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8、森での出会い
「――ライ!」
が叫んだ。その声は森の中によく響いたが、二匹を止めるには至らなかった。 薄い青色の瞳が確かに
を捉える。だがそれは一瞬のことで、ライはすぐにアサトに視線を戻すと振り下ろされる一撃を受けた。
――止めなければ。そう思うのに、それ以上声を出すことが出来ない。 二匹の殺気に押されたのではない。むしろ、目前で繰り広げられる凄まじいばかりの剣戟の応酬に
は目が惹き付けられていた。
(この二匹――すごい……!) 白銀の髪の軌跡の後に、黒い尾がたなびく。白と黒の衝突に
は制止も忘れただ見入った。しかし次の瞬間、
の身体は凍りついた。アサトの剣を受け止めんとするライが、笑ったように見えたからだ。 それは明らかに正気の笑みではなかった。闘いの余裕から生まれる冷笑とも違う。心から相手を傷付ける事を楽しんでいるような、愉悦を刻んだ狂気の笑みだった。
「やめろ!」
だがしかし、狂気の時間は長くは続かなかった。突然響いた雄の声とアサトの剣が叩き落された音で、その戦闘は終わりを告げた。
の身体からようやく緊張の糸が解ける。焦燥と高揚と歓喜と、そして恐怖――。様々な感情が吹き荒れ、心臓が激しく脈打った。
「――ッ! アンタ、あの宿の……」
「……?」
が息をついて顔を上げると、暗闇の中、三対の瞳に見下ろされていた。 アサトとライと、そしてなぜか宿で会ったフードの猫。
「…………」
フードも脱げて呼吸も整わぬ
と、驚愕を浮かべた三匹の猫は無言で見つめ合った。
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「えーと、つまり君がアサトと一緒に来たコノエ君で、はぐれたのをアンタが道中助けて、そしたら賛牙だった。で一緒に行動している時にアサトがたまたま見つけたから追ってきた……?」
数分後、案の定傷が開いて倒れたアサトの介抱をしつつ、
は手早く状況を整理した。コノエが持っていた薬草を受け取って、確認のために若い猫を見上げる。
「君、賛牙なの……すごいわね」
「別にすごくない。まだ大した歌が歌えるわけじゃないし……」
猫――コノエは答えを返したが、
と目を合わせようとしない。突然の
の出現に戸惑っているのだろうか。それとも黒い耳や痣に気付かれたくないがためか。
「そんなに警戒しないで。別に取って喰いやしないし、事情……知ってるから。アサトに聞いた」
はそう告げたが、コノエはなおも困惑した様子で
とアサトを交互に見た。
「アサトと一緒にいた……んだよな? あんた達、つがいなのか」
「は……」
何故いきなりそうなるのだ。予想もしなかったコノエの言葉に、
は思わず手を止めてアサトと見つめ合った。アサトは目を見開いている。きっと自分も同じ顔をしているだろう。
「違う、けど……。アサトに会ったのもついさっきよ。ひとりで森を歩いていたら、たまたまアサトが倒れていたの。それだけ」
「それだけって――」
あっさりと言った
にコノエが言葉を失うと、それまで三匹の遣り取りを静観していたライが口を開いた。
「また単独で森を歩いていたのか。つくづく学習能力のない雌だな」
「……ッ、お前……
を悪く言うな!」
鼻を鳴らすような言い草に、
もカチンと来る。アサトがすかさず牙を剥いて唸ったが、ライは全く動じなかった。
とて、もともとそんなに気が長い方ではない。背の高い白猫を見上げると、
は険を含ませて口を開いた。
「なんなのよ一体。――言っとくけど、今回は道もしっかり把握してるし、目的があるから森に入ったのよ。必要があればどこへだって行くわよ。雌だからって馬鹿にしないで」
「馬鹿にしてるんじゃない。馬鹿だと言ってるんだ。不用意に気配を悟らせて、前回も襲われたんだろうが。得体の知れない雄猫を拾う阿呆がどこにいる」
「拾うって何よ。アサトは物じゃないでしょ! それに一度失敗したからって何もできないって決め付けないでよ!」
真っ向から歯向かい、
はライを睨み付けた。二匹の視線が交差する。
「…………」
「…………」
二匹は無言で睨み合った。見守るコノエとアサトが口を挟めないほど、濃密で緊張した時間が流れる。それを破ったのはライの馬鹿にしたような笑みだった。
「……ふん、阿呆猫が」
「……! なによ、この俺様猫!」
が負けじと言い返すと、それきり興味を失ったようにライが視線を逸らして立ち去った。
も座り直し、再びアサトの手当てを始める。
(何なのあの猫! ムッカつく!)
大人げないとは思うが、
は苛立ちを抑えることが出来なかった。何も馬鹿にしたような態度に怒ったのではない。前回もこんな調子だったし、この猫はきっといつもそうなのだろうと
は感じていた。 前回も今日も、ライの言う事には一理ある。だが傷付いた猫を物扱いしたのには怒りを感じたし、ひとりでは何も出来ないと言わんばかりの言葉は今までの自分の行動を否定されるようで悔しかった。
――分かっている。村を出てから、感情が過敏になっているのが。明日が知れぬ不安と、襲われるかもしれない緊張感に心が擦り減っている。だからこんなに容易くあの猫の言葉が胸に刺さるのだ。
半分八つ当たり気味で怒鳴ってしまった事を後悔して、
はアサトの肩に布を巻き直した。 すると、黙ってそれを見ていたコノエが口を開いた。
「アンタ……結構すごいな」
「え。……ああ手当て? こんなの誰でもできるわよ。君が薬草を持っててくれて助かった」
コノエから話し掛けてきた事に少々驚きつつ、
は薬草の残りをコノエに返した。
「そうじゃなくて。あいつに、あれだけ言い返せるのってすごいっていうか……」
「……すごいの? 半八つ当たりで怒鳴ってただけだけど」
「その事自体がすごいだろ」
「ああ、
はすごい。あいつを黙らせた」
よく分からないが、
がライに歯向かったことに二匹は驚いたようだった。少々後ろめたい気分だったため、
は「あ、そう……」と小さく肩を竦めた。
その後、アサトの容態を見届けたということで
は藍閃へ帰るべく森へ入ろうとした。しかし「こんな夜に動き回ってまた襲われるつもりか」と呆れた調子のライに諌められた上に、アサトとコノエにも猛反対された。確かに既に日は暮れていたし、闇雲に動き回っても良い事はないので結局
は朝までは三匹と同行することにした。
そして休息を取ろうと火の傍に腰を下ろした瞬間、突如として不吉な「声」が耳元に囁かれた。
「こんなところで道草? のんびりしてるねぇ」
「ッ!?」
がバッと振り返る。コノエもアサトも樹上で見張りをしていたライも同じものを感じたようで、周囲に視線を走らせていた。 目を凝らした闇の中に、いつの間にか白い異形の招かれざる客が浮かんでいた。
フィリと名乗ったその少年は、悪魔というか魔物というか、とにかく猫ではなかった。フィリが好き勝手に喋っている間、
はその姿を凝視していた。
フィリのような者を見たのはこれが初めてだ。悪魔、なのだろうか。本当に存在していたとは。 フィリは一通り喋った後、視線を感じたように
の方を向いた。今初めて気付いたとでもいうように軽く目を見開くと、少年は小馬鹿にしたように唇を笑ませた。
「へぇ、雌も仲間になったの。なんのため? 慰み者にでもしてるの? それ以外に役に立たないもんねぇ」
「……なんですって」
視線を奪われていた
だが、フィリの言葉に低く威嚇の声が漏れた。
「でもお前……なんだか、嫌な臭いがするね。あの方には近付いて欲しくないな……」
「え……」
フィリの目が汚いものでも見るかのように細められる。その冷たい視線よりも、
はフィリの言葉が気に掛かった。どこかで似たような言葉を聞いたことがある。
「どういう――」
が問い掛けようとすると、フィリは既に視線をコノエに戻していた。
「リークス様は、お前と会えるのを楽しみにしてるよ。だから、早くおいで」
コノエの制止の声も無視して、フィリはそれだけ告げると宙返りをして闇に消えた。後には静寂が訪れる。
「リークス……」
コノエが呟くのを聞きながら、
はフィリの言葉を頭で反芻していた。あれは……そう、夢の中で悪魔と名乗った者が言っていた言葉に似ていた。片一方は現実の出来事ではないため偶然だとは思うが、やけに気に掛かる。
はいまだ虚空を見据えたままのコノエに問い掛けた。
「あいつ、何なの」
「……分からない。俺に呪いが現れた直後にも森に現れた」
「君の呪いには、あいつの仲間が関わっているってこと?」
「多分、そうなんだと思う。――でも全然分からない。くそっ……」
苛立ちを露わにするコノエに掛ける言葉が見付からず、
はその場に座り込んだ。 緊張が解け、ひどく身体が重く感じられた。
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