18、それぞれの事情
翌朝、暗冬二日目。
は目の下に薄いクマを作ってライの部屋の扉を叩いた。
「なんだ」
「……朝の挨拶くらいできないの? おはよう。――これ」
しばらくして扉が開くと、既に装備を整えたライが無表情で出てきた。その顔を見て
が短剣を差し出すと、ライはわずかに目を見張った。
「……本当に研いでくるとはな」
「当たり前でしょう、仕事だもの。……それに前金も貰っちゃったし……」
がそう告げるとライはその胸元に目を遣ったが、そこには既にプレートはなかった。作業には邪魔だったから、今は服の下に隠してあるのだ。ライは軽く目を伏せると口を開いた。
「……ひどい顔だな」
「自覚はあるわよ。夜通し考え続けてたら、いつの間にか作業に熱が入って仕事が全部終わっちゃったわ。感謝したいくらいよ」
「…………」
二匹の間に沈黙が落ちる。何を考えたかなど、ライは聞かない。
も言うつもりがなかった。お互い分かりきっている事だから。
「考えたのか」
「考えたわよ。ハゲるんじゃないかと思ったわ。……アンタの言った事、確かに一理あると思うの」
がライの目を真っ直ぐ見上げて口を開くと、ライも視線を合わせて無言で続きを促した。
「……私、身近にいる雄は今まで見てきた奴らとは違うって、どこかで安心しきっていた。もちろん、アンタ達は信頼に足る猫だって思う。でも、それに甘えきって部屋に招くような真似をしたのは軽率だったわ」
「…………」
「どこで間違いが起こるか、分からないものね。お互いその気がなくてもうっかり本能に流されて妙な事になってしまったら、その事態を招いた責任の半分は私にある。でもその事でリスクを負うのは、雌である私よ。油断してやられてからじゃ遅い――アンタはそう忠告してくれたのよね」
が淡々と告げても、ライからの反応は得られない。二匹の間に落ちた沈黙を破るように
は言葉を継いだ。
「でも、私が不用意にアンタ達に近付いたって言われたのには腹が立った。――不用意に、なんて言われるのは心外だわ。私は望んでアンタ達に近付いた。そうしたいと思ったから警戒も解いた。だから今、なんとか自分の身に起こった事の手掛かりを少しは掴めてきたし、無為に過ごさずに自分が望む事が出来るようになったのよ。私はアンタ達との出会いとその後の経過に感謝してる。もっと関わりたいとすら、今は思っている」
一気に言い終えると
は一息ついた。見上げると薄い色の瞳は相変わらず冷えていたが、ライはやがて瞼を閉じると鼻で笑った。
「――つまり、俺たちに対する態度は改めないと?」
「基本的にはね。今更しおらしく改めたところで、もうそれは私じゃないでしょ。装った雌猫に構うほどアンタ達も暇じゃないだろうし」
「ふん、確かに気持ち悪い上に邪魔だな。……だがこれだけ言われても改善しないとは、つくづく阿呆猫だな、お前」
「そうよ、阿呆で結構。上等だわ、貫いてやろうじゃない」
とライが互いにせせら笑うと、張り詰めた緊張がようやく解けていくようだった。自分の横を通り過ぎて階下へ向かう背中に、
は声を掛ける。
「……でも、忠告はちゃんと聞くから。……ありがとう」
「俺も昨日は気が昂ぶっていた。……もう忘れろ」
背を向けたまま告げられたライの言葉に
は目を見開き、その背中を呆然と見送った。
朝食後、
が階下へ降りると待合室にはヴェルグがいた。 先にコノエとラゼルがいたようだが、どちらも出掛けてしまったようだ。ようだ、と言うのはヴェルグが「ラゼルの力が発動した気配がする」と言ったためだ。
は受付仕事の暇つぶしに、召還から戻ってきた直後のヴェルグと微妙に反りの合わない会話を交わしていた。
「……ま、アンタ達の役割は大体分かったわ。で、本題なんだけどなんで私は力が封印されてたわけ?」
「あ? ンなもん知るかよ。俺らが感じたのは押し込められた力がもう解けそーって事だけで、封印した理由まで分かるわけないだろ。調べりゃ分かるかもしれねぇけどよ、力使うしメンドくせぇ」
両手を挙げてさも面倒くさそうに答えたヴェルグに、
は頬杖を付いて醒めた視線を送った。
「あ、そう。つまり分からないって事ね。じゃあ聞くけど、どういう奴が封印したかも分からない?」
「てめぇいちいち突っかかるな……。ま、封印自体の印象ならちったぁ覚えてるけどよ。――なんつーか、ジジむさい?」
「ジジむさい? ……意味分からないんだけど」
ふざけたようなヴェルグの発言に、
の眉が寄る。ジジむさい奴が掛けたという事か。それともそんなに古くさい封印だったのだろうか。
「俺だって分からねぇよ。つかよ、お前とリークスって知り合いだったのか?」
「いや、全然知らないわ。向こうは知ってるみたいだったけど。……ああもう、分からない事ばっかり」
「んな事いちいち気にしてんなよ、ハゲるぞ。――お、悲哀の悪魔様のご帰還だ」
頭を抱えた
をよそにヴェルグが顔を上げると、二匹しかいなかった待合室に青い霧が生まれた。霧はやがて密集して形をとり、悲哀の悪魔が現れた。
「あ、カルツ。お帰りなさい」
が声を掛けると、カルツが振り返って静かに頷いた。ただしやはり、哀しそうな顔で。 だが待合室にヴェルグもいる事に気付くと、カルツははっきりと顔をしかめた。ここにもケンエンの仲が存在するらしい。
「おーおー、いつもながら冷たい視線なこった。……あの黒猫に送る熱ーい視線の十分の一でも送ってみろっつの」
ヴェルグが立ち上がって二階へと歩みざまにそんな言葉を投げ付けると、カルツの視線がますます険を含んだ。
は二匹の悪魔を交互に見ると、ヴェルグの発言に首を傾げた。
「……お前など、見るだけで穢れる」
「ハイハイ。どうせ俺は汚れてますよーっと」
カルツの冷たい声色に飄々と応えると、ヴェルグの姿は見えなくなった。 険しい顔を残して自身も去ろうとしたカルツを、
は呼び止めた。今の言葉がどうにも気になる。
「黒猫って、アサトの事よね。この前も思ったけどやっぱりあなた、アサトを見てたんだ。……何か気になるの?」
が問うと、カルツは沈黙で返した。どうやら答えるつもりはないらしい。だがそのまま去るかと思われたカルツは
に向き直ると、ふと口を開いた。
「……あの黒猫は、元気か」
「? はあ、まあ元気だと思うわよ。今日も朝から出掛けたみたいだし」
が「見りゃ分かるだろう」と思いながらも答えると、カルツは「そうか」と呟いて立ち去った。……なんだったのだろう。
カルツは悪魔だという割には常に理性的に行動しているように見えたし(ラゼルにも言える事だが)、他の三匹とは違ってあの時
に危害が加わることを懸念してくれていたため、
はなんとなく好感を持っていた。だがその発言はやはり
には理解できないところが多い。
「変な悪魔ー……」
は呟くと、受付で小さく伸びをした。
仕事を済ませた
が外出でもしようかと自室で着替えていると、窓をコンコンと叩く音があった。
「? ……アサト!?」
振り向いて見ると、なんとアサトが窓の外にいた。しかもなぜか逆さまで。いやそれよりも何よりも、なぜ今この時に訪ねてくるのか!
は慌てて上着を被ると、殺気を撒き散らして窓を開いた。アサトがするりと滑り込んでくる。
「ア・ン・タ、ね〜!」
「
、いて良かった。……どうしたんだ?」
「どうしたじゃないわよ! そこは窓! 扉はあっち! それよりもなんであんな所から覗いているのよ!」
が怒りを込めてアサトに問うと、アサトはきょとんと首を傾げた。なぜ怒られるのか分からない。そう顔に書いてある。
「屋根から帰ってきたから。……ダメだったか?」
「……ダメです。屋根を通るのはいいけど、私の部屋を覗くのはダメ。絶対にダメ。出入りは扉からのみよ。――分かった?」
これはいつものパターンだ。溜息をついて
が教え諭すように言うと、アサトは真面目にコクリと頷いた。 なんというか、二つ杖の書物に載っていた職業……『教師』とは、こんな感じなのだろうか。確か子供たちに生活に必要な情報を教える職業だと書いてあった気がする。
はふとそんな事を思い出した。
「それより、どうしたの? 剣はさっき届けたわよね。もう帰って来たの?」
が見るとアサトはその視線から一瞬目を逸らしたが、やがておずおずと
に向かって隠した片手を差し出した。そこに握られたものを見て、
の目が丸くなる。
「あら、花。こんな季節に珍しいわね」
「……お前にやる。綺麗だったから」
「私に? あ、うん、ありがとう――」
もおずおずと小さな花の束を受け取ると、上目遣いにアサトを覗き込んだ。
「? 嫌い、だったか……?」
アサトの眉が悲しげに下がる。それを見て
が慌てて首を振った。まさかアサトがこんな雌心を掴むような贈り物をするとは思ってもみず、呆然としてしまった。
は野から摘まれたばかりの瑞々しい花を眺めると、小さく笑った。
「好きよ、もちろん。こんな季節に見られるなんて尚更嬉しい。……でもなんで?」
が顔を上げて問うと、アサトははにかむように白い牙を見せて笑った。
「昨日の鶏肉のお礼だ。それから剣を研いでくれた事と、俺を助けてくれた事と――」
そこまで言うと、アサトは黙り込んでしまった。
が怪訝に思って促すと、アサトは静かに首を振った。
「駄目だ。これだけじゃ全然足りない。……俺はもっと、
に沢山花をあげたい」
「え、これだってもう十分よ。そんなにいっぱいは持って来れないでしょ」
「でも……ああ、そうだ。なら
が行けばいい。明日、俺は沢山の花を
に贈る。――約束だ」
それだけ言うと、アサトは扉からスタスタと出て行った。後には呆然とした
と、かぐわしい花々だけが残された。
「……あれで無意識なんだから、スゴイわよね……。ていうか、今覗かれたのは私の油断じゃないわよね?」
小さな花に顔をうずめ、
は頬を赤らめると自問自答した。答える者はもちろんなかった。
どこか浮ついた頭を冷ますため、
は宿の横の木から屋根へと上った。祭の熱気と喧騒から離れ、吹く風に身体を晒しながら
は先程のヴェルグとの会話を思い出していた。
会話から得られた事は、掛けられた封印の印象についてだけだった。なぜなんのために封印されていたかの手掛かりはまだ掴めていない。 屋根で考え込んでいても無駄な気がして、
は屋根伝いに少し歩くことにした。
上から見下ろす暗冬の様子は、相変わらず猫が入り乱れていてなかなか面白い。
はふと真下の露店に目をやると、その近くにいた猫の行動に目を奪われた。
猫が、真剣に何かを見上げている。視線の先にあるのは、おそらくじゃらしの木だ。というか、あの鍵尻尾は――
(マズい! それはやっちゃダメ――!)
は慌てて屋根から飛び降りると、今にも花に飛び掛らんとしているその鍵尻尾を思わずギュッと掴んだ。
「痛ッ! 何するんだ! ……ッ、え――」
振り向いたコノエが怒りを込めて叫ぶ。だがその暴挙の主を認めるとコノエは目を丸くした。
は指を立てて発言を制し、コノエの腕を引っ張って路地へと連れ込んだ。
「ゴメン、とっさだったからつい。でもダメ、あれはやっちゃダメ。かなり恥ずかしい事になる」
「……ッ」
が首を振って言うとコノエは唖然としていたが、徐々にその顔が赤く染まっていった。フードを被って俯いた顔から
は目を逸らした。
「あの花は、マズいよね。本能が刺激されるっていうか、何も考えられなくなるって言うか……」
が呟くと、コノエはますます身を縮こまらせた。……しまった、逆に追い詰めてしまった。
はコノエを覗き込むと眉を下げて言った。
「ゴメン、からかってる訳じゃなくて。……実は、私もね……やった事があるんだ……」
「……アンタが!?」
がモゴモゴと呟くと、コノエが驚いたように顔を上げた。恥ずかしいが、暴露してしまおう。そうしてこの本能に引かれる気持ちを共有してしまいたかった。
「うん。私は本当に飛び付いちゃって……すごく見られたの。あれは物凄く恥ずかしかったなあ……。今は遠くならなんとか抑えられるけど、間近にあるとヤバい。絶対飛び付きたくなっちゃう」
が神妙な顔で話すとコノエはどこかホッとした顔を見せたが、次に渋面を作ってボソリと呟いた。
「……でも、藍閃の猫たちは全然反応してなかった」
「そこなのよねー。やっぱ都会の猫は違うのかしらね。私にはまだまだ全然無理だわ、理解できない」
が溜息をついて首を振ると、コノエが小さく吹き出した。二匹は目を合わせると、笑って頷いた。 きっと藍閃の猫の方がおかしいのだ。あんなに魅力的な花に反応しないなんてどうかしている。
はそう思うと、いまだ風に揺られ続けているじゃらしの花を睨み付けた。
そのまま成り行きで
がコノエと通りを歩いていると、ふと裏路地の方から喧騒が聞こえてきた。 喧嘩でもしているのだろうか。そう思って
は関わり合いになる前に引き返そうとしたが、コノエが興味深そうに歩き始めたため渋々付いていく事になった。 路地の猫の波をかき分けると、なんと見知った猫が観衆の真ん中に立っていた。
「……ライ?」
コノエが戸惑いの声を掛けたのも無理はない。ライの周りは、倒されたのだろう猫たちが腰を引いて逃げようとしているところだった。 別にここまでは、この状況を考えればおかしくはない事だった。問題は、ライが右目の眼帯を抑えて狂気の笑みを浮かべている事だった。
――この顔は、見たことがある。アサトと対した時、それに村猫と対した時にも見た笑みだ。
は息を呑むとライの様子を注意深く伺った。
ライの爪が既に逃げ腰の猫に振るわれる。一閃、二閃、三閃――止まるところのないそれは、既に仕打ちの域を超えていた。 そして次の瞬間、
とコノエは再び顔を強張らせた。その白い顔に飛んだ相手猫の血を、ライがゆっくりと舐めたのだ。
その狂気の様と苦痛に泣き叫ぶ猫を見続けるのに耐え切れず、コノエと
が飛び出す。コノエが肩を揺すぶり怒鳴っても、ライの目は変わらなかった。それどころかコノエの手を掴もうとしたため、
は慌ててそれを引き剥がすとライを平手打ちにした。
「いい加減に――」
の一撃を物ともせず、ライが再び笑う。それに構わず、
は手を返して二発目を振り上げた。
「――しろ!」
路地に乾いた音が響いた。数秒後、コノエが唖然として見守る中、ライがゆっくりと顔を上げた。
「……お前……」
「……目、覚めた? いくらなんでもやり過ぎよ」
すう、と息を吸って低い声を作り
が見上げると、口の端を切ったライが
を見下ろしていた。その隻眼は青く、先程の狂気の影は見られない。ライは
から視線を逸らし周囲の惨状に目を遣ると、硬く顔を強張らせた。
「これは……」
呆然としてその狂態の跡を眺めていたライは、長い沈黙の末にやがて踵を返して歩き出した。その背を二匹が追おうとするが、強い拒絶を感じて結局立ち止まった。群集が静かに引いていく。 再び二匹だけになった路地で、コノエが顔をしかめて小さく口を開いた。
「また、笑ってた……」
「……コノエも気付いてた? あいつ、時々おかしいわよね。まるで違う猫になるみたい」
がコノエに同意を求めると、コノエは静かに頷いた。
「ああ。夜中にひどくうなされて飛び起きた事もあった。何か隠しているみたいだけど、俺にはそこまで分からないし……」
「……そう。あいつにもあいつなりの事情があるんだとは思うけど……」
誰しも話したくない事情の一つ二つはある。
だってそうだ。だからそれをわざわざ暴こうとは思わない。 だが、その事情のために本来持っていた性質まで呑み込まれてしまうような場合には、近くにいる猫はどうすればいいのだろうか。
ライを打った手のひらを見つめて思案する
は、気付かなかった。コノエが複雑な眼差しで自分を見つめていることになど。
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