「お前、見た事があるよ。最近アサトの側にいる猫だろう。……どうした、やらないのかい? それならこっちからいくよ」
「……闘う気はないわ。あなたに話が聞きたいと思って、追ってきたのよ」
わずかな距離を挟んで対峙したカガリが、挑発するように告げた。それに
は両手を開いて非戦の意思を示すと、静かに口を開いた。 その声とわずかにフードから覗いた素顔に、カガリは大きく目を見開いた。
「まさかとは思ったが……お前、雌か――!」
7、対峙
「この前も随分小さい猫だとは思ったけど、まさか雌とはね。……どうして雌がこんな所をうろついてる」
「それはお互い様だと思うけど……。はじめまして、
よ。繰り返すけどあなたと闘う意思はないわ」
周囲を確認してフードを払った
は、カガリをじっと見つめた。この前は一瞬見かけただけだったが、アサトと同じ褐色の肌をした、とても綺麗な猫だ。自分よりも年長だろうが、身体は小柄かもしれない。同性ながらも
は思わず見とれてしまった。 一方、本当に闘わず無言で突っ立っている
を見て、カガリは困惑したようだった。
「お前、どうしてアサトなんかの側にいる」
「え? ……まあ色々あったけど、最初はアサトが助けてくれたから、かしら。……それより、『なんか』なんて言い方はやめて。アサトだから側にいるのよ」
「…………」
わずかに眉をひそめて答えた
を、カガリは探るように見つめて口を開いた。
「……だったらあたしがアイツを狙っているのも知ってるだろう。……お前、馬鹿じゃないの? 自分が代わりに殺られるとは思わないのかい?」
「思わないわ。だって吉良は揉め事を嫌うんでしょう? それに私を殺したところであなたに何のメリットもない」
首を振った
は、強くカガリを見据えて答えた。……ここで、殺される訳にも逃げられる訳にもいかない。雌二匹は無言で互いの双眸を見つめ合った。
「……ふん。……一体何を聞きたいのさ」
の眼差しを静かに受け止めたカガリは、腕を組むと背後の壁にもたれ掛かった。 「決まってるわ。……アサトの事よ」
「それをどうしてお前に話さなきゃいけない?」
「知りたいからよ。……アサトが何に苦しんで、ここまで吉良に追われているかを」
アサトが何を危惧して恐れ、
やコノエから遠ざかろうとするのか……今の時点では何も分からないのだ。アサトが語れない、もしくは語りたがらないのなら、アサトの事を知っている猫にその手掛かりを聞くしかない。
「そうだよ。あたしはアサトを追ってるのさ。……これから死ぬ奴の事を知ったところで、お前に何が――」
「……死なせないわ、絶対に」
「…………」
言葉を遮られ、カガリの眉が寄る。
は眼差しを強めると、カガリを正面から見据えた。
「だけど、アサトは苦しんでる。それが何なのかは分からない。でも、何かできる事があるのなら……私は何だってしたい」
「……っ……」
カガリの顔がわずかに歪む。アサトの苦しみを知っているという顔だ。 ――効いている、と
は思った。やはりアサトに関して、カガリは殺意以外にも複雑な感情を抱いているようだ。
「……それに、あなただってこの前アサトを狙ってた刺客を追っていったじゃない。アサトを殺す事に迷いがあるんじゃないの? だから――」
「勝手な事を言うんじゃないよ。お前には関係ない」
「…………」
きつい眼差しと言葉に
が唇を噛むと、やがて無言で睨みつけていたカガリは苛立ったように溜息をついた。顔を上げて、
の目を捉える。
「……分かったよ。……あたしの気が変わらないうちに早く話しな」
「! ――いいの?」
「いいって言ってんだろう。ほら、早くおしよ!」
カガリに急かされて、
は今まで疑問に思っていた事を全てぶつけた。 吉良が執拗にアサトを狙うわけ、冥戯だったという父親と母親の顛末、そしてアサトが「魔物の子」や「禁忌の子」と呼ばれるわけ――全てを見届けてきたカガリから語られる過去の出来事を、
は呆然としながらも一言一句聞き逃さないように聞き入った。
「生まれてきた時、魔物の姿をしてたから殺されそうになった……」
「……そうだよ。あたしとアサトの母さんで必死になって止めて、ふたりで育てたんだ」
が反芻した言葉に、カガリは静かに頷いた。赤子が殺されるのを黙って見ている事は出来なかったと、そうカガリは言う。 だが……それなら、今になってアサトを殺そうと狙っているのは――
「……矛盾、してるんじゃないの……?」
思わず口から漏れた
の言葉に、カガリは一瞬怯むような表情を浮かべた。その顔に、
はわずかな苛立ちを感じた。
「……お母さんは早くに亡くなったってアサトは言ってたわ。だったら、アサトはほとんどあなたが育てたようなものなんでしょう? どうしてそんな猫を、あなたは殺そうとできるのよ……!」
「……ッ! ――そんな事、お前に言われなくたって分かっているさ! これは吉良の問題だ。余所者に口出しされる筋合いはない!」
アサトをここまで育てながら今度は殺すと告げる、矛盾したカガリの言動に
は思わず激昂した。打たれたように顔を歪めたカガリも、すぐに反論してくる。 沸点の低い二匹の会話は、一気に険悪な空気が漂い始めてしまった。
……こんなはずじゃなかったのに。
はそう思ったが、気持ちと言葉が止まらない。
はカガリの瞳を睨み返すと、さらに言葉を重ねた。
「関係ないわよ! 私が出会ったアサトはもう吉良のアサトじゃなかったわ。吉良を大事に思ってるけど、でもそれ以上に友達を何とかして救いたいって思っている、ただのアサトだったわ! ……アサトが許せないなら、吉良に戻れなくすればいいだけじゃない。命を奪う必要まではない!」
「掟は絶対だ! お前に何が分かる――!」
「だったらどうしてあなたが来たのよ! なんで一番信頼してるあなたが――!」
「……ッ!」
暗い路地に、怒声が飛び交う。カガリをきつく詰りながら、
は顔を歪めていた。 ……苦しい、苦しい――。自分は今、出会ったばかりの雌猫の心を傷付けている。
カガリが望んでアサトを殺そうとしていない事は、今までの話からも十分に分かった。カガリもアサトに対して、肉親の情とも言える気持ちを抱いている。カガリの叫びには、痛々しいほどの葛藤が現れていた。 ……けれど。それでもアサトを殺すと言うなら、到底許容はできない。
が答えを待つようにじっと見つめると、カガリはしなやかな手に視線を落としてから
を見据えた。
「……あたしが、自分から申し出たんだ。他の奴らに先を越されるくらいなら、あたしがこの手で――殺すって」
「……!」
告げられた悲壮な決意に、
は言葉を失った。それが……理由か。 愛しいからこそ、最期は自分の手で。我が子のような存在を、その手で無に返す――
それは、確かに譲る事のできない決意だと思った。哀しくも、情に溢れた。……けれど。
「……でも、あなたに狙われたアサトは……どう思ったと思う……?」
眉を下げた
は、どうしようもないやり切れなさを感じながらも掠れた声でカガリに問い掛けた。カガリがわずかな困惑を示す。 カガリの気持ちは分かる。けれど、
にも――譲れない思いがある。 「アサトは、あなたの事を肉親みたいに大切だって言ってたわ。恩人だって、私に紹介してくれた。そんな猫に殺されそうになって……ショックだろうけど、アサトはそれ以上にきっと……すごく、哀しかったと思う。……あなたはそれでもアサトを狙うの……?」
「…………」
「お願いよ。……アサトを、殺さないで。あなたにとっても大事な猫だろうけど……私にとっても、大事な猫なの。お願いだから……」
息を詰めたカガリに向かって、
は頭を下げて懇願した。どうか、どうか……聞き入れてほしかった。
「……覚悟はあるのかい」
「え?」
やがて、沈黙していたカガリは感情を押し殺した硬い声で
に問い掛けてきた。 意味が分からず
が顔を上げると、カガリは冷えた眼差しで
を睨み付けていた。
「……あの子を助けようとするなら、相応の覚悟が必要だって言ってんだよ。お前は命を落とすかもしれない。色々な意味でね。……それでも、あの子の側にいる覚悟があるのかい?」
「…………」
……覚悟。命を落としてもアサトから離れないという覚悟。……それが自分にあるだろうか。
は頭の隅で考えた。
もしアサトが今目の前から消えてしまったらと思うと、胸が塞がれる思いがする。 それは別に、依存しているとかそういう理由によるものではないと思う。……多分。アサトがいなくても
は生きていけるだろうし、実際に今までもそうやって生きてきた。
……けれど、アサトが与えてくれた安らぎや心の温かさを知り、心地良く身に馴染んでしまった今となっては、それはひどく恐ろしい未来のように思えた。 もう、この手を握る者がいない。もう優しい温もりが届かない。――そんな生涯は、嫌だ。 アサトと共にいない未来など、今は全く欲しくなかった。
温もりを、抱擁を、歌声を、愛しさを……分け合って、寄り添って生きていけたのなら――最上だ。たとえアサトや自分が、どんな姿であったとしても。
「……アサトが助かるとして、もしその過程で私が命を落としたり傷付いたりしたんだとしても……私はきっと、後悔しないわ」
「…………」
「それでアサトが安らげるんだとしたら、安いものよ。アサトが今まで私に与えてくれたものを返せるなら、命を対価にしても構わないと思う。……あなた達と闘う可能性も含めてね」
静かに告げた
が真っ直ぐに見据えると、沈黙していたカガリは好戦的に目を眇めた。
「へぇ。やろうってのかい?」
一瞬にして緊迫した空気を散らすように
は首を振ると、わずかに表情を和らげた。
「でも、それは最後の手段よ。私だって命は粗末にしたくないし、無駄死にはもっとしたくないわ。……どんな姿になっても、ずっとアサトと生きていきたい。できれば、吉良と戦わずに。……これが私の願い。けどそうやって生きていくためなら、死ぬ事も辞さない。……これが私の覚悟」
口に出すとどうにも妙に聞こえるが、
は己の覚悟を静かにカガリに示した。 唇を引き結んでカガリの反応を待つと、当のカガリはしばらく沈黙した後に……唇を、わずかに笑ませた。
「そう…、分かったよ。…………お前、変な猫だね」
「……それはどうも。アサトにも、同じ事を言われたわ。……やっぱり似てるわね」
わずかに空気を緩めたカガリに倣い、
が目を細めるとカガリは憮然とした顔つきでそっぽを向いた。どこか照れ隠しのようにも見えるその態度に、
は初めてこの雌猫に親近感を抱いた。
「――お前、アサトに惚れてるのかい」
「……!?」
だが、次に投げ掛けられた言葉に
は思わず噴き出しそうになってしまった。 ……一つ分かった。この脈絡のない直球な喋り方は……おそらくこの猫からも、アサトに受け継がれている。
は背筋を正すと筋肉を総動員して赤い顔をカガリに向け、その答えを告げた。
「――ええ。心底ね。……アサトからの話だけで、あなたに嫉妬したくらいだわ」
「……ふん。……?」
だが、わずかに口端を吊り上げたカガリはその直後、顔を強張らせて尾を立てた。……警戒している。 異変に気付いた
も周囲に気をやると、路地の奥から一匹の猫が姿を現したのに気が付いた。
「……さがしたよ、きんのめす。ようやくおまえをころすときがきた」
「――! ……キル………」
そこには、
の忘れえぬ罪の象徴が笑みを浮かべて立っていた。
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