2、大切なもの
が去った部屋で、アサトはしばらく呆然としていた。最後に落とされた淡い口付けの感触が生々しい。落ち着かない気分でふと目を逸らすと、今度は敷布の剥ぎ取られた寝台が目に入ってきた。そこで先程まで自分が行った事、
に行われた事がありありと思い出されて、アサトは再び頬を染めた。
――抑えきれなかった。
自分だって発情期は経験してきたが、求めずにいられないほどの衝動を感じたのはこれが初めてだ。
に押し倒され、その手で声で目で煽られて理性はあっという間に飛んだ。たとえ
が行動しなくとも、その次の瞬間に自分が組み敷いていただろう事も今となっては容易に想像できた。
柔らかい、雌の身体。本能によるものだけではない衝動にアサトは溺れた。
おそらく
は、最後まで行為に及ぶ事までは望んでいなかったのではないかと思う。 己を突き入れる瞬間、確かにアサトの腕から逃れようとしていた。あの時はそこでやめる余裕がまるでなかったが、冷静に思い出してみると
は躊躇していた。――しかも、初めてだったのなら尚更だ。
強引な事をしてしまったとアサトは再び唇を噛み締めたが、同時に胸の奥で否定できない別の感情が湧き上がった。
(――嬉しい。
は俺が初めて。俺も
が初めて)
初めて身体を重ねた相手は、大事な大事な猫だった。発情期の衝動ではあったが、今の祇沙でそれが叶う猫はきっとほとんどいない。 自分の行いに幾ばくかの後ろめたさを感じながらも、消えそうな声で「ありがと」と言った
の苦笑を思い出して、アサトは黒い尾をブンと振った。
を思い出すと、コノエを想うのとはまた違うモヤモヤしたものが胸に溜まる。発情期は去ったが、この不可解な衝動を散らしたくてたまらない。アサトは部屋の壁に目を向けると、わずかに逡巡してから飛び付いた。
(宿の中は駄目だと言われたが、少しなら――)
「――アサト? 何してるんだよ」
「ッ!!」
いざ爪研ぎに励もうとしたアサトの背に、コノエの訝しげな声が掛けられた。いつの間に入って来たのだろう。アサトが目を丸くして顔を向けると、コノエは呆れた様子で腕を組んだ。
「部屋で研ぐなって言ったの、忘れたのか? 研ぎたいなら外行って研げよ。……あれ?」
「……?」
苦笑して言ったコノエが、首を傾げる。そのまま鼻を嗅ぐ様子をアサトは爪を収めながら見守った。
「ここに
、来てたのか? なんか、匂いがする」
「……!! い、いや……来てない……」
「そうか? 俺の思い違いかな……」
コノエの指摘に目を剥いたアサトは、咄嗟にその言葉を否定した。 ――嘘を、ついてしまった。再び後ろめたい気持ちで黙り込んだアサトの耳を、コノエの声が通り抜けていく。
「――ト? ……アサト? おい、アサト!」
「ッ!? ――ああ、済まない……」
嘘をついてしまった理由が分からず、考え込むアサトに声が掛けられる。驚いて見ると、コノエが心配そうな顔で覗き込んでいた。
「お前、どうしたんだよ。何かおかしいぞ。――って、どこ行くんだよ」
コノエが心配しているが、何だか頭がぼんやりとして思考が上手く纏まらない。アサトは窓枠に手を掛けると、コノエを振り返った。
「すまない……少し、風に当たってくる」
「それはいいけど……気を付けろよ。吉良もそうだけど、今日の冥戯の猫の事も気になるし――」
「……ああ。コノエも気を付けてくれ……すぐに戻る」
コノエの発言に忘れていた事実を思い出してアサトは息を詰めたが、そのまま静かに夜の街から森へと駆け抜けた。
その晩アサトは、結局宿へは戻らなかった。コノエの事はもちろん心配だったが、発情期でうやむやになっていた事を思い出し、ひとり森で考え込んでいたのだ。
今日――いや、もはや昨日か。コノエと共に花畑で会ったあの冥戯の猫の言葉。
自分の父親は、冥戯の猫だったらしい。 自分に残された時間はあと僅かだけ。あの夢は夢ではない……。 そして、大切なものを守りたいなら……自害するしか道がない――
――分からない。あの猫が何を言っているのか分からない。そう否定したい心の裏で、ほぼ全てを理解している自分がいる。
夢は、夢ではない……つまり、近いうちに自分は自分ではなくなってしまうのだろうか。 もしその時に、「大切なもの」を傷付けるような事があったら……?
――嫌だ。 今、側にあるもので「大切」と言われて思い出すのは、コノエと
の二匹の猫の事だ。 自分を吉良から連れ出して綺麗と言ってくれた猫と、どんな姿でもアサトはアサトだと言い、共に帰ろうと手を差し伸べてくれた猫。……どちらも、大切だ。
あの二匹を傷付けるくらいなら――
アサトは目を閉じると、固く左腕の痣を握り締めた。
日が昇って藍閃の宿へと帰ると、そこにコノエはいなかった。バルドに聞くと、どうやら森に出掛けたらしい。もしかしたらあの花畑かと思ったが、一匹で行ったという事はそうなりたかったという事なのかもしれない。 追い掛けるのは諦めて、アサトは何気なく食堂の扉を開いた。
「――ッ!」
そこには
がいた。ただし、無防備に瞳を閉じて眠っている。
「ああ、起こさないでやってくれよ。何かずっと起きてたみたいでな」
「起こさないが……こんな場所で寝てるのは危ない。他の奴が来たらどうするんだ」
背後から覗き込んだバルドが小声で話し掛けてくる。雌が寝ているのを放置していた事に憤りを感じてアサトが睨むと、バルドは片眉を上げて肩を竦めた。
「俺もそう思って部屋に戻れと言ったんだが……ここであんたを待ってるって言われてな。いや、熱いね」
「? ……!」
バルドの言葉を理解し、アサトの顔が染まる。「ゆっくり休ませてやれ」と一声掛けて、バルドは静かに扉を閉めた。眠る
とアサトが残される。
「…………」
アサトは迷ったが、結局
に近付いた。足音を立てても
は起きそうにない。何故かは分からないが、もしかして一晩中待っていたのだろうか。 緩やかに上下する背を見下ろし、アサトは
を見つめた。
薄い光を受けた金の髪が木のテーブルに流れている。アサトの好きな、陽の月の光のような髪だ。 細い背には毛布が掛けられていた。ずり落ちそうなそれをそっと掛け直す。 前髪が被さった瞳は今は閉じられていた。その無防備な寝顔に小さく胸が跳ねたが、それは昨日感じたような生々しい衝動ではなかった。もっと……痛い。
――大切だ。この猫が……胸が痛くなるほどに。大切だから――
「…………」
を起こさないよう細心の注意を払って指で髪をそっとかき上げると、アサトは眠る
に口付けを落とした。
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