3、つがい





 翌日 がテーブルの上で目を覚ますと、何故かアサトに覗き込まれていた。アサトを待っていてそのまま眠り込んでしまったらしく、身体の節々が痛む。だがそれよりも気になるのは、何故アサトがこんな所にいてしかも自分の寝顔を見ていたのかという点についてだ。

「アサト。……何してるの」

「?  の顔を、見ていた」

「…………」

 ジト目で問うときょとんと答えられ、 は無言でその頭を軽く小突いた。突然の行為にアサトが目を見開く。

「……なんで殴るんだ?」

「殴ってない。……何でもよ。他の猫の寝顔なんて、つがいや家族でもなければ覗き込んじゃダメなの」

 無防備な寝顔を見られた気恥ずかしさと、昨日発情期で色々あってから初めて顔を合わせるという気まずさで が顔を逸らしつつボソリと呟くと、アサトが首を傾げた。その様子を見て は思った。――いつも通りのアサトだと。だがその思いは、続くアサトの言葉によってあっさりと覆された。

「という事は……俺と がつがいになれば、いいのか?」

「……! バッ――」

 馬鹿じゃないの。そう言おうとした は、アサトの瞳に浮かぶ真剣な光を見て取り口を噤んだ。焦燥のような、懇願のような、熱のこもった眼差し――澄んだ青い瞳に射竦められ、 の頬に熱が集まった。

「あ……」

 ……心音が上がる。アサトにこんな目で見られた事は、なかった。そして自分がアサトをこんな風に見た事も、なかった。アサトを「雄」として、意識している――

「――っとぉッ! 違う違う、それは取り合えず置いといて。……言う事があるんだった」

 思考の淵に沈み込みそうな自分を奮い立たせて、 はガバと起き上がるとアサトを見下ろした。アサトが瞬きをする。

「ゆうべ――カガリって猫が、宿に来たわ。アンタを追ってきてるみたいだった」

「――! まだ、帰ってなかったのか……」

 青い瞳が驚愕に見開かれる。呟かれた言葉に、 は推測が正しかった事を知った。アサトは……吉良でも最も親しかった間柄の猫に、命を狙われている――。

「……前にも襲われた事があるのね……。でも、昨日は私たちを助けてくれた。コノエといたら冥戯の猫が襲ってきて……カガリはその猫を引き付けてくれたの」

「カガリが?」

「そう。私とコノエが殺されると、大変な事になる気がするって……。どういう意味かしら」

「…………」

  が首を傾げると、アサトは沈痛な面持ちで黙り込んだ。それは気になったが、アサトも思うところがあるのだろう。 は深追いはせずに首を振ると、静かに立ち上がった。そのまま食堂の扉に手を掛ける。

「ああ、そういえばコノエが朝っぱらから出掛けて来るって言ってたわ。あの花畑だって」

 振り返って告げると、アサトがこくりと頷いた。 は手にした毛布を少し持ち上げて、笑った。

「これ、アンタが掛けてくれたの? ありがとう」

「いや、それは――」

 アサトの返答を聞かず、 は扉を閉めた。――朝日が眩しい。
 扉の奥でアサトが「違うんだが……」と呟いたのには、勿論気付かなかった。











 ――午後になっても、コノエは帰って来なかった。
 たった半日の事なので は大して気にもしていなかったが、アサトが不安げにそわそわし始めたのを見かねて、「そんなに気になるなら一緒に迎えに行こう」とアサトを連れ出したのだった。



「ああ、やっぱりここはいいわね」

 森から花畑へ辿り着き、咲き誇る花の芳香と色彩に はうっとりと呟いた。ほんの数日前に来たのが随分の昔の事のように感じられる。

「……コノエの匂いがする」

「そうなの? ……すごいわね、私には分からないわ」

 花には目もくれずにじっと佇んでいたアサトが小さく呟く。――そう、コノエは花畑にはいなかった。 はこの場所に来た目的を思い出すと、必死にコノエの気配を探っているアサトを追った。

 コノエの気配を追って、二匹は森に入った。コノエの気配が途絶えた場所でアサトが呆然と「ここで急に消えている」と呟いた事により、 もようやく事態の不自然さに不安を抱き始めた。
 その後も森中を駆け回ったが、コノエが見つかる事はなかった。



 夕暮れも間近になって、二匹は再び花畑へと帰ってきた。コノエが戻ってきているのではないかという淡い期待は、あっさりと打ち砕かれた。

「大丈夫よ。宿に帰ったら戻っているかもしれないし。少し休んだら、私たちも戻りましょ」

「…………」

 疲労に座り込んだ は、同じく隣に座ったアサトを見上げて明るく言った。だがその表情が晴れる事はなく、ぼんやりと下を向いている。目元には薄いクマが――クマ?

「ねぇアサト、もしかして眠い……?」

「眠く、ない……。コノエを探さないと……」

 そう言うが、座り込んでから何度かこくりと頭が下がってきている。もしかしたら、昨日出て行ったきり眠れていないのかもしれない。 は呆れると溜息をついた。

「明らかに眠そうじゃない。少し眠った方がいいわよ。今更ちょっと遅くなっても変わらないわよ」

「しかし……」

「そんなにフラフラじゃあ、コノエが逆に心配するわよ。いいから寝なさい」

 なおも言いよどむアサトを が軽く睨み付けると、アサトは観念したように頷いた。そして目を閉じると、バッタリと倒れ込んだ。―― の膝の上へと。

「! ちょ……アサト…?」

 突然委ねられた重みにうろたえて が声を掛けるが、アサトから聞こえてきたのは静かな寝息だけだった。……何という寝付きの良さだろう。というか、これはもしかすると「膝枕」というやつではないのか。

「う、うわぁ……」

 恋猫同士がするような恥ずかしい行為に の頬が赤くなった。だがもっと恥ずかしいのは、自分がこの行為を嫌悪感もなく受け入れているという事だ。
 嫌悪感どころか、ちょっと嬉しい……いや、かなり嬉しい。恥ずかしいが甘えられている気がする。

「――もう。……参ったなぁ……」

 誰に聞かせるともなく呟くと、 は眠るアサトの顔を覗き込んだ。瞳が閉じられた顔は、精悍さが少し減ってやや幼い。意外なものを見たと内心得をした気分になった は、朝の会話を思い出して微妙な気持ちになった。


『つがいや家族でもなければ――』

『俺と がつがいになれば――』

 ……つがい。自分やアサトが言ったのは、闘牙と賛牙の関係の事ではない。生涯のパートナーとしてのつがいだ。少し前まではそんな事を考えるどころか雄に近付かれるだけでも嫌だったのに、ここに来て急速に雄との距離が縮まってきている。……他でもないアサトと。

 もしも将来、つがいになるなら――こんな不器用で優しい猫がいい。

 アサトの固い髪を無意識に撫でながら、 はそんな事をぼんやりと思った。









 アサトの寝顔を見ているうちに自身も眠り込んでしまった は、膝の上のアサトの異変に気付いて目を覚ました。

「……アサト?」

 アサトが、うなされている。苦しげに顔を歪めて汗ばんでいるその様子は尋常ではない。 が身体を揺すって起こそうとすると、アサトが目を見開いた。

「――見るな!!」

「……っ!?」

 叫んで飛び起きたアサトが、両手を掲げる。確かめるようにその手を見つめ、 に呆然とした眼差しを移した瞬間。―― はアサトに押し倒された。

「アサト…!? なに……痛…ッ」

 肩を押さえ付けられて、 は思わず呻いた。押し潰された花々が強く香る。アサトを見上げると、まだどこかぼんやりとした顔が を見下ろしていた。ぼんやりとしているくせに――妙な熱を感じる。

「アサト! 何してるのよ! 離して……ッ」

 いくら抵抗しようとも、雄猫の力に が敵うはずもない。唯一自由になる口で再び叫ぼうとした は、それすらも手のひらで塞がれて仰け反った。
 露わになった喉に、アサトが顔を寄せる。顎の下の柔らかな部分を舐め上げられ……傷を作らない程度に、甘噛みされた。

「!!」

 急所への仕打ちに、 の身が本能的な恐怖に強張る。その場所を次の瞬間に食い破られれば……生きてはいられないだろう。まるで獣が獲物をいたぶるような行為に、鳥肌が立った。

(獣……? ううん……)

 予想もしなかった暴力的な行為に、 の身が竦む。力で捻じ伏せられ――怖い、悔しい。
 ……だけど。

「アサト……どうしたの……?」

 解放された口から小さく息を吸い、 はゆっくりと問い掛けた。声が震えはしなかっただろうか。
 言葉だけでは足りない気がして、アサトの首に手を回しぽんぽんと叩いた。――戻って、と。

「アサト……」

 その額を自分の肩に押し付けさせると、アサトの纏う暴力的な気配が急速に収まっていった。 が何度目かでその名を呼んだ後、アサトはゆっくりと の上から身を起こした。

……俺は……、すまない――」

「ううん、大丈夫……。嫌な夢でも、見た?」

 呆然と呟いたアサトの目に、先程の凶暴な影は見えなかった。それにホッとしつつ穏やかに問い掛けると、 から距離を取って座り込んだアサトが小さく頷いた。
 今すぐこの場から逃げ去りたいと言う雰囲気だ。だが 一匹を残して立ち去れないといったところだろうか。アサトはそのまま申し訳なさげに黙り込んでしまい、二匹の間に重い沈黙が落ちる。



「――あの、ね……」

 やがて、沈黙に耐えかねた がぽつりと口を開いた。アサトが暗い顔を僅かに向ける。

「嫌な夢を見た時はね、明るい歌を歌うとその夢を追い払えるって言われてるの。これって鳥唄限定かもしれないけど、ええと、まぁ出身の私が歌えば効くかもしれないから――勝手に歌うわ。私も嫌な夢、見たから」

 アサトの顔を見ないままモゴモゴと呟くと、 は小さく息を吸った。そのまま、 の知る限りの明るめの歌を紡いでいく。最初は恥ずかしかったが、徐々に声が大きくなっていった。戦闘のためではなく歌を歌うのは、思えばアサトに出会った時以来なのだ。

 歌いながらアサトを横目に見ると、アサトは目を閉じて聞き入ってくれているようだった。多少なりとも気が紛れてくれれば良いのだが。

「――ふぅ、スッキリ。……さ、帰ろう?」

 歌い終えて、 は立ち上がるとアサトに手を差し出した。だがアサトはその手を取らずに立ち上がると、 から僅かに距離を取って歩き始めた。微妙な距離感に の胸が少しもやついたが、あんな事の後だったので仕方ないと思い、黙ってアサトに従った。





「さっきの……夢を歌で払うっていう、話……」

「うん? ああ、私は母親に教わったっぽいんだけど、鳥唄あたりの言い伝えみたいね」

 帰り道で、アサトが僅かな緊張を保ったまま に問い掛けてきた。そんなに気にしなくていいのにと思いつつ が答えると、アサトは僅かに歩みを緩めて話を続けた。

の母さんは、いつ亡くなったんだ?」

「ん? もうずっと前よ。顔も覚えてないくらい」

「そうか。……でも、 の母さんも歌が好きだったんだな」

 綻ぶように穏やかに笑ったアサトに、 の胸が不覚にも小さく跳ねた。それを隠すように頷くと、 は慌てて言葉を紡いだ。

「確かに歌はすごく好きだったみたいね。父さんが言ってた。……アサトのお母さんは、どういう猫だった?」 

「……よく、覚えていない。俺の母さんも小さい頃に、死んだから。でも、家とこれを俺に残してくれた」

「……? 花びら……?」

 足を止めたアサトが、おもむろに服から何かを取り出す。手のひらに乗せられたそれを見ると、瑞々しい花びらのようだった。

「これが、形見……?」

「そうだ。枯れない」

 ――枯れない花びら。母親がその花を好きだったのではなく、この花びらそのものが母親の形見だと言うのか。

「へぇ……綺麗ね」

 にわかには信じがたかったが、悪魔がいて呪いが発動するような世界なのだ。枯れない花びらくらいあったっておかしくない。 は素直にそう納得すると、アサトの手に鼻を近付けた。くんと嗅ぐと、あの花畑と同じ匂いがした。

 アサトがビクリと手を引いて花びらを懐にしまうのを何となく寂しく眺めつつ、二匹は宿に向かって歩き始めた。















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