7、届いて





「――さか、…スだったとはよ……」

「……りゃ…当な金になる――じゃねぇか?」

「サイ……はそうするとしても、まずは俺らで――」



「……――?」

 暗い視界の中、 は漏れ聞こえてきた声にかすかに耳を震わせた。
 意識が朦朧として、ひどく気分が悪い。再び泥のような眠りに引き込まれそうになるのに何とか抗って瞳を押し開けると、霞んだ視界の先で面識のない雄猫数匹が会話を交わしているのが見えた。

「なん――ウ…!!」

 咄嗟に飛び起きようとした は、手首を縛る拘束と強い眩暈に阻まれて半ばで崩れ落ちた。 の異変に雄たちがこちらを向く。
 そこは小さな小屋の中のようだった。フードを剥ぎ取られ、拘束されて硬い床に転がされ……自分が何者かに連れ去られた事を は一瞬で理解した。そしてその目的も。


「よぉ〜やくお目覚めだな、お嬢さん。随分待ったんだぜぇ?」

「…………」

 主犯格らしい雄がにや付いた笑みを浮かべて近寄ってくる。 はカラカラに乾いた口内を唾液で湿らせると、自分が連れ込まれた場所を観察するために素早く視線を走らせた。

「怯えて声も出ないってか。可愛いモンだねぇ」

「…………」

 声が出ないのは薬を嗅がされた影響がまだ残っているからだ馬鹿。 はそう言いたかったが、そうと思われていた方が何かと油断を誘いやすいので否定はしなかった。そのまま怯えを表すように視線をあちこちに彷徨わせる。

 わずかに室内に落ちる影を見る限り、まだあれからそう長い時間は経っていないだろう。おそらくあの路地からも遠くないはずだ。
 だが逃げ出そうにも、腕を前で封じられて薬を嗅がされたこの身体では厳しいだろう。一匹ならまだしも、相手は複数だ。はっきり言って絶体絶命だ。己の身に迫る絶望を悟り、 の目の前が暗くなった。

「なんであんなトコをフラフラ歩いてたかは知らねぇが、背後がガラ空きだったぜ? しかも若い雄だと思って捕まえてみりゃ、なんと極上の雌だ。俺らもツイてるぜ……!」

「……触る、な……」

 何とか搾り出した声は、驚くほど掠れて弱々しかった。近付いた雄たちが喜色を上げる。周りの雄を制して一匹の雄が圧し掛かってきた時、 の全身は嫌悪に逆立った。

「やめろ! 嫌だ!!」

「叫んだって誰もこねぇよお嬢さん。……ちょっと気持ちよくなるだけだ。これから何匹と咥え込むのに比べりゃ、物の数にも入らねぇよ!」

「ふざ…けるな!」

 まだ思うように動かない身体を無茶苦茶に動かして が抵抗すると、拳が雄の顔面に入った。思わぬ反撃を受けた雄の目に、猛烈な怒りが閃く。雄は平手を振り上げると、 の頬を容赦なく打ち据えた。

「が…ッ!! う――」

「つけ上がりやがって、このアマ!! ちったぁ黙ってろ!!」

 激しい衝撃を感じて、再び眩暈がする。口内が切れて血の味が滲んだ。ぐったりと床に横たわると、全身の力が抜けていった。

「……ちっ。売りモン傷にしたら値が下がるのによ…! ……仕方ねぇ、その分楽しませてもらうぜ」

「…………」


 ――どうしていつも、こうなのだろう。雌を物としか扱わない雄の横暴な振る舞いに、 は怒りも呆れも通り越してただ虚しさを感じていた。
 犯したければ、犯せばいい。売り飛ばすなら売ればいい。もう抵抗する気力も削がれ、 は自暴自棄にそんな事を思った。
 だが雄猫の手が無遠慮に身体を撫で回し始め、 は再び嫌悪に身体を震わせた。

(嫌だ……やっぱり嫌だ!! 触るな――! 誰か……!!)

 ……誰か。誰が来てくれるというのだろう、こんな外からも見えない小屋の中に。
 そう諦めようとした の脳裏に、昨夜暗闇の中から現れた白猫の姿がふいに閃いた。

(――ライ。……ライ……助けて――!)


 だがいくら願おうとも、それだけで助けが来ると信じるほど も楽観的ではなかった。
 最も優先すべきは、生きてここから逃げる事。次に優先すべきは、身を守る事。コノエの呪いを解き、真実に近付くためにはまず生き残らないと。そうライに宣言したのは自分だ。
 それを叶えるためには――この際多少の嫌悪は仕方ない。

「やっと静かになったな。黙ってりゃあイイ顔してんだから、少し我慢しろよ。良くしてやるから」

  はここから逃げ出す術を必死に模索しながら、這い回る手の動きを意識の外に追い遣ろうとした。雄猫が の上衣を割る。無遠慮に乳房を掴まれた痛みに は呻いたが、身体の抵抗をなんとか押さえつけた。

 無抵抗を装って油断を誘い、敵の隙を窺う。さらに身体が回復すれば何とか勝機があるかもしれない。 はその時を待つ事にした。
 けれど、この雄から逃れたからと言ってこの場から無事に逃げ出せるだろうか。やはりどう考えても絶対的に不利な状況を打破するために、 は一か八かの望みに縋る事にした。――歌を、歌おう。

 勿論声に出す事はできない。だから、いつかライが言っていたようにコノエのように思念に想いを乗せてみようと思った。誰か仲間が気付いてくれたら儲け物だ。
  は腹を括ると、雄の手に身体を弄られる不快感に耐えながらも必死に心の中で歌を紡いだ。そうする事で、心を守ろうとするように。





「雌抱くのなんて久し振りだからな……随分丁寧にしちまったぜ。……さて、そろそろ――」

 ありがたい事に、圧し掛かっている雄は随分と悠長に身体を撫で回して下さった。すぐに犯されるかと気を張り詰めていた にも、これは意外だった。余程ゆっくりと堪能するつもりだったのだろうか。おかげでだいぶ身体の自由が戻ってきた。

「――おい、遅っせえな。まだ脱がせてないのかよ。早く回せよな!」

「うるせぇよ。俺はコトは丁寧にするタイプなんだよ! 少し待ってろって――」

 半ば脱げ掛かっていた上着を剥ぎ取ろうとした雄が、仲間の声に気を取られて一瞬顔を逸らした。 はその隙を見逃さなかった。腹にぐっと力を溜めると、渾身の力を込めて は雄の股間を蹴り上げた。

「ぐぼア…ッ!!」

「……くッ……!」

 身体の上からどいた雄を退けて、 は素早く立ち上がった。呆気に取られていた他の雄たちが武器を構えるよりも早く は駆け出すと、拘束されたままの両手を振りかざして力任せに雄猫の顔を殴り付けた。

「テッメェ…! ――ぐあッ!」

 別の猫が を捕らえようと向かってくるのを踵で蹴り上げると、 は扉に体当たりを掛けた。

(開け! 開け開け開け――!!)

 一度では開かず、二度三度と身体を叩きつける。ようやく開いた隙間から が外へと飛び出すと、 の身体は大きな何かに受け止められて進路を阻まれた。

(仲間……! まさか、外にもいたなんて――!!)

「――お前……!!」

 絶望に身を竦めた は、頭上で息を呑んだ白猫の顔を見上げて目を見開いた。








 ――歌が、聞こえた。裏通りを行くライの耳に、かすかに自分を呼ぶ歌声が。
 歌は切れ切れで掠れていたが、その歌い手をライははっきりと認識した。これは…… だ。

 宿の受付に残された書置きを見た時から、嫌な予感は感じていた。だがどこへ行くとも書いていないし、まずは自分の要件を優先するためにライはカガミ湖への近道である裏通りを歩いていた。そこへ聞こえてきたのが、 の歌声だ。

 誰かを闘牙として戦闘をしているのとは感じが違う。何よりも、歌が頭に響いてきた事にライは異変を感じた。その出所を探って猫の姿のない道を走り一軒の建物の前に辿り着くと、ふいに歌声がやんだ。
 そして中から扉を突き破るように飛び出してきた姿に、ライは言葉を失った。


「なんだ、テメェ……! ――ヒィッ!!」

「貴様ら――!」

 ……何をされたかは一目瞭然だった。ライは を背後に庇うと、衝動的に双剣を抜いた。視界の端で緊張の糸が切れたように がへたり込むのが見えたが、駆け寄る余裕もない。
 頭の中が真っ白に染まり、敵以外のものが見えなくなる。建物の中にいた数匹の雄に剣を振り翳すと、苦痛を長引かせてライはすべての猫の命を絶った。

 こんな時に限って、心は狂気に支配されなかった。この猫が表情も変えずに吹き上げる血の赤を眺める様など……見たくはなかったのに。



「……おい」

「…………」

 すべてが終わってライが近寄っても、 は反応しなかった。虚ろなその瞳は焦点がなく、頬がわずかに腫れ上がっている。血の滲む唇から全身を辿っていくと、乱れた服は所々擦り切れて白い肌が覗いていた。
 拘束されていた腕の縄を断ち切ると、手首には痛々しい赤い痣が刻まれていた。

「……ッ」

 抵抗してこんな傷が出来るほどに、この肌のどこをどれだけあの雄どもは汚したのだろう。
 最悪の事態は免れているようだが、心を焼き尽くす雄たちへの猛烈な怒りと間に合わなかった自分自身への憤りに、ライは奥歯を噛みしめた。

 死体を切り刻みたい衝動を抑え付けながら、ライは無言で の衣服を整えた。奥に落ちていた剣を拾いコートを頭から被せてやると、ようやく の瞳がわずかに揺れてライを捉えた。だがそこには全く覇気がない。
 蒼白い顔が悄然と俯くのに耐え切れず、ライは の腕をそっと掴むと移動を促した。







 静かな森を、黙々と二匹で歩く。猫の多い街中を通るのは憚られて、遠回りになるが森を行く事を選んだライから は距離を置かずに付いてきていた。
 思ったよりも足取りはしっかりとしているが、一言も発しないその様子に心に受けた傷が透けて見えるようだ。ライは苛立ちも露わに尾を強く振った。


「――ゴメン……後は、帰れるから……ひとりにしてくれる……?」

 やがて森を流れる川のほとりに辿り着いた時、 が足を止めて小さく呟いた。ライも足を止めると、 を訝しげに振り返った。

「馬鹿か。こんな所で置いていける訳がないだろう」

「……ひとりになりたいの」

「駄目だ」

 目を逸らしたまま重ねて告げた の懇願を、ライは静かに切り捨てた。
 置いて行けるはずがない。目を離せる訳がない。こんな顔をした、 一匹を。

 俯いた はしばらくコートを握りしめていたが、やがてそれを脱ぎ捨てると上着の紐を解き始めた。脈絡のない行動にライの眉が寄る。

「おい、お前何を――」

「だったら後ろを向いていて。すぐに済むから。――早く!」

 強い口調で言われて、訳が分からないまま取りあえず後ろを向く。背後から絶え間なく聞こえる衣擦れに息を詰めていると、やがてそれも止んで二匹の周りは再び静寂に満たされた。

「……?」

「すぐ戻るから――見ないで」

 小さな呟きを最後に、背後で水音が上がった。水を掻き分ける音がして気配が遠くなる。ライは驚いて振り返ると、飛び込んできた光景に息を呑んだ。

「お前――!! 何をしている!」

 川の中程に、 が薄布一枚纏っただけで佇んでいた。 はこちらに背を向けたまま振り向かない。腰辺りまでを水に沈め、その背を覆うのは金の髪だけだった。

 自殺するつもりかととっさに飛び込もうとしたライは、 の手が静かに水を掬ったのを見て足を止めた。水を掬っては、身体を洗い流していく。その動きは身を清めようとする行為に他ならず、ライは安堵を感じるはずだった。――けれど。

 白い背中が背を向ける様に、強い既視感を覚える。あれは……そう、昨夜の夢の中の光景と同じだ。ライは口元を覆うと、眉を寄せて の背中を凝視した。
 しかし の手が、狂気の笑みで短剣を握る事はなかった。一通り水を浴び終えると、濡れた背中が俯く。そのまま沈黙していた は次に震える空の手を持ち上げ、両手で顔を覆った。


「――ッ!」

 ……とっさだった。何かを思った訳ではなかった。ライは突き上げる感情のまま衝動的にブーツを脱ぎ捨てると、川へと分け入った。水を蹴散らし、 へと近付いていく。

「!? ちょ…アンタなに入って来てんのよ……!!」

 振り向いた が瞠目して身体を隠す。その瞳は予想外にも濡れてはいなかったが、そんな事はどうでもいい。ライは逃げようとする の肩を引き寄せると、濡れた身体を正面から抱きしめた。


「――!!」

 突然ライに抱きしめられ、 は驚愕に強く息を呑んだ。無意識のうちに身体が硬直する。震えるように息を吐き出すと、 は猛然と抵抗を始めた。

「……い、いやぁ…ッ!! 離して! 離して……!!」

 抱きしめられた腕は太く、力強かった。それは嫌でもあの雄に身体を好きにされた感触を思い出させて、 は恐慌状態に陥った。逃れようとしても、たくましい身体はビクともしない。
 ライをライと認識する事もできずに が叫ぶと、顔のすぐ横で低い声が静かに響いた。

「逃げるな。――何もしない」

「……ッ」


 もがいていた の抵抗が、徐々に治まってくる。身体はいまだに硬直していたが、 はライに抱かれるまま小さく呼吸を繰り返していた。
 抱きしめた身体は冷たかった。指先からは濡れた背と髪の感触が伝わり、視線を落とすと滑らかな腰と水中で頼りなく揺れる金の尾が見えた。密着しているため の顔は見えない。


「……なんで……なんでこんな事、するの……? 放っておけばいいじゃない。ひとりにしてって、言ったじゃない……!」

 やがて動きを止めた は、ライの腕の中で震える声を吐き出した。その語尾は掠れている。本来ならば甘く優しい言葉をかけるべき所だが、ライは先程から感じていた苛立ちを隠す事なく に告げた。

「知るか。……だが、お前が他の雄に触れられたのが気に食わない。お前が誰かに傷付けられたのは……更に気に食わない。そう思ったら、勝手に足が動いていた。それだけだ」

「……ッ」

 腕の中の が息を呑む。身を強張らせた はそのまま息を詰めていたが、やがてそろそろと腕を持ち上げるとライの背中をかき抱いた。
 ようやく他者に縋った雌猫を離さないように、ライは腕に一層力を込めると細い背中を抱きすくめた。








「……昔、ね……行商に行った村でも、今日みたいに……襲われた事が、あったの」

 やがてライの体温が移り身体に温もりが出てきた頃、抱き合ったまま がポツリと呟いた。その顔はライの胸に押し付けられて窺えないが、 がぼんやりと目を開けている事だけは分かった。

「その時は父さんが気付いて助けに来てくれたけど、まだ私は弱くて……抵抗できなかったし、怖くて怖くて助けを呼ぶ事もできなかった」

「…………」

  が初めて語る、暗い過去。それはライのように血にまみれてはいなかったが、 の根深い傷を垣間見るようでライは息を詰めて続きを促した。

「そんな弱い自分が嫌で……それからは必死で身を守る術を覚えたわ。襲われたら、全力で叩き潰してきた。本当は――殺してもいいかなって、思う時もあった。ぐちゃぐちゃに切り刻んで、二度と会わないように。……実際には出来なかったけど」

  らしからぬ暗い怒りを滲ませた声が、激情を抑えて紡がれる。……だがこれも、 なのだ。普段の顔の裏に巧みに隠された暗い側面を、 は今ライに向けてさらけ出している。
  は自嘲するように笑うと、言葉を続けた。

「ひとの事を偉そうに言えないわね。……私も大概歪んでる」

「……別にそうは思わんがな。そんな事が歪みだと感じる時点で、お前は十分正常だと思うが」

 歪みのない猫など、いる訳がない。 の自嘲を遮るようにライが淡々と告げると、 はわずかに笑ったようだった。

「どうかしらね。……とにかく、成長してからは助けを呼ぶこと自体をやめたわ。誰にも気付かれないって思ったから。だけど――」

「……?」

 小さく呟いた が、瞳を閉じる。次に告げられた言葉に、ライは目を見開いた。

「今日は……気付いたら、アンタを呼んでた。……助けてって、歌を歌ったわ。そしたらアンタが本当に来てくれて――すごく、嬉しかった……」

 ごく小さな声で囁かれた言葉は、語尾が掠れていた。 は一つ息を吸うと、ライに体重を預けて静かに告げた。


「……やっと届いたんだって、思った。……本当はずっと…助けを呼んでたんだわ。……気付いてくれて……ありがとう………」









 それから何分の時が経ったのだろうか。ようやくその体温が戻りきった頃、濡れた身体をライに預けていた は小さく身じろぎをして呟いた。
 
「あの……そろそろ、上がらない……?」

「ああ…そうだな」

 思えば随分長い間水の中に浸かっている。そろそろ身体が冷えてきてもおかしくないだろう。ライはそう思ったが、 の語尾は不自然に歪み、妙にギクシャクとしている。
 不審に思ったライが見下ろそうとすると、その左目が突然 の両手によって塞がれた。

「……おい」

「あ…ご、ゴメン! でもダメ! 目ェ閉じてて!!」

「…………」

 奪われた視界の先から、 の動揺した声が聞こえる。……まさか、今頃になって自分の状態を自覚したとでも言うつもりだろうか。

「……今更だと思うが。もう十分に見た」

「!! わざわざ言わなくていいわよ! こっちだって今ハッと気付いたんだから!」

「……それまで気付いてなかったのか」

「そうよ!」

 売り言葉に買い言葉で、 が威勢良く返答を返す。何となく理不尽なものを感じながらも、ライは思った。それまで気付かなかったという事は、よほど落ち込んでいたか、それとも――安堵しきっていたか。
 ふと心に浮かんだ考えが妙に自分にはそぐわないものに思えて、ライは小さく苦笑を浮かべた。

「……ちょっと、何笑ってるのよ」

「いや……正気の沙汰とは思えなくてな。こんな街に近い場所で、ほぼ全裸など」

「言うなって言ってんでしょうが! しかも全裸じゃないし! ……言っとくけどアンタだって結構考えなしよ。服濡らしちゃって、どうするんだか」

「……うるさい、黙れ」

「あ、ちょっと目開けないでよ! 私がいいって言うまで見ちゃダメだからね!」

 二匹で喚きながら、ジャバジャバと川岸に向かって歩いていく。傍から見れば何と滑稽な事だろう。
 だが、それでいい。胸に溜まる苦い記憶を吐き出したのなら、いつも通り笑って怒っていればいい。それこそが だ。
 川岸に辿り着くまで、ライは理不尽な の要求を釈然としないながらも受け入れたのだった。









「――なぜ、あんな場所にいた」

 やがてまた宿に向けて歩き出したライは、ようやく落ち着いたらしい背後の に向けて静かに問い掛けた。

 昨日のフラウドの一件もあってその警戒心の薄さを詰りたい気持ちに駆られたが、さすがにそれは酷だろう。 だっていい加減に分かっているはずだ。
 だからこそあんな危険な場所に乗り込んだ の真意が分からず、ライは結局 に直接問う事にした。


「……知りたかった、から……」

 しばしの沈黙の後、わずかに逡巡する気配を滲ませて が呟いた。足を止めたライが振り返る。 も立ち止まると、ライをゆっくりと見上げて口を開いた。

「カガミ湖近くの洞窟に……ずっと狙ってた魔物がいるって、アンタ言ってたじゃない。だけど、この前見た感じじゃそういうものは見当たらなかったから……情報が欲しいと思って、裏通りに行ったの」

「……何故そこまであの場所に拘る? あの悪魔が信用ならない事は身に沁みて分かっただろう。危険を冒してまでお前があそこに行こうとする理由は何だ」

 更に問い詰めると は一瞬言葉に詰まる素振りを見せたが、やがて迷いを振り切ったようにはっきりと告げた。

「アンタの事を、知りたいと思ったからよ。アンタが追っているものの正体を追えば、アンタをもっと深く理解できると思った。狂気を止める手掛かりになるかもって、思った。アンタにとっては迷惑だろうけど……私はアンタの事が知りたい。それが今の私の……望みだから」

「…………」

 真剣に告げられた思いも掛けない言葉にライは呆然としたが、やがて目を閉じると深い溜息を吐き出した。
 「同情か」とか「迷惑だ」とか、 を突き放す言葉はいくらでも浮かんでくる。だが真っ直ぐに己を映す瞳を見て、 がそう言われるだろう事も覚悟して本心を口にしたのだとライは悟ってしまった。
 だから、少しの呆れと共に――ライは の覚悟を受け入れた。


「……阿呆猫。そういう事なら――俺と共に、行けばいいだろう」

「…………。そっ、か――。最初から、そう言えば良かったのね……」

「そうだ。……だからお前は阿呆なんだ」

  は瞠目すると、やがて顔を綻ばせて穏やかに笑った。翳りのないその表情に、ライは胸の奥に何かが流れたのを感じた。その正体は分からなかったが。
 しかし笑顔の が不意に顔を歪めたのを見て、ライは眉間に皺を寄せた。

「――ん……く…っ!!」

「おい、どうした。腹痛か」

 尋常でないその様子にライが思わず近寄ると、 は腹を抱えて身体を折った。水に浸かりすぎて身体を冷やしたのだろうか。

「違う……! なんか、お腹が――熱くて…ッ! ア――!!」

  は短く叫ぶと近くの木にもたれ掛かった。幹に背を預けて、震える手で上着をめくる。

「え……」

「? ――ッ! これは……」



  の左の胸下から真っ直ぐに伸びた黒い痣は――忘れもしない、悪趣味な喜悦の紋様以外の何物でもなかった。





 やがてライに支えられて宿に戻ったところを出迎えたコノエが、絶望的な表情を浮かべるのを は痛ましい思いで見つめたのだった。














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