6、守りたい
翌朝、熱の下がった
が起き上がると、枕元に黄色の花が一輪置かれていた。それを摘まみ上げた
は、花の香りを嗅ぐように花弁を唇に当てると、そっと頬を赤らめた。
(昨日――アサトに、キス…された……?)
祠を出るあたりからの記憶が混濁しているが、コノエに看病してもらったその後、気が付いたらアサトに口付けられていた……気がする。 おそらく水を与えられていたのだろうが、最後の方は違っていたように思う。あの空っぽのキスは……どういう意味なんだろう。
(他意はない……とは、言えないわよね。さすがにあれは……)
頭に浮かんだその「意味」に、
はますます頬を熱くした。浮かれている場合じゃないのに。
気持ちを切り替えるように頭を振って扉を開けた
は、そこに漂うわずかな匂いを感じ取り、思わず硬直した。この花の香りは――アサトだ。
「おっ、おはよう!」
「…ッ。……ああ、おはよう……。気付いていたのだな」
「え。……カ、カルツッ!?」
だが、やや不自然に振り向いた
の視線の先に佇んでいたのは、アサトではなくカルツだった。一瞬目を見開いたカルツが、静かに
を見遣る。 一方の
は、驚愕に目を見開いていた。……何故、間違えてしまったのだろう。
はそう思ったが、カルツとアサトが似たような香りがを纏わせている事に、今気が付いた。これは……あの花畑の、香りだ。
「……私に何か、用だった?」
「ああ。……君を呼びに来た」
「私を?」
では何故同じ香りがしたのか
は疑問に感じたが、取りあえずは珍しくカルツが廊下にいる事への疑問を投げ掛けた。意外な返答に
が思わず聞き返すと、カルツはじっと
に視線を向けてきた。
「熱は、下がったのか」
「え、ええまあ……。……なんで知ってるの?」
「…………。――君は、あの猫の事が……大切か」
「はい?」
質問には答えず、唐突に問い掛けてきたカルツに
は目を剥いた。……話の流れが全く見えない。というか、この脈絡のない喋り方は誰かに似ている気がする。
「……あの猫って、どの猫の事よ」
「……あの、黒猫の事だ」
「な……」
静かに返されて、
は思わず目を丸くした。次いで、顔を赤らめる。……何の意図があってこんな事を聞いてくるのだろう。
「なんで、そんな事を聞くの……?」
「……君が、あの猫を随分気にしているように見えたからだ。あの猫も、君の事をいつも追っている」
「…………」
淡々と指摘されて、
の頬がさらに染まる。つまり……アサトはおろか、アサトを意識し始めている自分の態度も、周囲にバレバレだと言う事だろうか。
は穴があったら入りたい気持ちに駆られながらも、ボソボソと口を開いた。
「そりゃあ……大切、よ。色々な意味で目が離せないし、側にいてほしいし、側にいなくちゃとも思うし……って、あなた何言わせるのよ」
思わず本音を呟いてしまった
は、ジト目でカルツを睨んだ。勝手に喋ったのは自分なのだが、全てを話しても黙って受け止めてくれるような態度をカルツがしていたために、思わず責任転嫁してしまった。単なる照れ隠しに過ぎないが。
「そうか。……ならば、側にいてやるといい。君の持つ気もそうだが、君が側にいる事は、あの猫にとって良い方向に働く」
「はあ……。言われなくても、出来るだけそのつもりではいるけど」
何故カルツがこんな事を言うのかさっぱり分からなかったが、
は取りあえず頷いた。すると悲哀の悪魔が一瞬だけ、口元にごく静かな笑みを浮かべた。 大変珍しい光景に思わず
が目を奪われた直後、何事もなかったようにカルツは無表情に戻ってしまった。
「話がある。リークスの事と、君の身体から感じる……我々の匂いの事だ」
「!」
いきなり話題を戻したカルツの言葉に、
は息を詰めた。痣の事については悪魔にはまだ話していないが……分かるのか。
「……分かった。皆、いるのね? 今降りるわ」
「そうか。食堂で待っている」
ごくりと唾を呑み込んだ
が頷くと、カルツは踵を返して歩き始めた。階下に降りようとするその背中を、
は咄嗟に呼び止めた。
「待って! ……あなたは私の事を言うけど――アサトの事を気にしているのは、あなたもなんじゃないの?」
「! ……っ……」
が小さく問い掛けると、カルツが歩みを止めた。振り向きはしないが、否定もしない。……やはり、そうか。
「アサトの事……ずっと、見てたわよね。敵視って感じでもなかった。……あなた、アサトを見守ってるの……?」
「見守るなど……私にはそんな資格はない。ただ、あの子が安寧であるようにと……願うばかりだ」
「え……」
自嘲するように呟いたカルツが静かに階段を下りていく。その背中は追われる事を拒絶しているようで、
はその場に立ち尽くすとカルツの言葉を反芻する他なかった。
「アサト。――おはよう」
「あ、ああ……、おはよう……」
階下に降りた
は既に全員が集まっている食堂に足を踏み入れると、一番に目が合ったアサトへ話し掛けた。アサトは挨拶を返したが、やはりふいと
から視線を逸らしてしまう。
はアサトとの間に見えない壁を感じたが、それでもめげずにアサトへと笑い掛けた。
話は、まずはコノエに再び現れた痣の事から始まった。一通りを話したコノエが
をちらりと見遣る。
は頷くと、服の袖をそっとまくり上げた。
「私にも……痣が、現れたの」
コノエと
の痣は、今度は悪魔たちではなくリークスの力によるものであるらしかった。最後の時に向けて力を強めているリークスの居場所が、分かるようになってきたと悪魔たちは言う。そしてその「最後の時」とは月が重なる時、もしく雪が降った後ではないかとのライの推測であった。
「結局、今は力を蓄えておくしかないって事ね……」
全て話が終わり、悪魔たちが各々消えてしまうと
は長く息を吐きながら呟いた。今はこちらからは動けないと言う事か。 アサトを見上げようとした
は、そのときコノエに「ちょっと」と腕を引っ張られて二階へと連れ出された。部屋を出る寸前にアサトを振り返ると、ライに声を掛けられているところだった。
「コノエ、何?」
「あの、さ……アンタ、アサトが俺たち…っていうか、むしろアンタを避けてるかもしれないって、思った事あるか?」
「え……」
廊下で立ち止まったコノエに小声で唐突に問い掛けられ、
は思わずきょとんと聞き返した。言われた意味が分からず反芻すると、やがて合点がいって
はおずおずと頷いた。
「……うん……。なんか、発…じゃなかった、あのカガリって猫が来た日からかな。あれから沈みがちで……最近は距離を置かれてるって感じる事が多くなった」
「……そうか……」
間にはアサトに押し倒されたという経緯が入っているのだが、それは告げずに
が肯定すると、コノエは考え込むような素振りを見せた後に顔を上げた。
「俺、アンタに言っといた方がいいと思うんだけど…、実はその日、俺たち森の花畑に行ってたんだ」
「花畑……ああ、あそこね。そういえば行ったって言ってたわ」
が頷くと、コノエは一瞬口を噤んでから話を続けた。
「そこで、冥戯の猫に会って――そいつはアサトの父親の友達だったらしいけど、アイツ、父親が冥戯の猫だって初めて聞かされて、すごく動揺してた」
「父親が……冥戯……?」
――冥戯。それはリークスの手下であり、吉良と激しく対立している一族だ。つまりアサトは……敵同士の間にできた子供なのか。だからこそ、吉良で疎まれてきたのだろうか。 意外な事実に
は目を見開くと、話の続きを促した。
「それから、アイツは禁忌の子で、残された時間はあと少ししかないって。……俺にも何の事か分からないけど、もし大切な者を守りたいなら――自害、しろって……」
「自害…!? 何それ……!」
示された最悪の選択肢に、
は眉を寄せると小さく叫んだ。その冥戯の猫がどんな存在かは知らないが……そんな言葉をアサトに投げ付けたなんて、許せない。 疎まれて育てられ、同胞に追われ、今度は……死を選べとは。アサトが生きていて誰に迷惑を掛けたと言うのか。
「とにかく、そいつと会った事でアサトが沈んだのは確かなんだ。俺が言うまでもないと思うけど……アンタも、気を付けて見ててほしい」
怒りに沈みそうになった
をなだめるようにコノエが呟くと、
はハッと顔を上げた。確かに、怒っている場合ではない。
「分かった。見てるわ……ちゃんと。――自害なんて絶対にさせない。禁忌の子だとか……もう、アサトには聞かせたくない。あんな言葉で傷付けさせるのは沢山だわ」
「……そうだな……」
が決意を込めて静かに告げると、コノエがゆっくりと頷いた。その顔に寂しげな笑みが浮かんでいる事には、
は気付かなかった。
はコノエの瞳を覗き込むと、感謝と信頼を込めて口を開いた。
「コノエ、教えてくれてありがとう。私……アサトを、守りたいよ。できる事からしてみるから……力を、貸して」
コノエが出掛けた後に
が階下に下りると、アサトもライも既にいなくなっていた。……二匹で何を話していたのだろうか。
宿で大人しく手伝いをする気にもなれず、バルドに一声掛けてから宿を出ると、
はあてどなく路地を歩き始めた。そして視界を掠めた一匹の華奢な影に、
は瞬きするとハッと息を呑んだ。……あの猫は。
すぐに消えた影を追って路地を走ると、いくつか角を曲がった所で立ちはだかる姿を認めて
は足を止めた。そして華奢な影――カガリが昂然と見据えて口を開くのを、
は黙って受け止めた。
「……お前、あたしに何か用かい? ――闘いなら受けて立つよ」
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