6、手負いの黒猫
結局森の中で一晩を過ごした
は、翌日再び森を歩くことになった。 しかしそれにしても身体が軽い。陽気の良さも相まって
は気分良く緑の中を散策し、木の実や薬草を集めた。
虚ろに侵されていない森は、澄み切った空気に鳥のさえずりが響き
の心を癒した。 目を閉じると、木々のせせらぎ。
は自然と口を開き、歌を奏で始めていた。 ただし他の猫には聞こえないように、小さな声で。
歌は昔から好きだ。特に上手いということはないが、どんなに落ち込んでいても歌っていれば気分が浮上してきた。 さすがに父の死後は落ち込みすぎて弔いの歌すらも歌うどころではなかったが、今は少し落ち着いて振り返ることが出来た。 一曲歌い終わると、すぐに次の曲が口に浮かんでくる。 村の歌、喜びの歌、悲しみの歌、恋の歌、愛の歌――
は次々とレパートリーを口ずさんだ。
久し振りの行為に、声にも熱が入る。 それに
が一音を発するたびに、体中に力が満ちていく感覚がする。こんなことは今までになかった。一体昨日からどうしてしまったというのか。
長々と歌い上げ、さすがにもうないかと記憶を探ると大事な歌を忘れていたことに気付いた。 今まで最も身近にあった歌――鍛冶の歌だ。
はすっと息を吸うと、腹に力を込めて音を紡いだ。
赤々とした炎を。 槌を振り下ろす音を。 鉄から生まれる一瞬の火花を。 鍛え上げられた剣の光を。
あの家にあった全てを思い出して
は歌う。
故郷は、捨てた。 追い詰められていたのは確かだが、結局逃亡を選んだのは
だった。 ほとぼりが収まれば戻る日も来るかもしれないが、今はその時ではない。
悲しかった。悔しかった。置いてきたものたちが沢山あった。
それでも何とか生きていけると思った。 この歌と、腕と、父の魂ともいえる剣があれば、鳥唄で自分が育ったことを
はいつでも思い出せる。 故郷はここにある。頭の片隅で
はそんなことを思った。
「鍛えしつるぎの〜……って、え……」
不自然に
が声を途切らせたのは、前方に動く影が見えたからだ。 不安定に揺れる黒い影は
を見据え、
が口をつぐんだ瞬間にばったりと身を横たえた。というか倒れた。
「…………」
しばらく
は影を凝視していたが、それはピクリとも動かない。よく見ると、影ではなく褐色の肌の黒猫のようだ。しかもおそらく若い雄。
面倒に巻き込まれないには関わらないに限る。そう思って
は通り過ぎようとした。……が、三歩歩いて立ち止まり、大きく溜息をついた。
「あ〜、もう!」
つくづく非情になりきれない自分に呆れる。なんだって目の前で倒れるのか。これで放っておいて本当に死んだりでもしたら夢見が悪い。 とりあえず弱っているようだし、襲われたらまた蹴り倒して逃げよう。そう覚悟して
は黒猫にズカズカと近付いた。
念のため黒猫のものらしき剣を遠くに置き、
は猫を覗き込んだ。 黒猫は気絶しているようだ。脂汗を流し、呼吸が荒い。どこか怪我でもしているのだろうか。
「おい」
が雄を装って声を掛けてもピクリともしない。身体をざっと見やると左の肩口に大きな切り傷があり、赤黒い血が流れ続けていた。
「……っ」
は舌打ちすると、黒猫の身体を抱き起こし傷口を覗き込んだ。これは早く止血しないとまずい。 持っていた布を引っ張り出すと手早く傷の近くに巻き、きつく締めた。それから別の布を傷口に強く押し当てる。
「う……」
すると手当てが痛んだのか、黒猫が顔をしかめた。瞼が開き、ぼんやりと
の方を見る。その瞳は深い青色だった。
「……? ひかり――」
「は……?」
紡がれた謎の言葉に
が男装も忘れて間抜けに聞き返すと、黒猫は数秒視線を彷徨わせた後、目を見開いて突然
を突き飛ばした。
「……ッ!!」
「……お前、誰だ……」
黒猫が低く唸る。剣が手元にないことを悟ると、爪と牙を剥き出して戦闘態勢を取ってきた。それはまさに手負いの獣そのものの姿で、あまりの殺意に
は身体が固まった。
「吉良の猫か? でも見たことがない。……俺を追ってきたのか」
今にも自分に飛びつきそうな猫の姿に、気圧される。だがしかし、こんなことをしては傷に障る。
は引けそうになる尾を奮い立たせて立ち上がると、戦意がないことを両手を挙げて示した。
「……俺は吉良の猫じゃない。たまたま通り掛かったらアンタが怪我をしていたから手当てしていた。それだけだ」
一言一句、低い声を作って答える。気圧されたら負けだ。猫が逃げるのは構わないが、下手すれば自分が殺される。
「嘘だ……」
なおも黒猫が殺気を込めて言って来るので、
は少し強く反論した。
「嘘じゃない。肩を見ろよ。……どこに敵の手当てをする猫がいる」
黒猫がハッとして左肩を見る。そこに巻かれた布を見て困惑したようだ。動揺が顔に浮かぶ。
「嘘だ……こんなことする猫、いるはずがない……」
「…………」
あくまでも手当てを否定するつもりらしい黒猫の言葉に、
は段々腹が立ってきた。 一体何なのだ。手当てしたのがそんなに悪かったのか。 だったら早々に立ち去ってくれればいいものの、黒猫は相変わらず顔色悪く汗と血を流し、とてもすぐに動けそうな状態ではない。
「嘘だ……」
鋭い殺気はいつの間にか消えて、呆然と呟いた黒猫の言葉にとうとう
は我慢の緒が切れた。
「嘘じゃない! 嘘だと思うなら黙って手当てさせろ! ハイ、そこ座る!」
が思わず怒鳴り、ビシッと地面を指すと黒猫は目を丸くした。黒い耳と尾が緊張している。……ようやく言葉が届いたらしい。
黒猫が様子を伺うように
に視線を向けたが、
は無言で威圧した。黒猫は困惑した表情で渋々と腰を下ろした。
「手当て……してくれるのか……?」
座り込んだ黒猫がおずおずと尋ねてくるのを見て、
は溜息をついた。まだ言うか、この猫。
「だからそうだと言っている。……待っていろ、今薬草を出してやる」
が背を向けると、黒猫はようやくホッとしたように背後の木に凭れ掛かった。あの傷で動いたのだ。相当しんどいに違いない。
は荷物を漁ると、採ったばかりの薬草を取り出した。腹下し用、月のものの痛みによく効く草、化膿止めの実――……なんてことだ。傷薬を採り忘れた。
ありえない。歌を歌っていて見落としていたようだ。
は内心の動揺を押し殺し、小さく溜息を付いた。
……仕方ない。とりあえず化膿止めを飲ませて、効くかどうか全く不明だが痛み止めでも擦ってみよう。ないよりはマシかもしれない。 そう思ってまずは化膿止めの実を剥いていると、黒猫から声が掛けられた。
「お前――雌、なのか?」
不意打ちの問いに
の手が止まりそうになる。不自然にならないように動作を続け、平静を装って
は低く聞き返した。
「……なぜそう思う?」
「……さっき叫んだ声が、高かった。それに、なんとなく分かる。……俺はずっと近くに雌がいたから」
黒猫の言葉は疑問の形こそとっていたが、確信を持って言っているようだった。 ――怒鳴ったのはまずかった。この様子ではバレているのだろう。 冷や汗が落ちる。実を握りながら、
は全身に静かに緊張を漲らせた。
「そうか。……だったら、どうするつもりだ?」
言外に「ならば襲うか」と匂わせたつもりだったが、黒猫はきょとんと目を瞬いた。
「どうって、……どうか、するのか?」
「…………」
まるで質問の意図が分かっていなさそうな黒猫の姿に
は思わず「いや私がアンタに聞いてんだよ」と突っ込みたくなったが、脱力して実を握りつぶしてしまった。……臭い。
警戒して問答していたのが馬鹿らしくなってきた。
は手を拭くと、黒猫に向き直りフードを払った。
「……そうだよ。……言っとくけど、もし襲ったらその傷えぐるからね」
が顔を見せるとは思っていなかったのだろう。黒猫は目を丸くして「あ、ああ……」と気圧されたように頷いた。 その顔が思ったよりもずっと子供っぽくて、
はなんとなくトキノを思い出した。
「さ、これ食べて。結構臭いけど我慢して。今痛み止め擦るから」
黒猫に化膿止めの実を差し出すと、猫は黙って受け取った。そのまま実を口に入れると黒猫の顔が凍りつく。吐き出そうとするのを
は目で制し、無理やり飲み込まさせた。
「……すごい味だ」
「でしょうね。飲んだことない? 不味いけどよく効くわよ」
「……そうなのか。でも、すごい味だ」
子供のように繰り返す黒猫に軽く笑うと、
は石を拾って薬草を擦り始めた。滲む汁を水と混ぜる。そのまま数分置けば、荒削りだが即席の痛み止めの出来上がりだ。
が手を動かし続けていると、視線を感じた。それは雄がよく自分に向けていたような粘着質なものではなく、むしろ子供のように好奇心めいたものだったため
は手を止めて黒猫を振り返った。
「……何?」
「あ、その……ありがとう。疑ってすまなかった。それと、突き飛ばしてしまった。……大丈夫か?」
「ああ、大丈夫。結構丈夫だから気にしないで」
「そうか。あと、その、名前……」
一つ一つ言葉を探すように話す黒猫を
は驚きをもって見つめた。この猫、さっきとまるで印象が違う。
は黒猫に興味を抱いた。
「名前?
よ。アンタは?」
「アサトだ」
短く黒猫――アサトが返すと、アサトは
、
と何度も小さく繰り返した。
「何よ」
「いや……いい名前だと、思って」
「……ありがと」
パッと白い牙を見せてアサトが小さく笑った。それに虚を突かれて、
はぶっきらぼうに応えた。
なんだか妙な空気だ。やはり先程の殺気を纏った猫と同一とはとても思えない。その落差にどうも調子が狂った。
混ぜ終えた薬湯を傍らに置き、
は改めてアサトを見やった。
褐色の肌、黒い耳と尾。
の村にはいなかった色彩だ。左腕には不思議な黒い紋様が刻まれている。 戦闘に長けた猫、だろうか。今は離れたところにある剣の鞘は、使い込んであるように見えた。 透き通った青い目が
を見ている。そこには欲望を全く感じず、
はなんとなくくすぐったくなった。
「……不思議な猫、って言われたことない?」
時間潰しに聞いてみると、アサトはまた不思議そうな顔をした。……子供のようだ。
「ない。呪われた猫、とは言われたことがある」
「あ、そう……。それは随分違うわね」
呪われた猫とは随分物騒だが、敢えて深く追求せずに
は軽く流した。
「そうか。……あ、でも、初対面で変な猫と言われたことはある」
「あは……確かにそうかも。変な猫だわ、アンタ」
「そう……なのか? でも、
も変な猫だ。雌なのに一匹で、俺のことを助けたりする」
変な猫、と返されて
は一瞬固まった。阿呆猫呼ばわりされたり、怪しい奴呼ばわりされたり、旅に出てからなんと形容詞の増えたことか。 だがしかし、どれも嫌な感じはしなかった。
「そう、変かもね。でもつまらない猫って言われるよりはずっといいわ」
「なぜだ? 普通は皆怒る」
分かっているなら言わなければいいのに。そう思ったが、口には出さなかった。
「だって、変ってことは印象に残ったってことでしょう? 少しでも覚えていて貰った方が私は嬉しいかな。そう思わない?」
が軽く言うと、アサトは困惑したようだった。そんなにおかしなことを言っただろうか。
「……分からない。俺は、記憶に残らないように……あってないもののように生きろと言われてきたから。誰かに覚えていて貰って嬉しいかどうか、そんなことは考えたことがなかった」
「…………」
思いもよらぬ返答に
は言葉を失った。 言われてきた? ……誰に? 先程の「呪われた猫」といい、なんと悪意に満ちた言葉を受け止めてきたのか、この猫は。 村の猫だろうか。それとも家族だろうか。顔も知らない猫に
は憤りを感じた。
「……そう。じゃあやっぱり、アンタは変な猫で確定だわ」
「確定?」
「ええ。だってばっちり私の中で印象に残ったもの。忘れることなんてたぶん無理ね。……だから、覚えている。アサトは変な猫確定よ」
「…………」
アサトはしばらく呆然としていたが、
の言葉を反芻するとやがて綻ぶように笑って言った。
「覚えている……俺を……。そうか、
が覚えていてくれたのなら、俺は嬉しい」
「そう」
「じゃあ俺も
を覚えている。それで
が喜んでくれたら、俺も嬉しい。……変な猫仲間だ」
「そうね。……でも変な猫仲間はちょっと語感が悪いわ……」
がすかさず注意を入れると、アサトは不思議そうに首を傾げた。 その顔に
は笑って、飲み頃になって臭い立つ薬湯を差し出した。
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