5、衝動
アサトは屋根の上で右往左往しながら、
とコノエの帰りを待っていた。 二匹が出掛けてから随分時間が経っている。手持ち無沙汰に刻んでいた爪の跡は、もう幾筋にもなってしまっていた。 もう少し待っていても二匹が帰ってこないようなら、森に迎えに出ようとアサトは思っていた。
(
――)
宿を出る前に雌猫が見せた、強い眼差しが忘れられない。 発熱した身体を気遣ってコノエとアサトが休ませようとしても、
は自分が同行する事を頑として譲らなかった。自分の事が知りたいからだと言っていたが、もう一つの理由をコノエもアサトも気付かない訳がなかった。
……強い猫だと、思う。こんな時でも他者の事を考えて、あの猫は行動している。 痣が現れたときも、痛みに顔を歪めてはいたが
はそれほど動揺していなかった。予兆があった……訳ではないだろう。あそこで動揺すれば、コノエが己を責めるだろう事を分かっていたから、
は静かに不測の事態を受け止めたのだ。そんな度胸が、自分にあるだろうか。
自身も否応なくこの戦いに巻き込まれながら、それでも
は足を踏ん張って立っている。……時折、崩れそうになりながらも。 昨夜
が見せた一面を思い出し、アサトは通りから目を逸らすと膝を抱え直した。
――昨日。本当はあの時、抱き締めてしまいたかった。
頬に滲んだ赤に惹かれて、無意識のうちに
に触れていた。まずいと思って離れようとしたのに、
に引き止められて心がひどく揺れた。
が……自分を必要としてくれた。
押し付けられた額が、震える小さな肩が、全てアサトに委ねられていた。その瞬間、頭に過ぎったのは――抱き締めて、自分だけのものにしたいという、黒い欲望にも似た願望だった。
の肩に手を置いたのは、自分に制動を掛けるためでもあった。 抱き締めたいのに抱き締められない。大切にしたいのに、傷付けてしまうかもしれない。守りたいのに……汚してしまいたく、なる。
己の自我と相反する、凶暴な欲が不意に顔を覗かせる。これを解放しては、駄目だ。 アサトは
の熱を感じながら、込み上げる衝動を噛み殺したのだった。
花畑で
を押し倒したのは、つい昨日の事だ。あの時は獣になる夢と現実がごちゃまぜになって、訳が分からないまま行動をしていた。けれど、組み伏せた
が一瞬だけ見せた怯えた表情だけは、いやにはっきりと覚えている。
やはり……離れるべきなのだろうか。アサトは逡巡して屋根の傷跡を見つめると、静かに自室へと引き上げた。
やがて二匹が帰ってくる物音がしたが、アサトは部屋に引き篭もったまま顔を出そうとしなかった。
とコノエに対して、どう振舞ったらいいのか分からない。 だが、漏れ聞こえてくる声からどうやら
が熱を再び出したらしい事が分かり、アサトは堪えきれずに扉を開いた。すると、ちょうど
の部屋からコノエが出てきたところだった。
「コノエ。……
は――」
「アサト。部屋にいたのか。……また熱が出て、今寝かせたところだよ」
「そう、か……」
心配を滲ませたコノエの声が胸に刺さり、アサトはコノエが出てきた扉にそっと目を遣った。あの中で……
は苦しんでいるのだろうか。
「
の痣は、やはりコノエのものと同じだったのか」
「……ああ。呪術師はそう言っていた。理由は……」
視線を引き剥がし、アサトはコノエに目を向けると訪問の成果を問い掛けた。すると、コノエがふと答える声を途切らせた。……何だろう。
「……俺と
が、深く心を通わせたから……だろうって――」
「――!」
わずかに頬を染めたコノエがボソボソと呟く。それを聞いたアサトは、目を見開いた。 ……今、何か心の奥がズキリとした。何に対してかは、分からないけれど。
「そうか……。お前と、
が……」
……何だろう。胸がモヤモヤして苦しい。 思わず目を伏せたアサトを、そのときコノエがじっと覗き込んできた。そして告げられた言葉に、アサトは動揺した。
「…………。なあアサト、お前……最近、
を避けていないか?」
「……っ――。そんな事は、ない」
「そうかよ。……だったら何で、
の様子を見に行かないんだよ。いつものお前だったら、真っ先に飛んでいくはずだろ。……お前、最近変だぞ?」
「…………」
諭されるようにコノエに言われ、アサトは沈黙した。……図星だ。 アサトが唇を噛み締めていると、コノエが穏やかに見上げてきた。
「吉良の追っ手の事……気にしてるのか? それとも、この前花畑で会った冥戯の猫の方か」
「…………両方、だが……あの猫の言葉が、気になって――」
「……残された時間はあとわずか、ってやつか」
翳りを帯びて呟かれた言葉に、アサトは黙って頷いた。 ……あれは、脅迫でもなんでもない。予言だ。しかも刻々と迫りつつある未来の。
「側にいれば……お前たちを傷付けると、思った。だから離れた方が良いのかと――」
「お前なぁ……」
思わず不安を吐露したアサトを遮って、コノエが呆れた声を上げた。アサトが目を上げると、コノエは少し怒ったような顔でアサトを睨んでいた。
「俺や
がそんな事気にするわけ――、まぁいいや。あとは
に言ってもらえ。……とにかく、そんな理由で離れていくって聞いたら、
怒るぞ」
「……怒る?」
予想外のコノエの言葉に、アサトは眉を寄せた。なぜ、怒るのだろう。
「……ああ。きっとすごく怒る。……
はお前を信じて頼っているのに、なんでお前は
を頼れないんだ、信じられないんだって」
「
が俺を――頼っている?」
自分に向けられるものとは到底思えない単語を、アサトは思わず聞き返してしまった。コノエが小さく頷く。
「ああ。……自覚ないなんて言うなよ? さっき森から帰って来る時に俺が支えたら、
……何て言ったと思う?」
「……?」
「……アサト、って言ったんだよ。俺とお前を間違えてた。……ひどい話だよな」
「――ッ、それ、は……」
アサトの息が止まる。ひどい、と言いながらも苦笑したコノエは、その手を静かにアサトの肩へと乗せた。そしてすれ違いざま、穏やかに呟く。
「
が頼りたくて、縋りたくて、安心できるのは……お前の側なんだよ。
はお前に……側にいてほしいんだ。――俺じゃ、駄目なんだよ」
「……! ――コノエ……お前も、
を……」
「…………」
咄嗟に振り向いたアサトは、わずかな苦笑を浮かべるコノエを見て言葉を失った。コノエは正面を向くと、静かに階下へと降りていった。
コノエも、
を――? 廊下に立ち尽くしたまま呆然とコノエの去った階段を眺めていたアサトは、そのとき突然飛来してきた金属を咄嗟に避けた。ハッとして振り向いた窓から飛び込んできた影に、アサトは目を見開いた。
「カガリ――!」
+++++ +++++
「……なんなんだ、お前」
……アサトに刃を向けるカガリを阻んだのは、なんと悲哀の悪魔、カルツだった。 「いつか絶対殺してやる」との捨て台詞を残してカガリが飛び去った後に、アサトは警戒を込めて静かに佇む悪魔を睨み付けた。
「憎まれるべき者」と己を評したカルツが、アサトに近付く。その憂いを帯びた眼差しが
の部屋の扉に向けられて、アサトは困惑した。
「――あの猫は、お前にとって大切な者か……?」
不意に低く呟いたカルツに、アサトは目を見開いた。だがすぐに、反発を覚えて睨み返した。
「……お前に関係、ない」
「そうか。……だが、発熱しているのだろう?」
低く唸ったアサトを、カルツが静かに見つめる。ふとその腕が伸ばされて、アサトの手の甲にカルツの指先が触れた。
「! 何をする……!」
「じっとしていろ。あの猫を楽にしてやりたいのだろう」
「…っ、……」
指先から、冷たい気が腕に流れ込んでくる。動きを止めたアサトにしっかりと手のひらを押し付けたカルツは、その手を離して静かな視線をアサトに向けた。
「私の気を残したから、あの猫に当ててやるといい」
「……お前……どうして……」
アサトの困惑した声を受けて、カルツはふっと目を伏せた。無言のまま、手から青い光を生み出していく。
「大切ならば……何があっても、決して離すな。お前が信じれば、あの猫もお前の事を信じてくれるだろう。お前が信じる事で……未来は、変わるかもしれない」
最後に謎めいた呟きだけを残して、カルツは静かに消え去った。
残してもらった不思議な冷気を無駄にする訳にもいかず、アサトは逡巡の末、意を決して
の部屋の扉を押し開けた。
「
――、入るぞ……」
中から返事はなかった。緊張して扉をくぐると、寝台に横たわる
が苦しげに喘いでいるのが見えた。
「
――!」
ああ、やっぱり早く来れば良かった。アサトが駆け寄っても、
は目を開かなかった。コノエが置いたのだろう額の布も、枕の横へと落ちてしまっている。
……どうしよう。一瞬動揺したアサトは、冷気の残る腕に気付いて手のひらを
の頬に押し当てた。
に触れるのは躊躇われるが……今は、仕方がない。
ヒヤリとした感触が刺激になったのだろうか、
がわずかに眉を寄せる。そのまま瞼が震えたかと思うと、熱で潤んだ瞳がわずかに覗いた。
「…………。アサ、ト……?」
「……ああ。
、大丈夫か」
焦点の合った
が掠れた声で自分の名を紡いだ。アサトの心臓がふいに跳ねる。……そんな場合じゃないのに。
「……冷たい……。気持ち、いいね……」
はうっとりと、アサトの手のひらに頬を寄せてきた。だがしばらくすると、開かれた瞳は再び力なく閉じられてしまった。
は眠りと覚醒の狭間にいるようだ。呼吸は荒く、意識が混濁している。…苦しそうだ。 その顔を見ると、唇が乾いているのにアサトは気が付いた。もしかしたら、喉も渇いているかもしれない。
「
、水いるか?」
「……うん……、欲し、い……」
「そうか。少し待っていろ」
苦しげに呟いた
から離れ、アサトは部屋の隅にあった樽から木の器に水を汲んだ。
のために……自分にできる事なら、何でもしてやりたいと思った。
「ほら。……飲めるか?」
を抱き起こしたアサトは、その唇に器を押し当てた。だが、ぐったりとした
は一向に唇を開かない。零れ落ちた水が顎を伝い、
の胸元に染みを作っていった。
「…………」
――どうすれば、いい。アサトが眉を寄せると、そのとき
の唇がわずかに震えた。
「……みず……ほしい……」
「…………。――ッ、
……すまない……!」
懇願するように呟いた
の声に押され、アサトは手にしていた水を衝動的にあおった。そして首を傾けると……唇を、
に重ねた。
――触れた唇は、燃えるように熱かった。 アサトがゆっくりと水を注ぎ込むと、
は小さく喉を鳴らしてそれを嚥下した。
「…………」
「……
……」
唇を離そうとすると、ふいに
の舌が伸ばされてアサトの唇の表面に触れた。……足りないのだろうか。 無言の催促に押されるように、アサトは乾いた口内に何度となく水を流し込んだ。
「……ッ、――っ……」
やがてアサトは、何のために自分が
に口付けているのか段々分からなくなってきた。 水を求めて、
が貪欲に舌を伸ばしてくる。それは本能によるものだと分かっているのに、隠しがたい甘さを感じてしまい頭がぼうとしてくる。 水が尽きても、アサトは
に口付けるのをやめる事ができなかった。
……柔らかい舌。熱い身体。潤んだ瞳と吐息。 いま腕の中にある存在を、誰にも触れさせたくない。傷付けさせたくない。……いや違う。全て奪って、自分のものにしてしまいたい――!
「――ッ!! あ……!」
身体の奥で黒い衝動が沸き上がったのを感じ取り、アサトは咄嗟に
から己の身体を引き剥がした。目を見開いて見下ろすと、相変わらず苦しそうな顔で
が眠っていた。
「――また、か……」
……また、黒い波に意識が飲み込まれそうになっていた。アサトは荒く息をつくと、乱暴に髪をかき混ぜた。……危なかった。
アサトが急に手を離したせいで、
の金の髪は乱れて四方に散らばってしまっていた。アサトは躊躇したが、そっとそれを整えると再び手のひらを頬に当てた。 触れるなら、これ位に止めておいた方がいい。そうしないと……また、呑み込まれてしまう。
に触れると――自分でもゾクリとするような、暗い衝動に引きずり込まれそうになる。制御できなくなってしまう。……だけど。
『
はお前に……側にいてほしいんだよ』
コノエの言葉が甦る。本当に、
は自分などに側にいてほしいのだろうか。……分からない。 それでも、自分が
の側にいたい事だけは、疑いようもない事実だった。
結局アサトは熱が下がるまで、その手のひらを
の頬に当て続けたのだった。
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