深い森の中は、鬱蒼と茂る木々に覆われて陰の月の光もほとんど届かない。
 ぼんやりと光る道しるべの葉を頼りに、 は傍らで眠るコノエと少し離れた場所で眠るライの横顔を眺めていた。




  6、焦燥




 昨夜はあれからコノエを探しにライと森を駆け、フラウドと対峙するコノエを寸でのところで見つけたのだった。
 フラウドはコノエに誘いを掛けていたらしい。だがコノエはそれを払い除けた。追い付いたライと が強く追求するも、フラウドは悪びれる様子も残念がる様子もなく、再び不気味な笑みを浮かべると何処かへ飛び去ってしまった。

 フードを被ったコノエをライは手を引いて連れ帰ろうとしたが、コノエの疲労があまりに激しいために は野宿を提案した。ライは渋る顔を見せたが、結局今晩は藍閃にほど近い森の中で残りの夜を過ごす事になった。


 先に眠った がライと見張りを交代してから数十分。コノエが泥のように寝ているのは仕方ないとしても、ライも今日は本当に深く眠っているようだ。いつもなら身体を休めても緊張を和らげないライの、疲労を滲ませた寝顔に は胸が詰まるのを感じた。

 フラウドは……ライがリークスに闇の力を引き出されたと言っていた。それが具体的にどんな事を指すのかは分からないが、リークスが欲しがるほどの闇をライが抱えているのは事実だ。そしてそれは、ライの正気や本来持っている性質を徐々に蝕みつつある。

 狂気を食い止める方法がいまだ見つからず、また正気を守る術も模索中で、 はわずかな焦燥に唇を噛んだ。







 ライは夢を見ていた。最近になってからもう何度見たともしれない、あの両親が殺された日の夢だった。
 鮮やかな血溜まりを前に、白い耳の子猫がしゃがみ込んでいる。後ろ向きで表情は見えないが、どんな顔をしているかは嫌というほど……分かっていた。

 やがて子猫が立ち上がる。血の海の中に足を進めた子猫の姿は――いつしか、金の雌猫の後姿になっていた。

(…!?)

 血溜まりの中に、裸身の が佇んでいる。白い背中と足には点々と赤い液体が飛び散り、足元へと続いていた。

『……ねえ……、命は、あたたかいわね。そうは思わない?』

 声なき声が、 から発せられる。凄惨な光景に動じる事もなく、血に濡れた両手を掲げた は陶酔したように顔を仰のけた。そして謳うように呟く。

『本当は、欲しいんでしょう? あたたかい肉を、血を、アンタは何よりも欲している。焦がれている。……そうでしょう?』

 白い顔がこちらを振り返る。硝子玉のような感情のない瞳がライを捉えると――狂気を宿して、細く歪んだ。

(――!!)


 あれは――あれは、 ではない。……俺だ。
 目を背けたい己の姿が目の前に体現される衝撃にライが立ち竦むと、うっとりと笑みを浮かべた はいつの間にかその細い手にライの短剣を捧げ持っていた。切っ先を、ライが負わせた青痣の残る喉元へと当てていく。

『私が、与えてあげる。……あたたかい血と肉の甘さを、教えてあげる――』

 睦言のように甘く囁いた が短剣を振り上げた。虚空に向けて、届かない腕をライは咄嗟に伸ばした。

(! やめろ――!!)








「うわ…っ! ――とぉ…。良かった、起きたのね」

「ッ!? ……お前――」

 目を見開いたライは、暗がりの中に今まさに喉に刃を付き立てた の顔を見つけて息を呑んだ。
 驚きを滲ませていた がホッと息を吐く。その様子に、ライはようやく現状を理解した。

「……夢……」

「見てたのね、やっぱり。すごくうなされてたから、起こそうと思ったんだけど――、あの、手……」

「……? ああ……、すまん」

 呟いた が、わずかに視線を落とす。その手首を自分が強く握っている事に気付き、ライは慌てて手を放した。 が小さく首を振る。

「……あいつは」

「コノエ? まだ眠ってるわ。やっぱり疲れてるみたいね」

  の視線の先には、身体を丸めて眠るコノエの姿があった。取りあえず異常はないらしい。
 声をひそめて告げた は、再び視線をライに向けた。その瞳は意思を持ってライを真っ直ぐに映している。先程の悪趣味な夢のように狂気を宿してもいない。

 だが、そんな夢を見るまでに己のうちの狂気が育ちつつある事を思い知らされ、ライは額に手を当てて瞳を閉じた。予感は……すぐ先の未来への確信へとなっていた。
 苦悩と焦燥を浮かべるライに、傍らの から心配を滲ませた声が掛けられる。

「アンタも疲れが抜け切ってないんじゃないの? まだ夜明けまであるから、もう少し寝たら」

「……眠る気が失せた。これだったら見張りをしていた方がましだ」

「だったら、目だけ閉じて身体を休めてなさいよ。……ひどい顔してるわよ」

 立ち上がろうとしたライを、 が押し止める。やや強い語調で休息を促されると、ライは渋々身体を横たえた。
 沈黙が落ちる。無意識に隣の の気配を追っていたライは、やがて聞こえてきた小さな旋律に目を見開いた。



「……何をしている」

「歌ってるの。……うるさかったらやめるけど」

 呟いた が、静かにライへと視線を流す。決して不快なものではないが、今この時に歌を歌う理由が分からずにライは眉を寄せた。

「何故、歌う」

「……歌いたかったから。文句がないなら続けるわよ」

 正面を向き直った が、再び小さく口ずさみ始める。わずかに漏れ聞こえてくるそれは、祇沙の言葉ではないようだった。少なくともライには意味が分からない。だが透き通った穏やかな旋律は耳に心地よく、ライは瞳を閉じて の歌声に聞き入った。



「――それは、何の歌だ」

 やがて が一息ついて声を途切らせた時、ライは薄く目を開けて に問い掛けた。わずかに目を見開いた がライを見下ろす。

「起きてたの。……聞いたら、アンタ絶対怒るわよ」

「そんな事でいちいち怒るか。闘いの歌でないのは分かるが、歌詞が全く分からなかった。……何だ」

 ライが重ねて問うと、 はわずかに視線を逸らした。心なしか、うっすらとその頬が染まっている。

「……言わない」

「おい。……そんなに言いづらい内容だったのか」

「違うけど。……何の歌だっていいじゃない。なんでそんなに拘るのよ。ていうか既に怒ってるじゃない」

  が軽く睨んでくる。それはいわゆる照れ隠しに過ぎなかったが、ライは再び答えを促した。

「どこがだ。……歌が、悪くないと思ったからだ。――言え」

「! ――っ、ああ、もう…っ」

 ライが憮然と告げた途端、 の頬がサッと染まった。苛立つように髪をかき混ぜると、 は視線を逸らしてぼそりと呟いた。


「……子守唄」

「何?」

「だから、子守唄。……怒らないでよね! 別に子供扱いしたとかそんな訳じゃないんだから。眠れればいいと思って、思いついたから歌っただけよ。……あ〜もう、やっぱりやめとけば良かった!」

「…………」

 予想外の返答にライは目を丸くしたが、尾を激しく振って必死に言い繕う を見ていると怒りの感情は湧いてこなかった。
 ……子守唄。どうりで聞き覚えもないはずだ。そもそも縁がなかったのだろう。だがその内容よりも歌に込めた の願いを感じ取り、ライは再び目を閉じると静かに に問い掛けた。


「お前の母親が、歌っていた歌か」

「……そうなのかもしれないけど、記憶にないわ。父さんが歌ってたから覚えているだけ。母さんは――それより前に、殺されていたから」

 気を取り直したらしい は、心もち暗い声で告げた。しかしその声色は過去にあった事実を淡々と受け入れているようで、制御できない狂気や怒りのようなものは感じられなかった。
 怒りや狂気に引きずられずに先を見据える事は、なかなかできるものではない。

 ライは「そうか」と呟くと、胸に湧いた小さな望みを に告げた。今だけは……わずかな休息を。


「歌ってくれ。お前の歌は――耳に心地良い」











 翌日、宿に帰り着いて一休みした は藍閃の裏通りへと出掛けた。カガミ湖の情報を得るためだ。

 先日行った際はライに会ったり猫の接近に警戒したりでよく調べる事ができなかったが、パッと見て不審な洞窟が近くにあるようには見えなかった。
 これからまた行くにしても、何らかの情報を得てからの方が行動しやすいだろう。そう踏んだ は、普段ならばあまり近付きたくはない情報屋を求めて裏路地を注意深く進んだ。

 暗い路地を黙々と進んでいると、先程のアサトとの会話が思い出された。



、出掛けるのか」

「あ、アサト。……うん、ちょっとね。コノエ帰ってきてるわよ。もう顔は見た?」

「さっき覗いたら、疲れているからひとりにしてくれと言われた。だが、帰ってきてくれて良かった」

 受付に書置きを残して出掛けようとした を呼び止めたのは、静かなアサトの声だった。
 しゅんと呟いたアサトだったが、コノエが帰ってきた事でいくらか不安は和らいだらしい。そのまま扉を出て行こうとした を、アサトがふいに呼び止めた。

は、どこへ行くんだ……?」

「あ……ゴメン、それはちょっと言えないんだけど……」

 アサトの問い掛けに、 は歯切れの悪い口調で返した。申し訳ないが、アサトを巻き込む訳にもいかない。答えられない に、アサトの顔がわずかに曇った。

「あいつと、一緒なのか」

「え? ……ライのこと…? 違うけど……」

 『あいつ』が誰を指すのか は一瞬戸惑ったが、ライの名を出すとアサトは苦い顔で頷いた。

「……じゃあ、あいつとはまったく関係のない場所に行くのか」

「それは……」

 重ねてのアサトの問いに、 は俯いて黙り込んだ。ライと一緒ではないにしても、ライに関わりある情報と場所を求めていくのは事実なのだ。コノエが大変な時に単独行動をする申し訳なさに気まずさを感じていると、アサトは首を振って緊張した空気を和らげた。

「いいんだ。すまない、別に を怒っている訳じゃない。気にしないで行ってくれ」

「アサト……ごめんね。コノエの事、少し見てあげて。私もなるべく早く帰るから」

「ああ。気を付けてくれ」

 アサトの笑顔で送り出され、 は後ろ髪を引かれながらも宿を出たのだった。アサトが本当は顔を歪めているのに、薄々気付いていながらも。




(アサト……ごめんね……)

 沈鬱な表情で考え込んでいた は、足音が密かに忍び寄ってきている事に気付くのが遅れた。情報が飛び交う酒場を目の前にして顔を上げた は、暗がりから突然伸びてきた腕に口を塞がれた。

「ふ、ン――っ!! な、に……」

  はとっさに肘鉄を喰らわせようとしたが、それが決まる事はなかった。
 口元を厚い布で覆われて息を吸い込んだ瞬間、強い臭気と眩暈を感じて は路地に崩れ落ちた。














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