5、喜悦



 

「一体なんなのよ……。アイツ――」

 突然沸き立たされた激情に身を震わせていた は、しばらくしてよろよろと立ち上がった。衝動が去っても怒りは心の底で燻り続け、冷静な思考が利かなくなっている。


 ライに会いたかった。あの冷静な瞳で静かに見下ろされ、心を落ち着かせたかった。阿呆猫と呼ばれ、何を動揺しているのだと言ってほしかった。

 弱気になっているのが分かるが、一目だけでも顔が見たい。 は自室を出ると、ライの部屋の扉を小さくノックした。
 だがそんな時に限ってライは自室にいなかった。……もちろん、コノエも。

 少し頭を落ち着かせよう――そう思った は、暗い森にひとり分け入った。






 警戒しながらもあてどなく歩き続けると、やがて は見知った道に入り込んでいた。これは……カガミ湖へと続く道だ。
 日中は消化不良に終わった事を足が覚えているのか、無意識にライの痕跡を追っていた自分に苦笑が漏れる。そんな に、背後から突然声が掛けられた。


「来たね。……雌猫ちゃん」

「!! ――フラウド!」

 木立の影から現れたのは、喜悦の悪魔だった。まるで がやって来るのを予期していたように、驚く様子もなくこちらに近寄ってくる。昨日の不穏かつ不可解な発言を思い出して が安全な距離を取ると、フラウドは残念そうに両手を上げた。

「おや? そんなに警戒されるような事をしたかな、僕は。感謝されたっていい位だと思うけどねぇ」

「感謝…?」

 フラウドとは結び付きようのない言葉を口にされ、 は眉をひそめた。そんな を見てフラウドが笑う。

「そう。……カガミ湖に行こうとしてたんだろう? もしくは、もう行ってきたか。まだ収穫はなさそうだけど、君はまた白猫ちゃんに一歩近付けた。……嬉しいかい?」

「……っ、誰が! ――確かに情報を与えてくれた事には礼を言うわ。だけど、喜びを得られるなんて思ってもいない。そんなものが欲しくて近付こうとしている訳じゃないもの。……もっと自分勝手な理由だわ」

 心外な指摘に が低く反論すると、フラウドは面白い事を聞いたとでもいうように口笛を吹いた。


「へえ……。意外と甘っちょろくないみたいだね、君」

「そうよ。……ここから先は、もしかしたら知らない方がいい事なのかもしれない。……自ら進んで泥沼に分け入って行くようなものだわ」

 ライの狂気を止めたい。その想いは真実だが、そのために は一体何を知るべきなのだろう。……恐らく、決して明るい話ではないはずだ。
 暗い狂気の淵を覗く覚悟を が無表情に告げると、フラウドは沈黙と共に唇を笑ませた。

「……そう。それでも君は、知りたいと思うんだね」

「…………」

  が無言で頷く。するとフラウドは、笑みをますます深くした。

「そうか。……残念だなぁ、勿体無いなぁ! ……今の君を、僕は食べたくて食べたくて堪らないよ。白猫ちゃんを信頼して、信頼され――そんな君を食べたら、白猫ちゃんは一体どんな顔をするだろうねぇ?」

「!」

 舌なめずりするようにうっとりと呟いたフラウドが次の瞬間、 との距離を一息に縮めた。背後に回りこまれ、強く抱き寄せられる。
 風のような一瞬の動きだった。動きを捉える事が全く出来なかった。


「……っ何すんのよ!! 放しなさいよ!」

「嫌だよ。……ああ、猫の耳ってやっぱりフカフカなんだねぇ……」

  は咄嗟にフラウドの腕から逃れようと身を捻ったが、フラウドの腕は全く隙がなく片手で喉元を、片手で両腕を封印されてしまった。足掻いてもその拘束が緩みそうにはない。

「……私はアンタ達には食べられないんじゃなかったの? それに私を食べても、ライが揺らいだりはしない」

 今すぐにでも気管を圧迫されそうな恐怖に身が竦んだが、 は薄く息を吐き出すと冷静さを取り戻し、背後のフラウドに問うた。

 フラウドは、本気ではない。腕の拘束こそ強いが、彼が楽しんで を弄んでいる事は雰囲気から察せられた。 をどうこうしても仕方ないし、どうせいたぶるなら他の猫の目の前でする事を選ぶだろう。……この悪趣味な悪魔ならば。

「おや、果たしてそうかな? ……君は自分を過小評価しすぎじゃないかい? 白猫ちゃんにとっての君がそんなに小さい存在だとは思えないけどなぁ。……まあ、そんな事よりも――」

「……っ! 触らないでよ…!」

 フラウドが顔を近づけ、 の頬を舐め上げた。生暖かい感触の後に、ぴりとした刺激が走る。おぞましさに が顔を背けると、フラウドは喉の奥で笑ったようだった。


「血が滲んでたよ。甘い血がね。……リークスにやられたんだろう?」

「! ……知ってたの」

「白猫ちゃんを見張っていたら、彼が現れたからね。君の所にも来たとは少し意外だったけどね」

「ライの所にも来たの!?」

 フラウドがリークスの来訪を知っていたという事実よりも、ライの所にも現れたという事の方に は動揺した。
 あの魔術師はライには何を言ったのだろう。……おそらく良い事でないのだけは確かだろうが。

「ふふ……。そっちの方が気になるんだね。リークスが白猫ちゃんに何をしたか、知りたいかい?」

「…………」

 心を見透かしたようなフラウドの言葉に、 は息を詰めた。頷く事もできずに固まっていると、フラウドは の耳に唇を寄せて歌うように囁いた。

「……己の中の闇を、彼はリークスのために引き出したんだよ。目覚めさせれば彼の魂を喰らい尽くす、純粋な闇を。――どうやら彼は、相当あの子猫ちゃんにご執心のようだね」

「!! ……ライは……?」

 フラウドの言葉は、 に目の前が暗くなるような衝撃を与えた。
 闇を引き出した――。それで、あの猫はまだ正気を保てているのだろうか。あの清冽な瞳は、狂気に飲み込まれてしまったのだろうか。 は震える声で、ライの安否を問うた。
  
「無事だよ。まだ正気を保っている。……今はね」

「……そう。――っ、どうせ…コノエの身体を盾にでもしたんでしょ!? あの魔術師のやりそうな事だわ。……腐ってる」

 取りあえずの無事を聞いて はわずかに胸を撫で下ろしたが、次に湧いた怒りに再び身を震わせた。ライが、望んでそんな事をするはずがないのだ。コノエとライの両方を貶めるリークスの手口がありありと見えるようで、 は低く吐き捨てた。


「ははは。まあそうだろうけど、彼も酷い言われようだな。相当君に嫌われたね。……でも君は、これでいいのかい?」

「? 何がよ。……だって仕方のない事だったんでしょう、きっと。それよりいい加減に放しなさいよ」

 フラウドの言葉の真意が掴めず が背後に向かって低く告げると、フラウドは逆に腕の拘束を強めてきた。喉元から伸びた指が頬の傷を引っ掻く。

「面白くないなぁ。……子猫ちゃんに、嫉妬したりしないのかい? 彼は子猫ちゃんのために己を犠牲にしたんだよ? そこまでされる子猫ちゃんを羨ましいとは思わないかい?」

「痛…ッ。……何…言ってるの……? どうしてコノエに嫉妬するのよ……。二匹とも、望んでした事じゃないのに……比べる方が馬鹿げてる――。う…ッ!!」

「そう、君は優しいね。……でも僕は、嫉妬してるんだよ。リークスに!」

 強まる拘束の下から が切れ切れに答えると、フラウドは突然声を荒げて腕を思いきり締めた。抱き潰されそうな力に、 の肺から空気が押し出される。


「白猫ちゃんに先に目を付けていたのは僕だよ。あの純粋な狂気は僕に喜びを与えてくれるのに、それを引き出したのが彼だなんて許せないよ。――だから僕は、考えた。……彼の狂気を引きずり出すのに、今度はどうすればいいだろうって」

「かは…ッ! 放、し……」

「さっきの話の続きだよ。――それは、君だ。君を目の前で食べれば、彼は間違いなく理性を手放すだろう。だけど君は僕には食べられないし、何よりそれだけじゃあ物足りない。狂気を目覚めさせるにはもっと……そう」

「!!」

「君に……泣き喚いてもらわないと」

 フラウドが、急激に声を落とす。それは全身が粟立つほどの変貌だった。だがそれよりも を戦慄させたのは、フラウドの手の動きだった。
 意図を持った手のひらが下腹にそっと押し当てられる。決して暴力的な力を振るわれた訳ではないのに、無防備な腹部を掌握されて の頬を冷たい汗が伝った。


「ねえ君……ここで、彼を受け入れたんだろう? 僕も見てみたかったなぁ……君がどんな風に乱れたかを。……彼は君の熱を感じたかな? 彼は快楽を感じたかな? ――でも彼を本当に喜ばせるのは、そんな事じゃあない……」

「なに……」

「彼が真に望むのは、生き物の温かな血と肉だよ。君の血なら……彼はどれほど喜ぶだろうね?」

 喜悦を隠そうともせずに囁いたフラウドに、 はその意図を悟って総毛立った。フラウドの手が下腹を撫で回す。 は鋭く息を吸い込んだ。

「僕がここから、流させてあげる。本当は初めてが良かったんだけど、そうじゃなくても悲鳴を上げさせる方法はいくらでも――。……ああ、残念。時間切れだ」

 抵抗しようにも動けない を抱えていたフラウドは、次にぴたりと動きを止めた。拘束が僅かに緩む。 が耳を澄ますと、森の中を荒く駆けてくる猫の足音がした。
 目の前の茂みが割れ、白い影が姿を現す。現れた姿に は涙が出そうになった。





「――ライ!」

「あーあ。もう少し遅く来ると思ってたんだけどなあ。そうしたらいいものを見せてあげたのに」

 わずかに息を切らしたライが、 とその背後のフラウドを見遣って目を見開いた。やがて驚愕を鋭い殺気に転じると、低い唸り声をあげてライは長剣を引き抜いた。

「貴様……。そいつを放せ」 
 
「はいはい、返してあげるよ。……大丈夫、傷一つ付けていない。あ、ちなみにその頬はリークスが付けたやつだから、僕じゃないよ」

 フラウドが両手を挙げると、 はようやく拘束から解放された。ライが の手を強く引く。 を背後に庇うと、ライは鋭くフラウドを見据えた。

「こいつに何をした」

「だからまだ何もしてないって。……雌猫ちゃんも、そんな目で見ないでよ。ほんの冗談だってば」

「……嘘付けクソ悪魔」

 呼吸を整えた がライの背後から睨み付けると、フラウドはますます肩を竦めた。そのままわずかに浮遊を始める。

「ひどいなあ。君、思ってたよりも口が悪いね。そんな所も嫌いじゃないけど。……僕はまだ行く所があるから、これで失礼するよ。白猫ちゃんには、今度こそいいモノ見せてあげられるかもしれないな」

「……待て! 貴様、どこへ行く!」

 ライが叫んだのにも構わず、フラウドは急速に浮き上がるとそのまま高笑いをして飛び去ってしまった。追う事も出来ず、 とライは暗い森に取り残された。






 しばらく呆然と夜空を睨んでいた は、不意に不穏な気配を感じて隣を振り返った。……なんとなく、その正体は分かっていたが。


「……この、阿呆猫が!! 何故また奴と一緒にいた!」

「っ!! ……こ、今回は違うわよ!? たまたま森に入ったらアイツがいて、有無を言わさず捕まったのよ!」

「姿を見た時点で、何故すぐに逃げないんだ阿呆猫が!」

 頭ごなしに怒鳴りつけられて、 の首が竦んだ。弁解するも更に叱られて、 は思わず耳を伏せて項垂れた。
 ……最悪だ。確かに油断していた。もう少しで嬲られるか殺されるかそのどっちもされるかの危険に、身を晒してしまった。ライの言う事も今となってはもっともで、 も今度は反論せずにライの冷たい沈黙を受け入れた。


「……ごめん……。迷惑かけた……」

「――ッ、……もういい。――奴に何か、されたか」

「え。ううん……されてないけど……」

 ライはしばらく を見下ろしていたが、やがて身を竦める から目を逸らすと苛立ったように口を開いた。しかし、思わず見上げた の言葉に再び眉を寄せる。

「『けど』? ……なんだ」

「いや…その……うん。 た、助かった……。ありがとう……」

「……阿呆猫が」

 珍しく素直に が礼を言うと、ライは再び目を逸らして低く呟いた。溜息と同時に白い尾が大きく振られる。
 常と変わらぬその態度に、 は今度こそ心が鎮まっていくのを感じた。思わず口元が緩む。


「……何故そこで笑う。不気味だぞ。俺はお前を叱責しているんだが」

「うん、そうなんだけど。うん……なんか、安心して……アハハ……」

「お前な……」

 思わず口元を押さえた に、ライの冷たい視線が振ってくる。だがその視線さえも、今は心地良かった。
 いつものライ。いつもの態度。いつもの視線。それがどれほど不安定な自分の支えになるのか、どれほど大きな拠り所になっているのかを は心の底から思い知った。




「お前の所にも……来たんだな」

  を見下ろしていたライは、やがてその頬に触れ指先で傷跡をなぞった。流れた血は既に固まっていたが、フラウドに触れられた場所を清められるようで は黙って指を受け入れた。

「うん……でも、平気よ」

  が静かに告げると、ライは瞳をわずかに見開いた。探るような視線を受けて、 は意識して唇を笑ませた。


 ――先程までは平気ではなかった。心が怒りに掻き乱されて、倒れてしまいそうだった。
 けれど、もう大丈夫だ。ライがリークスに煽られても理性を失わずにここに来てくれたのに、自分が怒りに飲み込まれてしまっては元も子もない。
 自分の怒りよりも、もっと追うべき事が今の自分にはあるのだ。コノエの事も――ライの事も。


「あんな根暗魔術師に乱されてちゃ、雌がすたるわ。アンタも……何を言われたかは知らないけど、私達がフラフラしてたら帰ってきたコノエが心配する。シャキっとしないとね」

  が心もち自分を叱咤して告げると、ライは何か言いたげに口を開いたが結局それをつぐんだ。 が問い詰めないのが意外だったのだろうか。


 フラウドが他にライに何を言ったのか、したのかが気にならない訳ではないが、それを聞いたところでライを『知る』という事にはならないだろう。 が自分の目で見て、ライの口から聞かなければライの深淵には近付けない。それでは意味がないのだ。
 だから は、あえて深くは追求しない事にした。


「……そうだな。……しかしお前は、本当に考えなしで向こう見ずで楽天的だな」

 ライはたっぷりとした沈黙の後、わずかに唇の端を歪めて言った。あんまりな評価に の頬がわずかに膨れる。

「否定はしないけど……そこまで言う?」

「ああ。……だがたまにはお前のような猫が側にいるのも、悪くない」

「! ……あ、そ……」

 予想もしなかった言葉に が思わず振り仰ぐと、白猫は存外に穏やかな顔で瞳を閉じていた。初めて見たその表情に胸が跳ねる。

  は慌ててライから視線を逸らすと、モゴモゴと呟いた。……反則だ、と。
















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