4、求める温度





 激情からようやく身を起こした は、ふらふらと自室の扉を開いた。あれから何時間経ったのだろう。コノエが戻っているかもしれないと思い、 は部屋を訪ねてみる事にした。


「? ……ッ!」

 暗い廊下にぼんやりと出ると、窓から覗き込む視線を視線を感じて は毛を逆立てた。見ると、アサトがいつものように逆さまにぶら下がっているところだった。
 アサトも目を丸くしていたが、そのまま逃げる事なく音を立てずに廊下へと入り込んできた。

「アサト……」

。……何故、こんな時間に……」

 呆然と呟いたアサトは、ふと何かに気付いたように声を途切らせた。その視線は の頬に注がれている。青い瞳が引き絞られ、アサトは怪訝に口を開いた。

「血が、流れている。……怪我をしたのか」

「? ……ああ、これ……」

「……手当て、しないと」

「え……、――っ」

 一瞬何を言われたのか分からずに がぼんやりと返すと、アサトが急に顔を寄せてきた。反応の遅れた の頬に、濡れた感触が走る。それはアサトの舌だった。

「…………」

 温かい舌が、流れた血を舐め取るように丁寧に蠢く。その感触に は身体を強張らせたが、頬に、そして身体の間近にアサトの温かい体温を感じてやがて無意識に瞳を閉じた。

――知らなかった。誰かの体温が近くにある事が、これ程に気持ちを鎮めてくれるなんて。

 丹念に血を舐め取ったアサトが顔を離すのを待って、 はゆっくりと目を開けた。


「……アサト」

「――! あ……その……すまない」

 だが視線の合ったアサトは、突然何かに気付いたようにハッと身体を離し、 から距離を取ってしまった。そのまま申し訳なさげに瞳を伏せ、立ち去ろうとしてしまう。
 昼間の事を、気にしているのだろうか。そんな事よりも、今はもっと側にいて欲しいのに――

「待って! 待って……お願い、離れていかないで――!」

「!  ……!?」

 次の瞬間、咄嗟に叫んだ はアサトの懐に身を寄せた。アサトが狼狽した声を上げる。逞しい肩口に額を押し付けると、アサトの身体がビクリと強張った。

「ごめん、今だけでいいから……側にいて」

。……でも……」

「お願い……」

  の様子がいつもと異なる事に気付いたのだろうか。困惑を浮かべたアサトに懇願すると、アサトはようやく立ち去る事を諦めてくれたようだった。

 わずかな沈黙の後、アサトの両手が逡巡するような動きで の肩に乗せられた。抱き締める訳でもなく、ただ乗せられているだけだ。だがそれでも不器用に温もりを与えようとしてくれる行動がいかにもアサトらしいと思い、 は安堵するように息をゆっくりと吐き出した。





……何か、あったのか? その傷も……」

「…………」

 やがて、落ち着いた がようやく身体を離そうとする頃、アサトがぽつりと尋ねてきた。
 ……言うべきだろうか。 は一瞬言葉に詰まったが、黙って肩を提供してくれたアサトに何も言わない訳にもいかないだろう。 は小さく息を吸うと、ぽつりぽつりと先程の出来事について語り始めた。

 顔を上げればまた激昂してしまうかもしれない。 は結局、肩に顔を伏せたまま喋った。
 時折アサトが相槌を打つのが額を通して伝わってくる。そのわずかな振動と温もりは、 をひどく安心させた。



「そうか。 のところにも、リークスが……」

「うん。……アンタのとこにも、来たのね――」

 
 やがて全てを語り終えた は、顔を上げた。アサトを見上げるとやはり視線は逸らされたが、もう逃げようとはされなかった。

 分かった事は、アサトの前にもリークスが現れたという事だ。アサトはそれについて多くは語らなかったが、おそらく何か言われたのだろう。瞳の奥に暗い影が増した事に、 は気が付いてしまった。……だけど。


「……コノエは、帰ってきてるかしら?」

「あ、ああ……。俺もそれを確かめようと思って、帰って来た……」

 話題を逸らして隣室の扉に目を向けた につられ、アサトが頷く。
 言いたくなければ、言わなくていい。無理に口を割らせても互いが苦しくなるだけだ。それは の本意ではなかった。
 アサトが の話を黙って聞いてくれた、それだけで十分すぎる程だった。



「コノエ……?」

  が扉に手を掛ける。返事はない。緊張の一瞬、二匹は静かに暗い部屋を覗き込んだ。

「……いた――」

「そうか……良かった……」

 寝台の上に丸まる塊。それは、二匹が求めたコノエの姿だった。
 あどけない寝顔の下で、規則正しく胸が上下する。その耳と尾はやはり黒かったが、今はそんな事はどうでもいい。ただ無事に戻ってきてくれたという事実に、 は寝台の傍らにへたり込んだ。

 アサトが道しるべの葉を灯す。穏やかな光を受けて が見上げると、アサトは複雑な表情を浮かべながらも、ゆっくりと頷いた。

「取りあえず、良かった……」

  は呟いて、静かに部屋を後にした。己の中の怒りは、いつの間にか整理されて胸に解けていた。
 そうしてくれた存在の大きさを改めて噛み締め、 は扉にもたれて瞳を閉じた。











「あ、おはよう」

「あ、ああ……おはよう、

 翌朝、廊下に出た は、同じくして起きてきたコノエとアサトに鉢合わせた。
 二匹の間には若干ぎこちない空気があったが、それでも二匹ともそれなりに元気そうだ。 はコノエに笑い掛けた。

 昨日の事は、言わないでおこうと思っていた。コノエが覚えていれば、いずれ話す時も来るだろう。ただ呪いの再発現だけは偶然目にしてしまったいう事にして、三匹は並んで階下へと降りようとした。――その時。


「え……」

  は電流のような衝撃を受けて、足を竦ませた。何か……左腕に妙な感触を感じる。

「ア……、――っ!!」

  は左の二の腕を握り締めると、たまらず声を上げた。
 ――熱い。まるで灼熱の炎を近付けられたように、二の腕が熱を持ち痛みを放っている。
  の異変に気付いた二匹が、振り返る。 は歯を食い縛り、廊下の壁にもたれ掛かった。

、どうした!?」

「腕、どうかしたのか?」

「分かんない――ッでも、……くっ……、熱い――!」

 アサトが駆け寄る。 を抱き起こすと躊躇なくその袖を捲くり上げ、アサトは絶句した。


「!! これは……」

「……なんで……なんで、アンタにまで――!」


 コノエとアサトが呆然と見た の左腕には……コノエの右腕にあるものと同じ、悲哀の紋章が黒々と刻まれていた。










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