19、誘惑の香り

 




 宿に戻った とコノエは、バルドに呼び止められた。夕食の手伝いをしてくれと言うのである。 は勿論了承したが、コノエはアサトと出掛けるというので断った。バルドは特に残念がる様子もなく、厨房へと戻って行った。

 その時、バルドの腰からひらりと落ちる何かがあった。コノエが拾い上げたそれを が覗き込むと、二匹は揃って目を丸くした。


「……雌だ」

「雌ね。……誰? 古い絵みたいだけど……」

 そこに描かれていたのは、大変に愛らしい顔立ちをした雌猫だった。はにかんでこちらを見つめる表情は、将来はさぞ美しい猫になるだろうと予感させるほどのものだ。二匹は顔を見合わせると首を傾げた。
 幼馴染の雌、初恋の猫、隠し子――思いつく限りの可能性を二匹は挙げる。だがそのどれも当てはまらないような気がして、 は溜息をつくとポンと手を叩いた。

「――分かった。あいつ、きっとロリコンなのよ。だから気に入った子供の絵をいつも持ち歩いているんだわ」

「アンタ、結構ひどいな。俺も思い付いたけどさすがに口にしなかったのに……」

 コノエがげんなりした顔をして を見る。 は「そう?」と首を傾げると絵を受け取った。

「ま、私が返しておくわ。その時ついでに聞いてみる」

  がそう締めると、コノエは「やめておいた方が……」と呟きながら二階へ上がっていった。それを見送り、 は何気なく絵を裏返してみた。すると先程は気付かなかったが、何か文字が書かれているようだった。それを読んだ はやがてニヤリと笑い、厨房の扉を軽快に開いた。



「――シェリル!」

「うぉわ!?」

 調理台に背を向けていたバルドを呼ぶと、その背が面白いように大きく揺れた。 は絵を掲げると笑みを浮かべてバルドに近寄った。

「……って言うんだってね、この猫。可愛い名前」

「! お前、それどこで……!」

 慌てたバルドが包丁を持ったまま に手を伸ばす。それをぎょっとして避け、 は口を開いた。

「危ない! もー……。アンタがさっき落としていったのよ。はい、大事な物ならちゃんとしまっときなさいよ」

  がバルドに絵を差し出すと、バルドはひったくるようにそれを奪って調理台の引き出しへと無造作に押し込んだ。

「ああ、そんな乱暴に……。で、ねえ――それ誰?」

 ニコニコと微笑んでバルドに迫ると、バルドは露骨に嫌な顔をした。――これは大変珍しい機会かもしれない。普段丸め込まれている分、 は楽しい気分になってバルドを覗き込んだ。

「可愛いわね、今頃きっと美人よね。それとも小さい頃の姿の方が好きなのかしら?」

 畳み掛けるようにからかうと、バルドがますます渋面になる。そろそろ頃合いか。 がそう思って身を引こうとすると、バルドの右手が素早く動いた。

「うるさい口だな……塞いじまうぞ」

「は――んッ!?」


 不穏な発言にポカンとした瞬間、 の口に何かが押し込まれた。
 バルドの指が舌と唇に触れて、抜けていく。その感触がやけにリアルで が目を丸くすると、舌の上に何かが置かれているのに気付いた。――甘い。

「ん……何これ? ていうかアンタいきなりなんすんのよ」

「あ? 口移しにしなかっただけ良心的だろ。カディルだよ、知ってるだろ。味どうだ?」

「……アンタね……」

 しゃあしゃあと答えたバルドに何も感じない訳ではなかったが、 は取り合えず素直に感想を述べることにした。

「ん〜、うん、美味しい。少し酸味が効いてるのがいいと思う」

「そうか。今日はまだまだ作るからな。こき使うからヘバるなよ?」

「はいはい、平気だって。さて、じゃあ私は何をすればいい?」

 手早く身支度を整えて、 も調理台に向かう。だがはじめは余裕の様子だった も、祭のご馳走の手間と量に翻弄されやがて目を回す羽目になった。



「おい、これ味どうだ。新作なんだが」

「んん? ゴメン今ちょっと手が……よっと」

 野菜を切る にバルドが声を掛ける。両手が埋まっていた は首だけ向けると、バルドが差し出した料理をパクリと唇で摘まんだ。その指に中途半端にタレが残っているのを認め、 は舌を出してそれを素早く舐め取った。
 どうせさっき舐めたのだ、今更どうという事もない。そう思った は、バルドが目を丸くした事には気付かなかった。


「ん〜、ちょっとしょっぱいかな。私はもう少し甘い方が――、どうしたのよ」

「……いや、無意識って怖いと思ってね」

「? わけ分かんないんだけど」

  は首を傾げてバルドの言葉を流すと、さっさと作業に戻った。休んでいる暇などないのだ。バルドも黙々と調理に戻る。
 二匹の猫は挑み、闘い、そして任務を完遂した。その日の食事は後に藍閃で語り継がれるほど充実したものになった。




   +++++




 夕食後、 がアサトを話し相手に食堂で剣を研いでいると、コノエがやって来た。アサトと の視線を受けてコノエはしばらく入り口で立ち止まっていたが、意を決したように に近付くと、おもむろに抱えていた麻袋から何かを取り出した。

「これ――アンタに」

「え、私? ……ありがとう。でもまたなんで?」

  が目を丸くして小さな皮袋を受け取ると、コノエは目を逸らして口を開いた。

「その、今日、止めてくれただろ……。さっき出掛けたらすごくいい匂いがしたから、買って来た」

「そんな、お礼なんていいのに。……でも嬉しい。匂いって事はお香か何かね。開けていい?」

  が問うと、コノエはこくりと頷いた。香りが漏れないように厳重に包まれた皮袋を開くと、濃厚な香りが外に溢れ出た。


「うわぁ……すごくいい香り……」

  は強く香りを嗅ぐと、陶然として呟いた。横にいたアサトもそれに頷く。コノエは椅子に腰掛け、どこか満足げな顔で二匹を見つめた。
 香は濃厚だが、息苦しい感じはしない。むしろ香りに包まれると頭が心地よく痺れるようで、もっとその香りを感じたいと思った はランプのそばに香袋を置いた。緩やかに食堂へ香りが広がる。

「あー、なんかすごくいい気分になってきた。これなら仕事が進みそう」

 うっとりとした気分で は剣に向かったが、しばらくすると手元が覚束なくなってきた。根を詰めすぎたのだろうか。 がそう思い水でも飲みに行こうとすると、ふいにその足元がふら付いた。

、危ない」

 咄嗟にアサトが の腰を掴む。浮ついた頭でその顔を見上げ、 は口を開いた。

「ありがと、アサト……。――どうしたの?」

 見上げたアサトは を一心に見つめていた。その青い視線には妙な熱がこもっている。
 ――熱? どうして? その理由を は考えようとするが、酔っ払った時のように頭が上手く働いてくれない。

 ぼんやりと目を開いたままアサトの腕に抱かれていると、アサトが不意に の髪を一筋すくい上げた。その髪を唇に持っていくと、アサトが苦しげに目を閉じた。不意打ちに の頬が染まる。


の髪、綺麗だ」

「は――あ、うん。ありがと……」

「…………」

「……アサト?」

「―― 、変だ」

「え……変って、何が――、ッん、ふ――!」

 いつまでも髪を掴んだままのアサトを怪訝に思い、 が顔を上げるとその視界が突然埋め尽くされた。唇に、濡れた感触。―― はアサトに口付けられていた。


 驚きに目を見開くと、アサトは軽く身を引いた。ここは間違いなく逃げるべきところだ。 は頭の片隅でぼんやりとそう思ったが、なぜか身体が動かない。というか、動くことを身体が拒否していた。
 黙る をどう受け取ったのか、アサトは背中に両手を回すと をきつく抱き締めた。アサトの硬い髪が の頬に触れる。

「ちょっと、アサ……ん、は……」

 なんとか抗議しようとした の唇が、再び塞がれた。コノエが見ているのに。そう思うがアサトの動きは止まらない。角度を変えて何度も口付けられ、 は次第になぜ自分が抵抗しているのか分からなくなってきた。

 アサトの唇は、気持ちがいい。だったら流されてしまえばいい――


「おい、アサト! 何やってるんだよ」

 目を閉じ掛けた を呼び戻したのは、コノエの怒ったような声だった。ハッとしてアサトから離れると、コノエが の手を掴んだ。

「すまない、コノエ」

 アサトが謝ると、コノエは を引き寄せた。 が驚いてコノエを見ると、コノエは予想外の台詞を口にした。

「お前ばっかり、ずるいだろ。俺だって……したい」

「え――!?」

 目を剥いて が見つめると、コノエも気まずそうな顔をして を見ていた。
 鍵尻尾がせわしなく揺れ、その眦はわずかに赤らんでいる。 の心音が急激に跳ね上がった。――まずい。何か得体の知れない感情が湧いてくる。

「……したい、の……?」

  が掠れた声で恐る恐る尋ねると、コノエがコクリと頷いた。 はしばらく呆然としていたが、やがてそっとコノエの服を引いた。
 ……何かがおかしい。どこかがおかしい。だがそれを考える事を頭は既に放棄していた。何かの音が響いた気がしたが構わず、 は思いついた言葉をそのまま舌に乗せた。

「じゃあ……しよう――」


  がゆっくりと顔を近づけると、コノエが固く目を瞑った。それすらも愛しい気がして、 はコノエの顎に手を添えると静かに唇を重ねた。

 コノエは固まっていた。唇は真一文字で瞳は閉じられたまま。そんなキスが妙に照れくさく、 は自らその唇を軽く啄ばんだ。
 濡れた音が食堂に響いて恥ずかしい。だがその気恥ずかしい空間は、突如として割って入った冷たい声に遮られた。




「――この馬鹿猫どもが。一体何をしている」

「! ……あ……」

 冷水を浴びせられたように は目を見開いた。いつの間に入ってきたのか、ライが冷たく三匹を睥睨していた。無意識にコノエを放した は呆然として唇を覆った。


(私――今何を……)

 混乱する を横目に、ライがテーブルへと歩み寄ってくる。温められた香袋を摘まみ上げ、呆れたように口を開いた。

「原因は、これか。……踊らされたな」

「踊らされた――どういう事……?」

  がゆるゆると顔を上げると、ライは香袋の中身を手のひらに落とした。香りが一気に強まる。 は眩暈を感じてテーブルに手を付いた。……動悸が激しい。

「どんな店で買ったのか知らんが、悪質なマタタビが混入されている。分かるか? ――媚薬だ」

「媚薬……」

  が呟いてコノエに目をやると、コノエは呆然としていたが次に赤い顔で大きく首を振った。……おそらく、何も知らなかったのだろう。

「俺、そんなつもりじゃ――!」

「だろうな。だが――まあいい。全く、田舎猫は口付けの仕方も知らんのか」

「は? ちょ――ン…ッ!」


 粉を振り落とすように片手を振ると、ライは の手を取り頭を引き寄せた。勢いで がライに抱き付くと、その唇が再度噛み付かれるように荒々しく塞がれた。
 
「ん、は……ンンッ……!」

 突然呼吸を封じられ、 が縋るようにライの服を握り締めると互いの間に僅かな隙間が空いた。 は大きく息を吸うと、その隻眼を見上げた。
 いつも冷たいはずの瞳は、今はどこか濡れて揺らめいている。不意に身体の奥が震え、 の尾がざわりと逆立った。
 ライが の耳の縁をくすぐるように舐める。それに震えながらも、 は眉を寄せて口を開いた。


「なんで、アンタまで――」

 こんなに口付けが気持ちよく、そして他者の熱を狂おしく感じるのは、この香のせいなのだろうか。
 だがライはそんな物には惑わされないような気がどこかでしていた。他者に忠告を与えるくらいだ。いつも冷静で、動じない猫だと思っていた。 が戸惑いを込めて問うと、ライは口端を僅かにつり上げて笑った。

「……さあな。だが俺もただの猫だ。外から無理やり欲に煽られれば陥落する事もある。先程のお前のようにな」

「……ッ」

 その言葉の響きに が悔しげに目を伏せると、顎が強引に持ち上げられた。
 視線を重ねたまま唇が重ねられるのを は黙って受け入れた。口付けは角度を変えてしばらく繰り返されたが、ふいにライの舌が の唇をなぞった。それを合図に は薄く口を開く。


「ん……ふ、ア……。ンッ…は、あ――」

 侵入したざらついた舌が、 の口内を犯す。それを咎めるように舌を絡めると、今度はライの口内へと引き込まれた。 とは温度も感触も違うそれに触れると、互いの境界があやふやになって共に溶けていくような錯覚に陥る。
 口を開けるたびに小さくぶつかる牙が邪魔だ。――いや、その刺激すらも心地がいい。


 目の前で繰り広げられる濃厚な口付けにコノエとアサトが硬直したのにも気付かず、 はライとの口付けに溺れていった。
 もっと、刺激が欲しい。もっと、つながりたい――。 が白い髪に手を差し込みライの頭を引き寄せると、口付けはさらに深くなった。

(気持ち、いい……。なんかもう、どうでもいい――)





「おいおい、あんたら何やってんだよ」

 思考を放棄した がテーブルに押し倒されんばかりになっていると、食堂に突然呆れたような声が響いた。 が口付けたまま視線だけ送ると、バルドが頭を掻いてこちらを見ていた。

「? ……ッ!?」

 目を見開いた とライが、身体を離した。そのまま硬直していると白猫が の上から去っていく。 も頭を振って立ち上がった。


「うわ、お前何バラ撒いてんだよ。これって粗悪マタタビだろ? あんたら、こんな部屋にいたら身体がいくらあっても持たんぞ」

 スタスタと歩いたバルドが勢いよく窓を開け放った。冷たい風が吹き込み、 たち四匹は一気に覚醒した。

「あ……」

 頭が醒めると、 の脳裏には急速に先程までの光景が蘇ってきた。
 アサト、コノエ、ライ――節操もなく、三匹の唇を受け入れてしまった。というか、自分から誘っていたような節すらある。全身の毛が逆立ち、 の顔が真っ赤に染まった。


「……ッわ、私――もう寝る……!」

 あたふたと道具を取りまとめ、 は三匹の顔を見ないようにそそくさと立ち去ろうとした。
 ――ダメだ、今この場に平然といられる訳がない。
  が食堂を出ようとした瞬間、肩に触れるものがあった。驚いて振り返るとバルドが立っていた。

「おい。――忘れモン」

「? ん……ッ!?」

  が身構える間もなく、バルドがその唇を攫っていった。しかもご丁寧な事に、しっかりと舌を絡めて。
 抵抗した をあっさりと離し、バルドはニッと笑った。 は唇を拭うと今度こそ二階へと駆け上がった。





「――なにしてるのよ私! ていうか、ありえないから!!」

 その晩、部屋に戻った が頭を抱えてうずくまった事は言うまでもない。
 



 



 

 

 

BACK.TOP.NEXT.