倒で黙って身を任せていると、これはこれで気持ちがいい気がしてきた。 バルドの指は絶妙な力加減で、頭皮を優しくほぐしていく。基本的に、手先の器用な性質なのだろう。そういえば料理の味付けも絶妙だった……などと
が思っていると布が取り払われた。どうやら拭き終わったらしい。 だが、バルドの仕打ちはそれで終わりではなかった。
「いったぁ! ……何すんのよ!」
次に頭皮を襲った突然の痛みに、
は頭を抑えて目を剥いた。きょとんと両手を挙げたバルドの手に握られているのは、鳥唄では見掛けるのも珍しかったブラシだ。
「悪いね。あんまり絡まってたから、力加減を間違えた」
「ハゲたらどうすんのよ! ていうかそこまでしなくていいから!」
が叫んで立ち上がろうとすると、肩を押されて再び座らされた。見上げたバルドがにやりと笑う。
「いいのか? あんた、相当ヤバいぞ」
「……ヤバい?」
不穏なバルドの言葉に、
が眉をひそめる。何がそんなにやばいと言うのか。
「年頃の雌なのに、髪はグシャグシャ、服には血がこびり付いて、よれよれの体で帰って来る」
「な……」
が黙り込んだのは、バルドの言葉が事実だったからだ。客観的に見たら確かにそういう風に見えただろう。
「……私、そんなにヤバい?」
「ああ、ヤバいな」
恐る恐る尋ねた
に、バルドは即答した。
は衝撃を受けた。とてつもなくショックだった。 一応雌として、旅の間もそれなりに綺麗にはしてきたつもりだった。だが一般的な猫の視点から見ると(バルドが一般的かどうかははなはだ怪しいが)そんなにみっともない姿だったのか。
は項垂れた。
「じゃあ、それ貸してよ。……自分で梳くから」
「アンタの部屋、カガミないだろう。いいから俺に任せろよ。間違いなく最高の仕上がりになるぞ」
がブラシを取ろうとすると、肩をやんわりと押さえ付けられた。ニコニコと笑みを浮かべるバルドを見て、
は「馬ッ鹿じゃないの……」と呟くと不貞腐れたように膝を抱えた。
髪が梳かれる間、手持ち無沙汰な
は室内を視線で追ってみた。 汚くはないが、雑然として生活感のある部屋だ。だがきっちりと整えられているよりは好感が持てる。
は目前の机に積み上げられた本を何気なく手に取った。
悪魔、魔術、封印――目の前の本たちは、そんな語句をほぼタイトルに含んでいた。バルドに似つかわしくない奇妙なジャンル選択に
は小さく困惑した。
「アンタ……随分陰気な本読んでるのね」
が呟くと、バルドは手を止めて「ああ」と応えた。
「他は読み尽くしちまってな。この歳になると違う世界を知りたくなったりするんだよ。で、図書館で借りてくる」
「ふぅん、そんなもの……」
は大して興味なさげに答えておいた。まさかその悪魔に会いました、と言う訳にはいかなかった。 だが、もしかしてこういった本を読めば少しは悪魔の力について知ることが出来るのだろうか。自分の封印を解いた力や、リークスが自分の事を知っていた理由などに少しは近づけるだろうか。そう考えて、
は図書館にまた興味を持った。 いつか行ってみよう。そしてバルドには心配を掛けないようにこっそりこういう本を借りてこよう。
がそう決心すると、さりげなく本を押しやったバルドが梳き終わった部分の髪をさらさらと流した。
「それにしてもあんた、見事な金髪だな。……そういえば、親父さんも金だったっけか」
バルドの問いに
が頷くと、再び髪が一房掬われて櫛が通されていく。
「でも目の色は違うよな。あんたは緑だけど、親父さんは確か茶色だった」
「よく覚えてるわね。目はね、どうも母親に似たみたい。まあ全然覚えてないけど」
はけろりと答えた。
にとっての母親は、大事ではあるが父親よりは意識の薄い存在だった。 母は
がごく小さい頃に死んだらしい。死因も知らない。というのも、父親があまり語りたがらなかったからだ。それ以上追求するのも気が引けて今となっては分からず仕舞いになってしまったが、少なくとも真っ当な死に方ではなかったのではないかと
は思っていた。
「意外に薄情だな……とも言えんか。顔を知っていたって捻じれた親子関係があるくらいだ。あんたくらいが普通なんだろうな」
「? どうかしらね。……バルドのご両親は、健在なの?」
バルドの声が急に冷えたように思ったが、
は話を続けた。思えばバルドとこうして差し向かいで話すことなど初めてに等しかった。
はこの飄々として食えない印象の猫の話を、もっと聞いてみたいと思った。
「親父は死んだが、お袋はまだ故郷でピンピンしてるよ」
「故郷――ああ、刹羅。大型種が多いんだっけ」
が記憶を辿ると、バルドが頷く気配がした。バルドの故郷が刹羅という事は――
「ライも、刹羅の出身なんだ……」
幾分かの緊張を押し殺して何気なく問うと、バルドは何でもない事のように「ああ」と答えた。 生まれた頃から知っていると言っていた。じゃあ、どうして今は二匹の間にあんなに溝があるの――
はそう聞こうとしたが、結局言えなかった。踏み込んではいけない領域であるような気がしたからだ。
「お? なんだ、あいつに興味があるのか? それとも俺か? 気が多いなあんたも」
「そんなんじゃないわよ。……? どうしたの?」
呆れて振り返った
が言葉を止めたのは、バルドがブラシを取り落としたからだ。右手首に巻いた布を押さえ、顔をしかめている。
は顔色を変えた。
「アンタまさか、怪我してるの!? 髪なんて梳いている場合じゃないでしょうが! ちょっと見せて!」
が手首を取ろうとすると、それよりも早くバルドがブラシを拾い上げて左手を振った。
「大丈夫だ、さっき少し捻っただけだから何ともない。ほら、前向けよ。もう少しだから」
「でも……」
言い募る
の肩を押すと、バルドは再び髪を梳き始めた。その手つきは先程と全く変わらず手馴れたものだったため、
はようやく安堵して心地よい感触に酔った。
「――ハイ、別嬪さんの出来上がりだ」
「いちいち言う事がオヤジくさいなぁ……」
「だってオヤジだもんよ」
やがて全ての髪を梳き終わると、バルドが
の肩を軽く叩いた。軽く頭を振ると、先程までとは見違えるほどの輝きが目に映った。
が感嘆すると、バルドはニヤリと笑って言った。
「さ、この分は身体できっちり払って貰おうかな」
「…………」
使い古された台詞に嫌悪感を抱く事すらも馬鹿馬鹿しく、
は醒めた目でバルドを見るとその顎ひげを軽く引っ張った。
「……オヤジ」
がそう呟くと、バルドは嬉しげに相好を崩した。
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