約束の時間に が扉をくぐると、外で月を眺めていたバルドが振り返った。 を見たその顔は相変わらず疲れてはいたが、もう先程のような澱んだ暗い光は認められなかった。
 バルドが一瞬申し訳なさそうに顔を歪めたのを は目を伏せて受け流し、次に目を開くとバルドを見据えて頷いた。

「――行こう」




      5、分かち合う傷





 それから二匹は、暗い森の中を走り回った。バルド曰く、もう若くない体にムチを打って。
 だが息を乱しても、バルドは足を止めようとはしなかった。嘘偽りなくコノエを探し回るその姿に、 は同様に息を切らしながらも安堵を感じていた。

 走りながら、 は手短に今までに自分やコノエの周りで起こった出来事と、今夜のリークスの出現についてをバルドに手早く語った。

「あんたら……随分と重いもんを背負ってたんだな」

「私はさっき言われたばっかりだから実感ないけど、コノエはそうでしょうね。あの子はすごく……苦しかったと思う。最初に呪いに掛かった時も、二度目も、それから……今も」

 走る速度は緩めずに、 が答える。するとバルドは渋い顔をして に顔を向けた。

「……だろうな。だが、あんたも相当しんどいんじゃないのか。親が殺されたなんて……」

「……そう、ね。さっきは、半狂乱でリークスを殺してやりたいと思っていたわ。……だけど、今はもっと大切な事があるから。過去や復讐ばかりに溺れても――結局何も、生まれはしないと思う」

「……!」

 バルドの言葉に は一瞬暗い淵に沈み込みそうになったが、顔を上げると正面を見つめて答えた。バルドが強く息を呑んだ事に、 は気付かなかった。

「でもリークスがアンタの所にまで来たなんて、一体どれだけ揺さぶりを掛けようとして――あ!!」

「……いたか……!」

 暗い森の奥に捜し求めたフードの猫を見つけ、二匹は顔を見合わせて先を急いだ。





 その先の展開は、なかなか熾烈だった。逃げようとしたコノエをバルドが取り押さえ(というか押し潰し)たのだ。
 バルドと の必死な剣幕に、頑なだったコノエの態度もようやく軟化した。
 
 よろけたコノエを宿に連れ帰り、バルドの部屋に運び込む頃には の体力も限界に来ていた。取りあえず今はゆっくり休むようコノエに言い渡すと、 も重い身体を引きずって二階へと引き上げたのだった。
 少し休んだら様子を見に行こうと思っていた意思も虚しく、泥のように は朝まで眠り続けた。







 翌朝 が目覚めても、事態は何一つ変わってはいなかった。それは当然の事だったが、夜を越した事で頭の中がまた整理されて は落ち着いた気分で服を着替えた。

 懐に忍ばせた悪魔の絵と、ごく僅かに痛む鎖骨の痣が昨夜のバルドの苦悩と葛藤を思い出させる。それから、その後のライの言葉も。
 ……ちゃんと、話をしなくては。バルドとも、ライとも。
 一つ息を吐き出した は、静かに自室の扉を開けた。


「……あ」

「あ。……おはよう、コノエ」

 扉を開けたところで丁度コノエと鉢合わせ、 は驚きつつも明るく挨拶を送った。コノエはフードを被っている。 が呪いの再発現に気付いている事をコノエも知っているはずだが、わざわざ指摘するような事でもないので はさり気なく話題を逸らした。
 そして階下に向かった二匹は、ライの「待て」という声に足を止めたのだった。



 

 バルドに関わるな、あの傷は悪魔に魂を売ろうとした代償だ――ライがコノエに告げる言葉は、 も以前から言われてきた厳しい忠告そのものだった。
 ライがふと、鋭い視線を に向ける。そして は悟った。ライは……コノエを通して、 にも再度の忠告を与えている――。


「……お前、何故また耳を隠している」

 思わず真剣に考え込んでしまった の横で、コノエがライからの指摘を受けてビクリと反応した。答えられず、コノエが沈黙する。そして次の瞬間、コノエは脱兎のごとく宿から飛び出してしまった。

「……コノエ!」

「……ッチ、――おい、どういう事か説明しろ」

 苛立ちを露わにしたライが矛先を に転じる。 は薄青の瞳を見上げて一瞬思案したが、ふっと瞳を伏せると踵を返した。

「ごめん! 後でちゃんと説明するから……今はコノエを追わせて! 心配なの!」

 叫んで飛び出した の後を、ライは追っては来なかった。







 宿のすぐそばでコノエに追いついた は、そのまま手掛かりとなりそうな呪術師の元へ向かうというコノエに連れ立って林の中を歩いた。

「ごめん。何か、ライに聞かれたら焦って……」

「ああ、仕方ないわよ。いきなりだったし。……帰ったら、ゆっくり説明すればいいわ。ライだってちゃんと分かってくれるでしょ」

「そうだな……。――? バルド……?」

 申し訳なさそうに語っていたコノエが、ふと顔を上げる。つられて目を遣った先の光景に、 とコノエは揃って息を呑んだ。





「――バルド!」

 二匹の視線の先で、黒いトカゲを右腕から立ち上る黒い霧で呑み込んだバルドが膝をついた。息は荒く、右手をきつく押さえ付けている。
 咄嗟に駆け寄って手当てしようとしたコノエの手を、バルドが強く振り払った。乾いた音が林に響く。コノエの横に座った はその光景を唖然として眺めていた。


「放っておけよ! 関係ないだろ! ……無駄なんだよ。手当てなんてしてもしなくても、どうせ治らない! 手当てなんかしたって……どうせ、死ぬしかない」

「そんなのやってみなきゃ分からないだろ! とにかく血を止めないと……!」


 バルドとコノエの押し問答が続く。バルドらしからぬ荒んだ……違う、何かに怯えたような様子に は再び動揺したが、その時間はバルドの行動によって唐突に終わりを告げた。

「じっとしてろよ!」

「……触るな!」

 コノエの手を再び振り払おうとしたバルドが、なんとその爪をコノエに振るおうとしたのだ。コノエが避けなければ間違いなく傷を与えていただろう振る舞いに、 の堪忍袋の緒が切れた。

「――ッ、いい加減にしなさいよ……!」

  は短く叫んでバルドに平手打ちをくれると、間髪入れずにもう一度反対の頬を打ち据えた。……本気だった。拳にしなかったのはせめてもの情けだ。

「さっきから聞いてりゃ何なのアンタ!! 子供じゃないんだから聞き分けのない事言ってんじゃないわよ! コノエに八つ当たりしてるんじゃないわよ!」

「…!?」

  の突然の剣幕に、バルドが目を見開く。傍らのコノエも息を呑んだ気配がしたが、 は憤りを抑える事ができなかった。

「アンタ馬鹿じゃないの!? 目の前で怪我されて、苦しい顔見せられて……私やコノエが放っておけると思う? そんなに繋がりが薄いと思うの!?」

「……っ……」

「アンタが……アンタが抱えてるものなんて、私は半分も分かっちゃいないわよ。だけど――だけど、アンタが苦しんでいる事を苦しく思う猫がいるって事、アンタだって分かってない!」

「…………」

 声を荒げた は息を吸うと、奥歯を噛み締めた。激情を鎮めて、瞠目したバルドに向けて続く言葉を吐き出していく。

「……苦しいのは自分だけだと思っているの? アンタの目に私たちは、傍観者としか映っていないの? ……だとしたら――」

「…… …」

「――分からせて、やる」

「…ッ!!」

  の叫びに圧倒されていたバルドは急激に下がった声に怪訝に眉を寄せ、そして次の瞬間驚愕に目を見開いた。バルドの手を静かに掴んだ が……その傷に、唇を寄せたからだ。

……おい、やめろ……!」

「…………アンタ――」

 頭上の困惑した声を無視して、 は血の滴る布をまくり上げると黒く膿んだ傷に舌を寄せた。バルドが強く抵抗する気配がしたが、痛みに呻いてそれはどこか弱々しい。そしてバルドが雌に本気では手を上げられない事を、 はここぞとばかりに利用した。

「……う…ッ……」

「…………」

 赤黒い血が舌に触れる。粘ついたそれは通常の血液とはどこか違って苦く、 は思わずえづきそうになったが気合で耐えた。苦さが何だと言うのだ。その苦さをこそ……理解して分かち合いたいと思うのに。
 流れ続ける血を丁寧に舐める を、バルドとコノエは固唾を呑んで見つめた。いつしかバルドの抵抗もやみ、周囲には静かに が血を啜る音だけが響いた。



 やがて、全ての血を舐め取った はゆっくりと顔を上げた。その頬は舐めこぼした血で汚れていたが、 はそんな事気にもしなかった。手の甲で唇を拭いながら、 は圧倒されていたバルドにその視線を向けた。

「――アンタの傷の一部くらいは、私にも抱える事が出来るのよ。……これでもまだ、関係ないって言う? 手当てなんか無駄だって、言う……?」

「…………」

 目を見開いて沈黙したバルドを見遣り、 は瞳を伏せて再びその手を取った。

「……やっと静かになったわね。さ、ここまでしたら後はどれだけ手当てしても同じよ。コノエ、薬草ちょうだい」

「あ、ああ……」

 テキパキと指示を出し始めた に促され、呆然としていたコノエが動き始める。薬草を噛み潰す を同じく呆然と眺めていたバルドは、その琥珀の瞳を に向けてかすかに苦笑いを浮かべた。

「……おっかねー猫。それに手加減なしかよ……痛ってぇ……」

 バルドが左手で頬を押さえる。その情けなく眉を下げた表情に、 は口の中の薬草を吐き捨てると嫣然と微笑んだ。

「そうよ、気付かなかったの? ……アンタもまだまだ猫を見る目がないわね」

「……そうかい。……悪かったな――」

 その言葉がコノエにも向けられた事に は気付いたが、目を閉じると黙って滲んだ汁を傷に塗り込めた。
 傍らのコノエが『二度と には逆らわないようにしよう』と思っている事など、その時の には知る由もなかった。
 










 やがて三匹は、宿に向けて歩み始めた。限界まで疲弊したバルドを とコノエで支えて歩く。 の想像以上に精神の苦悩が肉体にも影響を与えている事に苦さを感じながらも、三匹はゆっくりと森を進んだ。


「……あんた、大丈夫なのか。俺のあんな血、舐めて……。身体に何か影響は」

「え? ああ平気よ。別に何もないわ」

「……だが、あれはただの傷じゃ――」

「平気だって。心配しす、ぎ――、……ッ!!」

 のんびりとバルドの質問に答えていた は、そのとき腰に熱い痛みを感じて息を詰まらせた。思わず、支えていたはずのバルドの服をきつく掴む。 の異変にバルドとコノエは足を止めて、怪訝な視線を向けた。

「くそっ、やっぱりさっきの影響が……!」

「ちが――ア…! 背中が……熱い――!」

 激烈な痛みを感じて、とうとう はバルドにしがみ付いた。広い胸に顔をうずめる。バルドは先程までとは全く異なる俊敏な動きで の背に手を回すと、そっとその上着を捲り上げた。

「悪いな、見るぞ。……――ッ! これは……」

「……!! なんで……なんでなんだ――」

 背中を覗き込んだ二匹の驚愕を受けて、 は苦しい息の下から状況を尋ねた。コノエが震える声で返した予想外の返答に、 は目を見開いた。


「アンタの腰に……俺の左足と同じ、痣が―――!!」

 













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