20.君に贈る花





 翌日、暗冬最終日。朝食後 は屋根に上り、溜息をついていた。

 今日の夜には図書館へ行くことになっている。何かリークスやコノエの呪いについての情報が得られればいい、 はそう思っていた。その他にも自身に掛けられた封印の事や、ライが時折見せる変貌の理由、アサトの今まで生きてきた環境の事など、気になる事や考えるべき事は山ほどある。
 だが思考しようとする心を裏切り、頭は昨夜の光景を勝手に再生し続けていた。


(あの時バルドが止めてくれなかったら――どうなってたんだろう……)

 香に踊らされた。ライの言ったその言葉は確かに正しい。確かに皆(バルドは置いておいて、だ)正常な思考状態ではなかったし、手近にあった熱を求めたのも頭では納得できる。
 だが感情はさすがにそう簡単には、不意の事故と割り切ることが出来ないでいた。

 四匹の唇を躊躇いもなく受け入れたのは節操がなくて、恥ずかしかった。浅ましく他者を求めた自分が恨めしい。――だがこうして覚醒してみても、四匹に対する嫌悪の感情が自分の中のどこにも湧いてはこなかった。 はその事に戸惑い、再び溜息をついた。

(あの四匹の事は、仲間として好き……なだけよね?)

 今朝、否応なしに会ってしまったバルドには一発食らわせたからまあいいとして、さすがに残りの三匹に会う勇気はなかった。

 もう少し、落ち着いてから。どうせ夕方には顔を合わせるのだし。そう思い何気なく指を唇に沿えると、四匹の唇の感触が生々しく甦ってきた。
  が慌てて頭を振りその感触を振り払おうとした瞬間。屋根のふちに、二本の手が現れた。


「……ッ」

  が目を見開くと、次に軒下から素早く黒い影が現れ、軽やかに屋根に着地した。黒い頭が上げられる。やがて現れた青い瞳が を認めると、それは大きく見開かれた。

「!  ……!?」

 黒猫――アサトは困惑したように呟くと、身を引いた。「しまった」そう顔に書いてある。
  を見据えたままおずおずと身を引くアサトの腕を は咄嗟に掴んだ。アサトの一歩後ろは、既に屋根ではないのだ。

「ちょ、待ちなさい! 落ちるわよ!」

 勢いでアサトと が屋根に倒れ込む。後頭部をしたたかに打ち付けた が顔をしかめた。アサトがはっと身を起こし、 を覗き込む。

「すまない。大丈夫か?」

「う、ん。平気……」

 はた、と至近距離で見詰め合った二匹は同時に目を見開いた。 の頬が僅かに染まる。アサトも気まずそうに目を逸らすと、 から離れて距離を置いた。


「…………」

「…………」

 二匹の間に沈黙が落ちる。――気まずい。アサトも立ち去ることをせずに所在無さげに尾を揺らしていたが、やがてぽつりとその沈黙を割った。

「……昨日、すまなかった」

「え……」

 悄然と呟かれた声に驚き、 が目を向けるとアサトは俯いたまま言葉を続けた。髪の間から見える頬が赤い。

「あの香を嗅いだら、だんだん変な気分になってきて……気付いたら に……していた」

「あ、うん……」

  は呆然とその言葉を聞いていたが、生々しい表現に頬がさらに熱くなった。だが、アサトもきっと恥ずかしいのだ。自分も返答しなければ。そう思い、 は一つ息を呑むと口を開いた。

「でも、アサトが悪かったわけじゃないし……アサトだけじゃ、なかったし……」

「だが、最初にしたのは俺だ。……抑えられなかった」

  の言葉を遮り、アサトが固い口調で告げる。 は返答に詰まったが、なんとか声を絞り出した。

「仕方、ないわよ……。あれは事故みたいなものだったし、うん」

 話すうちに徐々に恥ずかしさが募り、 は無理やり笑みを作るとおどけた調子で言った。アサトの目がこちらを向く。

「事故……」

「そうよ、だからお互い忘れましょ。……私も気にしないから」

「……そう、だな……」

 しばらく沈黙すると、アサトはようやく小さな笑みを見せて言った。緊張が解け、 もゆっくりと頷く。ぎこちなさはそれでなんとか払拭されたようだった。


 二匹はそのまま風に吹かれていたが、アサトがふと思い出したように顔を上げた。

「あ。―― 、約束を忘れるところだった」

「約束?」

「そうだ。昨日 に沢山の花を贈ると言った。――付いてきて、ほしい」

「ああ……うん。夕方までは暇だし。いいわよ」

 得心して は立ち上がると、屋根伝いに歩き出したアサトに続いた。その黒い後姿を見て、ぼんやりと思う。


 先程 が忘れようと言った時、アサトの顔が切なげに歪んだように見えたのは――きっと、幻想だ。







「う、わぁ――すごい……!」

  がアサトに連れられてやって来たのは、森の奥にある花畑だった。
 こんな季節だと言うのに、色とりどりの花々が優しく咲き誇り、風に揺られている。その美しい光景に目を奪われ、 は花の中へ足を踏み入れた。

「昨日、探してたら見つけた。村の猫に聞いていたから」

「そう……。昨日の花はここのだったのね」

「ああ。綺麗だから、 に見せたかった。この花全部を俺は に贈る」

「……ッあ、ありがと……」

 邪気の無い笑顔でアサトが を見つめた。その発言に は動揺し、目を伏せるとぼそぼそと礼を呟いた。――相変わらず恥ずかしい。


 二匹が並んで花を見ていると、穏やかに風がそよいだ。芳香が広まり、 はうっとりと目を閉じた。静かだ。そして、心が温かいもので満たされていくのを感じた。
  は花を潰さないように寝そべった。隣のアサトが目を見開いたが構わない。生憎曇ってはいるが、空が高く見えた。心地よい開放感に は小さく伸びをした。

「アンタもやってみたら? 気持ちいいわよ」

  が声を掛けると、アサトはしばらく戸惑っていたがやがて の右隣に身を横たえてきた。目をやると、茎の向こうに逞しい肩が見える。そのまましばらく、二匹は無言で花とその奥の空を眺めた。


「……ありがとう。嬉しかった。この花全部はさすがに貰えないけど、忘れないから。……昨日貰った花も、ずっと取っておく」

 やがて が小さく告げると、傍らの気配が僅かに身じろいだ。構わず再び空を見ると、 は続けた。

「村の……吉良の猫が、ここを教えてくれたの?」

「ああ、カガリという。俺の、姉のような母親のような猫だ」

 アサトが懐かしげな声に、 はふと胸が痛むのを感じた。――痛む? なぜ?
 不可解な気持ちを心の奥に押し込め、 は会話を続けた。

「……そう。どんな猫なの? 前に言っていた、ずっと一緒にいたっていう猫よね」

「ああ。カガリがいたから、俺は村で殺されずに生きることができた。俺の、恩人だ」

「……!」

 なんでもないことのように告げられたアサトの言葉に、 の息が止まった。――殺される。以前より薄々感じていたアサトに対する吉良の仕打ちが、ついにはっきりとした形をもって の前に突きつけられた気がした。

「なん、で――」

「さあ。ただ俺が生まれた時に殺されそうになっていたところを、カガリが助けてくれたらしい。母さんも早くに死んだから、俺はカガリに育てられたようなものだ」

「…………」

 アサトは感情を交えず淡々と語った。衝撃に言葉が出ない には構わず、アサトは言葉を続ける。

「恩人という意味では、コノエもだ。コノエは俺を吉良から連れ出して、世界を見せてくれた」

「……コノエが?」

「ああ。吉良はよそ者を徹底的に排除する。俺もコノエを殺せと言われて追ったが、コノエは一緒に行こうと言ってくれたんだ。そんな事を言われたのは、初めてだった。だから俺は、吉良を出ることにした」

 その情景が、目に浮かぶようだ。閉塞した村とアサトの心に突然飛び込んできた、光。きっとコノエはそんな風に見えたのだろう。 はそう想像し、ようやくホッと息を吐いた。

「……そう。……吉良の外の世界は、どうだった?」

「……広かった。俺の知らない事ばかりで驚いたが、とても面白い。吉良にいたら見れなかったものばかりだ。だからコノエには、感謝している」

 顔を見ずとも、アサトが微笑んでいるのが には分かった。アサトの境遇、吉良から出た理由。それを知って、 は胸が締め付けられるような気がした。
 苦しいのと温かいので気持ちが変だ。 は細く息を吐き出すと、ゆっくりと口を開いた。


「――私も、コノエに感謝する。アンタを吉良から連れ出してくれた事を。アンタが吉良から出なかったら……私はアンタに会うことは出来なかった」

「…… ……」

「出会えて、良かった。――ねえ、外の世界は色んな事があるでしょう? そういうものを、コノエや私と一緒に知っていったらいい。どうせみんな田舎猫だから、分からない事はライやバルドにも聞いて。それから……」

 息を呑んだアサトを見つめて、 は言葉を続けた。

「吉良の事を、教えて。鳥唄もそうだったけど、どの村だって悪い事ばかりでもないでしょう? いい所も悪い所も……もっと知りたい。アンタが生まれた村だもの」

「…………」

 戸惑いを浮かべながらも、アサトが小さく頷いた。それを見て は仰向けに戻ると、明るい声で言った。

「でもまずは、コノエの件をなんとかしないとね。……私たちの、恩人だから」

「……ああ」

 二匹は顔を見合わせると、固く頷き合った。




 そのまましばらく二匹は寝転んでいたが、ふいに は横を向くとアサトの腕に目を留めた。

「ねえ、それこの前入れ墨じゃないって言ってたわよね。なにで描いているの?」

  が声を掛けると、アサトがむくりと起き上がった。つられて も上体を起こす。

「墨だ。吉良の猫は皆この模様を描いている」

「へえ。珍しい習慣ね」

 褐色の肌の上を薄墨がきっちりと彩っている。 の知っている村にはなかった風習だ。 は興味深く、アサトの片腕をまじまじと覗き込んだ。

「…… も、描いてみるか?」

「え? 私はいいわよ、吉良の猫じゃないし……」

 アサトの告げた言葉に は驚いて断ったが、やはり物珍しく、アサトの紋様を眺めてしまう。

「……でも、やっぱりちょっと興味はあるかも……」

 消えるものだし、せっかくだから一度くらいは試してみてもいいかもしれない。 が結局そう呟くと、アサトは嬉しげに頷いた。

「別にこの模様でなくてもいい。宿に戻ったら描いてやる。 の肌にはきっと映える。……それから」

「?」

「花、ついている。……取ってやる」

「――ッ」

 小さく笑うと、アサトは の髪に手を伸ばした。敏感な耳を掠めて、大きな手が離れていく。その指には赤い花びらが摘ままれていた。

「……、ありがと……」

 再び与えられた恥ずかしい褒め言葉と行為に はもうどう反応すべきか分からず、目を逸らすと溜息で応えた。アサトが不思議そうに首を傾げたのは無視をした。





  +++++





 その後、宿に戻ったアサトと は揃って食堂に入った。目の前にはアサトがバルドから借りてきた筆と、墨を溶かした液体が揺れている。

「吉良の塗料とは違うから、長持ちはしないと思う」

「うん、いいわよ。もうばーんと描いちゃってちょうだい」

 アサトが告げると はあっさりと頷いて、二の腕を捲り上げた。細い腕にアサトが動揺したのにも気付かず、どうせなら背中一面に描いて貰おうかな、などと は冗談で言った。
 さすがにそれは、マズすぎる。アサトは慌てて強く首を振った。

 アサトは筆に墨を取り、 の肌に近付けた。

「――うひゃあッ!」

「! …… ?」

 筆が一瞬触れた途端、 の肌が粟立った。奇妙な叫び声を上げた を、アサトは驚いて見つめる。

「あ、ゴメンゴメンなんでもない! 続けてちょうだい」

 全然なんでもなくない声で が告げたのにアサトは困惑したが、結局再び筆を近付けた。 が生唾を飲み込む。

「――ンッ、あ!」

「…!?」

 尋常ではない の声にアサトは筆を取り落とした。あらぬ事を想像し、動揺して筆を拾い上げると の肩が強張っているのに気付く。――もしかして。

「…… 、くすぐったいの苦手か?」

 アサトが恐る恐る尋ねると、 は苦笑いで肩を竦めた。どうやら、図星らしい。

「……うん。でも、我慢するから」

「……そうか。なるべくくすぐったくないようにする」

 なぜそこまで拘るのかがまるで分からなかったが、とにかく は最後まで描いてほしいらしい。アサトも覚悟を決めて の腕を掴むと、できるだけ刺激しないように慎重に筆を近付けた。


「……う、んん……っ」

「…………」

 細かに が揺れて悲鳴を飲み込むのを、アサトはたまらない気分で頭から追いやった。
 一体どうして、こんな事に。筆を滑らせながら、アサトは悶々とする気持ちを必死で押さえ付けた。





「――できた」

 やがて試練の時が終わり、アサトは息をつくと から身を離した。ぱっと顔を輝かせた が腕を覗き込む。

「……うわ、すごい! 綺麗……」

  の腕に、大輪の花が咲いた。アサトが精魂込めたおかげで、墨一色でも鮮やかな文様がくっきりと浮かび上がって見える。

「アンタ、器用なのね。すごいわ」

  が感心したように見つめてくるのを、アサトは少し誇らしく思った。 が喜んでくれた。それがとても嬉しい。
 やがて袖を下ろした は、アサトを見上げて朗らかに笑った。


「花、貰ったわよ。二つとない大きな綺麗な花。アンタと吉良につながる花。――ありがとう」

「……ッ」

 花の模様をせがんだ の真意が分かり、アサトは声を詰まらせた。
  が軽やかに食堂を立ち去る。あとにはあの花畑のほのかな香りが残された。――アサトと同じ、香りだった。




 その後数日間、 の腕には大輪の花が咲き続けた。ただ一匹、アサトだけがそれを知っていた。




 

 

 

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