4、契約





 衝撃が去ってのろのろと立ち上がった は、ひとまず気持ちを落ち着かせるために水を求めた。落ち着いたらコノエを探しに森に入ろうと思っていた。

 だが部屋の隅に水樽がない。どうやら今朝、バルドの動向が気になって自分の部屋に樽を運ぶのを忘れてしまったらしい。
  は気を紛らわそうとしたが、思い出したらますます喉が渇いてきて結局階下へ向かう事にした。


 本当は、今はまだバルドに会いたくなかった。娼館から帰ってきたらしいのは分かっていたが、何となく顔を合わせるのが憚られた。
 だけど、明日になって落ち着いたら……リークスとの事を聞いてもらいたいとも思っていた。


 厨房にバルドがいなければいい。そう思いながら階段を降りた は、暗い待合室に大柄な影を見つけて思わず声を上げそうになった。

「!! ……ヴェルグ…?」

「あ”? ……何だ、お前かよ。何してんだよ?」

 逆立ってしまった尾を溜息を共に下ろし、 はその悪魔の名を呼んだ。ヴェルグが面倒くさそうに答える。特に何かをしていた訳ではなさそうだ。たった今外から帰ってきた、というところだろうか。

「厨房に水を取りに来ただけよ。あー驚いた……」

「厨房ね……トラか? 中にいんだろ」

 ヴェルグが顎をしゃくる。その発言に、 は僅かに動揺した。

「別に……バルドに用がある訳じゃないわ」

「あっそ。……でも今はやめておいた方がいいぜぇ? 荒れてっからな」

 穏やかでない言葉に は首を傾げたが、ヴェルグはそのまま階段へと向かってしまった。ぼそりとした呟きが夜の待合室に残される。


「あのトラも、早く諦めちまえば楽になれるってのによ……馬鹿だな、ホント」









「バルド、入るわよ。水――うわッ!?」

 ノックをして厨房に足を踏み入れた は、部屋中に漂う臭気を感じて顔をしかめた。これは……酒だ。

「アンタ、何おかしな飲み方してんのよ……!」

 調理台に突っ伏すようにして、バルドが酒を舐めている。その足元には何本か空き瓶が転がっていた。
  がつかつかと歩み寄ると、バルドがのそりと顔を上げた。澱んだ暗い目をしている。

「…… か」

「そうよ! 一体何本空けたのよ? こんな無茶な飲み方――」

「……別に、そんなに飲んだ訳じゃないさ。……放っておいてくれ」

 再び目を伏せたバルドが、酒をあおり始める。思ったよりも口調や動きはしっかりとしていたが、これ以上飲んで身体にいい訳がない。
  はバルドの手首を掴むと、杯を叩き落した。酒が床に零れ落ちる。


「いい加減にしなさいよ! いくらなんでも身体に悪、い――何?」

  がきつく叫ぶと、バルドは掴まれた手を絡め取って逆に の手首を掴んだ。胡乱な瞳に見下ろされ、 が眉を寄せる。

「……酒って逃げ場を奪われたら、今度は何に縋ればいいんだ? 暴力か? それとも……快楽か?」

「なに……」

「あんた、優しいよな。色んな猫に構って、心配して……その手管でライも落としたのか。大した雌だよ」

「は……」

 何を言っているのか分からない。だが、侮辱されているらしいという事は何となく伝わってきた。僅かな怒りをもたげた に向かって、バルドは更に言葉を重ねる。

「だったら俺にも、分けてくれよ。その身体で慰めてくれ。――忘れさせてくれ……」

「!!」

 強く肩を抱かれた次の瞬間、 は調理台に強く押し倒された。台の上の酒瓶が転がる。

「……ッ何考えてんのよ!! 放しなさいよ!」

 硬い台から咄嗟に身を起こそうとした は、バルドの体躯に押さえ付けられて逃げ場を失った。足掻こうにも、両足の間に身体を割り込まれて蹴る事すら出来ない。
 完璧に捕らえられた の背中を、冷や汗が伝った。


「もう何もかも、うんざりだ。忘れたいのに……逃がしてもくれねぇ」

「やめてよ! こんな事をして何になるの!? ……バルド、嫌よ!」

「俺を呼ばないでくれ!」

「――! んぅ…ッ……」

 拒絶の声を上げた の唇は、次の瞬間バルドによって塞がれた。
 無理やりに顎を取られ、口を開かされる。それほどには酒の臭いはしなかったが、含まされた舌の動きに は総毛立った。

「ん……は、やぁ…ッ! やめ……ふっ…う……」

 舌の根を荒く探るように吸われ、意図せずに身体の力が抜けていく。
 長い長い暴力的な口付けに心では必死に抗いながらも、 の抵抗は徐々に弱まっていった。そんな姿を見下ろし、バルドが唇を離す。

「頼むから……忘れさせてくれ……。もう静かに死にたいだけなんだ……」

「…………」

 ぐったりとして抗うのを放棄した は、項垂れた雄猫の呟きに目を見開いた。懇願するような響きに、 の中の何かが冷たく凍る。
 バルドはわずかに身を起こすと、 の上着に手を掛けてその頬をちろりと舐めた。


「……血が出てるぞ。引っ掻いたのか」

「違う。……私は……商売猫じゃないわよ……」

「分かってるよ。あんたが受け入れるのは限られた猫だけだ。だから俺もアイツも……縋りたくなるんだろう」

 ゆっくりと上着が乱されていく。バルドの意思に変化がない事を悟り、 は観念して目を伏せた。

「こんな……こんな事で――、アンタの心は満たされるの? アンタはそれで安らげるの?」 

  が顔を逸らして無表情に呟くと、バルドは苦く笑ったようだった。

「……そうだな。そうかもしれない……」

「そう……。だったら、好きにすればいい――」


 ……本心だった。酒に溺れ、今度は色に溺れようとするバルドには確かに怒りを感じたが、それでもこんな身体一つでバルドが安らぎを得られるなら、抱かれてもいいと思った。
 昼間娼館に向かった事に対する当てつけもあるかもしれない。

 こんな事は、一時しのぎにしかならない。逃げ道以外の何物でもない。バルドだって本当は分かっているのだろう。だがそれでもバルドがこの夜を乗り越えて明日また笑ってくれるなら、 にとっては意味のある事に思えた。
 ……たとえ、胸の奥が冷たい虚しさに満たされていたとしても。




「……い、あ……。――ッ!?」

「…………。――っ!」

 襟元を乱され、鎖骨をきつく吸われた が呻いた次の瞬間、静かな熱気を孕みつつあった厨房の空気は突然乱された。
 調理台の上に転がっていた酒瓶が床に落ち、高い音を立てて砕け散ったのだ。

 鋭い音に、 とバルドは揃って目を見開いた。互いに息を詰めたが、それ以上何かが割れる気配はないようだった。


「……バルド……?」

 目を見開いたまま動きを止めてしまったバルドに、 が怪訝に声を掛ける。バルドはハッとしたように を見下ろすと、目を伏せて の衣服を整え始めた。突然の行為に が目を丸くする。

「? ……バルド……」

「……すまん。どうかしてた。……しかも酷い侮辱を言った。悪い――」

「え……」

 呆然とした から、バルドが離れる。バルドはしゃがみ込むと、割れたガラスを拾い始めた。その背中は相変わらず項垂れている。


「最悪だな、本当に……。こんなだから、あのコノエもどきに願望だとか言われるんだ……」

「!」

 独り言のようなバルドの言葉に、 は息を呑んだ。まさか……バルドもリークスに会ったというのだろうか。
 ガラスを拾い終えたバルドが立ち上がる。そのまま扉から出て行こうとする後姿に、 は声を掛けた。

「待って! ……アンタもコノエに――ううん、リークスに会ったの?」

「リークス? …………こないだの奴が言ってた闇の魔術師か。あいつが、リークスなのか?」

  が頷くとバルドは目を見開いたが、やがて首を振って再び項垂れた。

「そうだとしても……とても話せる気分じゃない。……本当に悪かった。もう二度としない。宿を出て行きたかったら、出て行ってくれ。今までの給金は払うから――」

「だから待ちなさいって!」

  に背を向けて告げたバルドを、 は再度呼び止めた。バルドがどんよりと振り返る。


「……私、一時間後にコノエを探しに行くわ。コノエの事が大事で、心配で、失いたくないからよ。……コノエは今とても大きな出来事に巻き込まれている。私はそれを……砕きたい」

「…………」

 一息吸った が突然決意を口にすると、バルドはわずかに気圧されたようだった。 は更に言葉を重ねる。

「私は諦めないわ。だってまだ何もしていないもの。だけど、ひとりでは森中は探せない。だから……アンタも一緒に来て」

「……?」
 
「手伝って欲しいって、言ってるのよ。頼りにしてるの。……コノエが心配でしょう? だったらこんな所で酒なんて飲んでいる前に、やれる事があるんじゃないの!? それとも、それすらもアンタは諦めるの!?」

 怪訝に眉を寄せたバルドに、 は思わず声を張り上げた。

 ――そう、頼りにしている。誰よりも。
 隠されているものが沢山あっても、酒や色に溺れようとする弱さがあっても、バルドは何だかんだいって自分たちを助けてくれた。
 いつもさり気なく頭に置かれた手の温かさを、優しさを は信じていたかった。


「一時間後よ。酒を抜いてきて。……一緒に来てくれたら、今の事は忘れる」

 息を吐いて冷静さを取り戻した が告げると、バルドはしばらく呆然としていたがやがて僅かな苦笑を浮かべた。

「……分かった……。――あんた、俺なんかよりよっぽど……漢前だな……」


 小さく告げたバルドが扉を閉めると、残された は調理台の上で微妙な表情を浮かべた。うら若き雌に向かってなんて褒め言葉だ。

 憮然とした は、リークスへの怒りが消えた訳ではないがいつの間にか胸の中でストンと整理されている事にふと気付き、今度は微苦笑を浮かべた。







「さて、私も行くか……あれ?」

 調理台から降りて辺りを見回した は、部屋の隅に丸まった紙屑が落ちているのに気付いた。ゴミだろうか。
 拾い上げて何気なく紙を広げた は、そこに書かれていた絵を見て顔を強張らせた。

(これ……悪魔――?)

 魔物の姿と紋章が描かれている。厨房という場所にこんなものが捨てられている違和感を、どこかでも感じた事がある。

(そうだ……バルドの部屋にもそんな本が沢山あった……。――!)

 バルドの傷、黒い霧の力、そしてこの悪魔の絵――。それらの全てが合わさって、 の中にある可能性が閃いた。可能性? ……違う、これは確信だ。

(バルドは悪魔と、契約した……)

 バルドがひた隠しにしてきた事実に思い当たり、 は無意識に拳を握り締めた。驚愕はあったが、失望はなかった。むしろ心のどこかでその正体に納得していた。
 契約が成立したかどうかは分からない。けれど、バルドを苦しめているのはおそらくこれに間違いない。 は紙を丁寧に畳むと、懐にそっとしまい込んだ。

 






「……お前……」

「あ……」

 厨房を出た は、待合室で偶然ライと鉢合わせた。こんな時間に何をしているのだろう。 はそう思ったが、それはライも同様のようだった。

「こんな時間に厨房で何をやっていた」

「いや、その……水を貰いに……」

 まさか「襲われてました」とは言えずに が言葉を濁すと、ライは静かに歩み寄ってきて の前に佇んだ。冷えた瞳に見下ろされる。

「……襲われたのか?」

「っ!? ……ち、違うわよ……」

 図星を指されて は一瞬息が止まった。衣服も整えたし、付けられた痕があったとしても一つだけのはずだ。分かるはずがない。
 だが が思わず目を逸らすと、ライの手がすっと頭に伸ばされた。


「髪が乱れている。……やはりそうか」

「だから、違うってば!」

「ならば、合意か」

「……っ……」

 ライの手が髪を梳く。そのまま金糸を一筋すくい上げたライは、沈黙をもってそれを眺めた。ライらしからぬ行動に が目を見開く。
 問い詰められた がどうとも返せずに沈黙すると、ライは髪を放して溜息を零した。

「そんな事になるのではないかと思っていた。だから近付くなと言ったんだ。あいつは危険だ」

「……それは……バルドが悪魔と契約を交わしたから……?」

 見上げた が探るように問うと、ライは軽く目を見開いた。……やはり、事実か。

「……知っていたのか。あいつが話した……とも思えんが、承知しているなら分かるだろう。……もう一度言う、あいつにこれ以上関わるな」

「でも…!」

「お前がどう足掻いても、あいつが諦めている限り事態はどうにも動かん。それ位は分かるだろう」

「……っ」

 冷静に諭され、反論できない が口を噤む。そんな を見下ろして、不意にライはその腕を取った。驚きに が顔を上げる。


「もういいだろう。お前は十分に関わった。後はあいつが決める事だ。……それでもこれ以上、あいつの苦悩を見るに堪えないと言うなら――俺と共に、来い」

「え……」

 突然告げられた言葉に、 は目を見開いた。いつかの会話のように軽口かと思って見上げると、覗き込んだ青い瞳は恐ろしいほどに真剣だった。

「この事態が収まってからでも構わん。……賛牙が貴重だからではない。価値があるからでもない。お前自身に来いと、俺は言っている。俺の……賛牙として」

「…………」


 ライは本気だ。真正面から告げられた言葉に は呆然とした。
 ライが、自分を必要としている。その事実に胸が熱くなったが、 はやがてゆっくりと瞳を閉じた。


「……ありがとう。アンタがそこまで言ってくれるなんて思わなかった。……だけど、私――」

「別に返事は今でなくとも構わん。もう一度聞くからよく考えておけ」

「え……」

  の言葉を遮って、ライが静かに口を開く。 が目を開くよりも早くあっさりと手を離すと、白猫は背を向けて歩き出してしまった。

「選ぶのはお前の自由だが――怪我だけは、するなよ」





「選ぶのは……私――」

 白い背中を呆然と見送った は、懐に忍ばせた紙を静かに握り締めた。
 約束の時間は、間近になっていた。


















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