深夜になっても、コノエは宿に戻って来なかった。
 別に子供ではないのだし、一晩くらい留守にしても心配するような事はない。そう思う反面で胸の中に何かの引っ掛かりを覚えて、 は首を捻りながらも床についた。



    闇の断章  リークス




「…………。――?」

 寝付いてからどれ位経っただろうか。 は室内に他者の気配を感じてふと目を覚ました。
 ……殺気ではない、知っている猫の気だ。のそりと身体を起こして目を凝らすと、フードを被った猫のシルエットが浮かび上がった。顔を隠してはいるが、その姿を見間違えるはずもない。


「……コノエ……?」

  はその名を呼んだが、その猫はぴくりとも反応しなかった。滑るように歩みを進め、 に近付いてくる。平時とは異なるその様子に は困惑しながらも、ホッと息を吐き出した。

「どこ行ってたの? みんな心配してたのよ。まぁ無事で良かったけど……」

「…………」

 コノエが に近付く。とうとう の目の前に立つと、フードの下から唯一覗く唇が……小さくしなった。

「久しいな、

「……?」

 コノエらしからぬ口調に、 の眉がひそめられる。それから遅れてやってきた悪寒のように毛が逆立つ感覚に、 は愕然と目を見開いた。

 ――この猫、コノエではない。それどころか身体中を縄で締め付けられ、心の奥底から揺さぶられるようなこの感覚には、覚えがある。

「リークス……」

  が呆然と呟いたのを合図に、フードの猫はその布を振り払って仮初めの姿を暗闇に晒した。




「どういう事……どうして、お前が……!」

  が敵意を剥き出してリークスを睨み付けると、魔術師はゆったりと笑った。……コノエの顔で。
 その顔も身体も、間違いなくコノエのものだ。それなのに、浮かぶ表情は到底コノエのものではありえない。 はその身体に掴みかかりたい衝動を抑えながら、ぐっと奥歯を噛み締めた。

「その身体はコノエのものよ。どうやって入ったんだかは知らないけど、早く出て行きなさい!」

「ほう……勇ましい事だな。尾を下げ萎縮しながらも、一人前に吠えるか」

「……何ですって」

  が低く呟くと、リークスはうっすらと目を細めた。揶揄するように笑みを浮かべると、 を嘲るような言葉を口にする。

 ……挑発だ、乗ってはいけない。そう思うのに、怒りが湧いてくるのを抑えられなくなっている。コノエの事だけではない。前回と同じように、 の中の何かがこの猫に煽られる。


「私が恐ろしいのだろう? お前の恐怖が伝わってくる。そうしながらも、この猫のために吠えるのはなぜだ? 情が湧いたか」

「……お前にそんな言い方をされる筋合いはない。コノエが何をしたの!? もう関係ないでしょう、コノエから出て行きなさいよ……!」

「ふ……関係ない、か。――果たしてこれを見ても、そう言えるかな……?」


 激昂寸前の を見遣り、リークスは笑みを浮かべると手甲をめくり上げた。月光の元に晒された漆黒の証に は息を呑んだ。――呪いの痣…!



「なんで――呪いは解けたんじゃなかったの……!?」

「解けた? あの状況で本気でそう信じていたなら、めでたい事だな。私とコノエは、常に繋がっていた。……お前たちが祭に浮かれている間もな。私にとって呪いを操る事など、児戯にも等しい」

「……!」


 ――つまり自分たちは、リークスの手の上で転がされていただけ、という事か。
 一時の安らぎに酔い、安息を得たと思っても……結局何一つ事態は変わっていなかったのだ。
  は突き付けられた事実に歯噛みすると、両手をきつく握り締めた。


「それで……お前は何をしに来たの? コノエはどこ行ったのよ。まさかもうコノエから出ないつもり……?」

 悔しさを紛らすように が低く呟くと、リークスは首を振った。

「コノエの心は眠っているだけだ。今日のところは、返してやるさ。……今はまだその時ではないからな」

「? ――ッ!!」


 不穏な言葉に が眉をひそめた次の瞬間、 は強い力で顎を取られて顔を歪めた。動く事が出来なかった。……いや、何かの術で動きを封じられている。

 ――いつの間に。焦る の顔を、痣の浮かんだ腕が仰のかせる。 を覗き込むようにリークスは目を細めると、口端を吊り上げた。


「今夜は挨拶に来ただけだ。……その顔に、敬意を払って」

「顔? ……! そういえば、フィリもそんな事を言ってたわ。お前に逆らった猫に似てるって。……どういう事よ」

「なんでどうしてと、うるさい猫だな……。そういうところも、あの愚かな雌に似ている」

 顎に掛けられた指に、力が入る。リークスの顔がわずかに歪み、底知れぬ昏さを湛えた瞳が を見据えた。その瞳が徐々に近付いてくる。
 口付けされるかと咄嗟に首を竦めた は、だが次の瞬間に耳元で低く囁かれて身体を強張らせた。



「――――。この名前に、聞き覚えがあるな? ……愚かな雌の名だ」



「!! ……なんで、その名前を……」

 リークスが呪うように呟いたのは―― の母親の名だった。記憶の底から引きずり出されるように晒された名に、 が目を見開く。

 ……なぜ、リークスがそんな事を知っているのか。リークスと自分たち一家に、何一つ関係などあるはずがないのに!

「やはり、聞いていないか。……いいだろう、今日までしぶとくコノエの側にいた褒美に、特別に昔話をしてやろう」

「なに……」

 衝撃に頭が付いていかない には構わず、リークスは滔々と語り始めた。…… の知りえない、 の母親の話を。


「もう二十年近くも前、お前の母親はたった一つの目的のために全てを捨てた。お前の父親にも、幼いお前にも構わず。……それぐらいは知っているな?」

「…………」

 ……捨てられた。突き付けられた言葉に、今更ながら の胸が鈍く軋んだ。
 母親の事はほとんど覚えていないが、自分と父親は……捨てられたのだろうか。たった一匹の、妻であり母であった雌に。

「護るべきものがありながら、あの雌は全てを振り切った。……愚かな事だ。そこまでして奴を駆り立てたものが何か、お前に分かるか?」

 母親が全てを捨てても得たかったもの。そんなもの、 に分かるはずがない。全ては過去の事で、 がそれを知る手掛かりなど一つとして残ってはいないのだ。
 顎を掴まれて首を振れない代わりに が目を伏せると、リークスは鼻で笑った。

「――知りたかったから、だそうだ。肉親の死にまつわる情報を求めて、あの雌は私の前に現れた」

「!」

 フィリの告げた言葉と、今聞いている話の内容が次第に繋がってくる。 に似ているという雌……つまり母親が、リークスに逆らったとフィリは言っていた。
 逆らって…それからどうなった?  はその先を思わず想像し、ぞくりと毛を逆立てた。

「はじめは追い払っていたが、しつこくてな……。段々と私も、耐え難くなってきてしまった」

「…………」


 その先を、聞きたくない。容易に想像できる結末を恐れ、 は目を見開いた。しかしリークスは構わずに話を続ける。

「その頃私はある魔術を研究しているところでな。……他者の深層に潜り込み、意のままに肉体を操る魔術――この前、村猫たちに施した魔術より一歩高位のものだ。それを、試してみたくなった。……生きた猫で」

「……ッ」

 ――嫌だ、言うな、聞きたくない!
  は目を見開いたままカタカタと震え始めた。まさか、まさか母親は――


「そんな時に飛び込んできたのが、お前の母親だ。――使わせてもらった」

「!! ……お前ッ! なんて事を――!! ぐ…ッ!」

 明かされた事実に激昂した は、しかし次の瞬間リークスに強く引き寄せられ、荒々しく唇を塞がれた。
 一瞬だけ牙同士がぶつかり、血の味が広がる。切れたのは の唇か、コノエの唇か……分からない。口端を染めたリークスが、 の頬に爪を立てる。


「離して! お前…ッ、許さない!!」

「そう、その顔だ。……あの雌は愚かだが、その緑の瞳が怒りに震える時だけは美しかった。もっともすぐに、気が触れて死んでしまったがな」

「……!! リークス…ッ、殺してやる……!!」

 爪が頬に喰い込んでいく。わずかに温かいものが滲むのを感じながらも、 は渾身の力を込めて叫んだ。
 ――母は、殺された。この目の前にいる、闇の魔術師に……!


 寂れた村で、操られていた猫達の屍が流した涙。声にならない叫び、慟哭……。
 あんな風に操られて、母親は死んだのか。リークスに逆らって、不快を抱かせた。ただそれだけの事で!


 動けない が憎悪を込めてリークスを睨み付けると、リークスはその指を離し の肩を軽く押した。呪縛の解けた身体は急には立て直せず、 が思わず膝をつく。




「お前が怒りに震える姿は、私を楽しませてくれる。その光の力を怒りに変えて、私を追ってくるがいい。……あいつのように簡単には死ぬなよ。つまらぬからな」

「……!!」

 それだけを告げて、リークスは扉から去っていった。残された は必死に立ち上がろうとしたが、足に力が入らずもがくばかりだ。
  は拳をきつく握ると、渾身の力を込めて床を両手で叩き付けた。



 殺された母親。 を知っていたリークス。解けなかったコノエの呪い。
 ――すべては、リークスの手のひらの上で。



「……っ!! リークス…ッ、リークス……!!」



 やり場のない怒りを抱え、 はその名を叫んだ。この衝動を晴らすにはただそうするしかないというように、金の雌は力の限りに床を叩き続けた。








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