翌朝、朝霧の中を
とコノエはゆっくりと歩いていた。もう藍閃は目の前だ。 安全な道を辿っているとはいえ、やはり緊張を強いられる旅路が終わる事に二匹がホッと息をついたその時。側の茂みが、ガサリと音を立てた。
「……っ」
――猫か? とっさに構えた二匹が見守る前で、黒い影が茂みから飛び出した。
「! ……アサト!?」
「! コノエ、
――。良かった。こんな所にいたのか」
目を見開いた
の視線の先で――頭に葉っぱを散らしたアサトが、同じように目を見開いていた。
9、凍えるあなたへ
アサトは、
とコノエが帰らない事に心配して昨夜から藍閃と森を探し回っていてくれたらしい。黙って出て行ってしまった事を
が詫びると、「無事だったならそれでいい」とアサトは笑って流した。
だが藍閃の街中に入ると、コノエと
は不穏な違和感に顔を強張らせた。
「何か、様子が変ね……」
「失躯が、急に広まり始めたんだ。みんな、混乱している」
どことなくぎこちない街中の雰囲気は失躯が急速に現れ始めたせいだとアサトは言う。
とコノエは戦慄した。本当に……最後の時が迫ってきているのだ。
急いで宿に帰り着いた三匹は、屋根の上にいた悪魔たちに出迎えられた。 リークスのいる方角が分かったという悪魔の言葉に、コノエはすぐに飛び出して行こうとした。だが、焦っても居場所が掴めた訳ではないし、何よりコノエの疲労が激しいためアサトがそれを押し止めた。
渋るコノエを何とか自室へと向かわせると、アサトは踵を返して宿から出て行こうとした。
「アサト、どこ行くの?」
「花を、摘んでくる」
「花? でも今は――」
「コノエは、とても疲れた顔をしていた。ショックを受けているはずだ。だから、励ましたい。……駄目か?」
呼び止めた
に、アサトが振り返る。
は口をつぐむと黙って首を振った。……止められる訳がない。アサトはホッとしたように小さく笑った。
「お前も休んでいろ。疲れてる。……お前にも、綺麗な花を摘んできてやるから」
「……ありがと」
……不器用なくせに、こういう優しい気遣いができるあたりがたまらなく心をくすぐる。そんな事を考えてわずかに頬を染めた
に背を向け、アサトは宿から飛び出した。
+++++ +++++
一眠りをし、心身ともに若干落ち着いた
は夕刻になって階下へ降りた。そろそろ夕食の手伝いに入ろうと思ったのだ。 アサトはまだ帰って来ていないようだ。どんな花を取ってきてくれるのだろう。 今日は穏やかな顔をしていた。しばらくは吉良の襲撃がなかったのだろうか。
そんな事を考えていると、待合室で突然青い炎が生まれて
は目を丸くした。現れた者を、唖然として出迎える。
「……あのね……いきなり炎が出たら、他の宿泊客がビックリするでしょうが。もっと目立たない登場はできないの?」
「――君か。……すまない、気がせいていたもので配慮が足りなかった」
現れたのは、悲哀の悪魔カルツだった。相変わらず憂いの漂う顔に、今日は幾分かの苦渋が混じっているような気がする。 現れたままの姿勢で考え込み、立ち去ろうとしないカルツを
はぼんやりと眺めた。その鼻を、何処かで嗅いだような花の香りがふわりと掠めていった。
「……親が、子供にあるかどうかも分からない希望を託すのは、エゴだと思うか」
「え?」
やがていい加減に行こうかと思い始めた頃、唐突に投げられた問い掛けに、
は目を見開いた。 親が……何だって? カルツの口から出たとは思えない質問に一瞬呆然としたが、
は気を取り直して口を開いた。
「その希望が叶わないと、子供はどうなるの?」
「その子を形作る全てが失われ、全く別の闇の存在へと変わり果てる」
「……それは――大変ね」
顔色も変えずに告げられた悲惨な未来に
は眉を寄せた。 カルツは、何の事を言っているのだろう。告げられた言葉は抽象的で、それが現実の事かどうかも分からない。だが
は必死に頭を働かせ、自分なりの答えを導き出した。
「私は親になった事がないからよく分からないけど……親だったら、そう願うのも仕方ないんじゃないの? つまりは生きてて欲しいって思ってるんでしょ。そう思うこと自体に罪はないと思うけど。……だけど、私だったらまずその親に、希望を託すよりも自分でやれる事をやれって言いたいわね。子供のためにやるだけやって、それでもどうしようもなかったら初めて願えばいい」
「やるだけ、やって……?」
「そうよ。格好いいこと言ったって、願うだけじゃ何も動かないもの。それこそ利己的だわ」
――
の父親も、
が幸せになる事を願っていた。口にされた訳ではないけれど、そう思われていた事くらいは
にも十分分かっていた。 けれど父親は同時に、
が自分の力で生きて将来を切り開けるよう鍛冶の技術を伝え、身を守るすべを叩き込んだ。だからこそ
は鳥唄から逃げ出しても、何とかここまでやってこれたのだ。
淡々と答えた
に、カルツはわずかに目を見開いた。不意にじっと見つめられ、
がうろたえる。……そんなにおかしな事を言っただろうか。
「……何?」
「いや……。君は、私の妻に似ているな。冷静で潔くて、馬鹿な雄を叱咤する」
「え? ……あなた、奥さんがいるの!?」
カルツの発言に
は目を瞬いた。……結婚しているとは思わなかった。そう顔に書いた
に、カルツは緩く首を振った。
「妻と呼べるよう事をしてやれた訳ではないが……いた。息子もいる。もう昔の話だが」
「……へえ……」
カルツは遠くを見るように目を細めた。……いた、という事はもう亡くなってしまったのだろうか。悪魔でもやはり死ぬ事があるのか。
はふと聞いてみたくなった。
「どんな悪魔だったの? ……あ、嫌じゃなかったらでいいんだけど」
「悪魔? ……違う、猫だ。褐色の肌をした気の強い猫だった」
「え……」
深く考えずに問い掛けた事への返答に、
は目を見開いた。 ――猫? 悪魔と猫は子を成せるのか…? それとも――
「――帰ってきたようだ。……少し喋りすぎたな。だが、答えを聞けて良かった」
思わず考え込んだ
の思考を遮るように、カルツは上方に視線を向けるとポツリと呟いた。そのまま青い炎を生み出し、姿を消していく。
「あ、ちょっ……」
「……君ならば……受け入れてくれるだろうか。あの子の変化を」
またもや意味深な発言を残して、悲哀の悪魔は消えてしまった。しばらくして、もしや自分も気が強いと言われただろうかと我に返った
に、答える者はなかった。
一方その少し前、アサトは黄昏の中を草木を蹴散らして宿へと向かっていた。 つい先ほどの、悲哀の悪魔の言葉が――頭にこびりついて離れない。
『間もなくお前は――魔に蝕まれた闇の姿へと変わり果てるだろう』
『生きてほしい。お前は……大切な息子だ』
『……どうか、乗り越えてくれ』
――どうしろと言うのだ。こんな真実を聞かされて、それでも生きろだなんて。
(どうすればいいんだ。……コノエ、
、教えてくれ。……助けてくれ――!)
……心に浮かぶのは、今もっとも胸を占める二匹の猫の姿だった。 吉良から連れ出してくれた猫。一緒にいてくれた猫。吉良の外を教えてくれた猫。笑ってくれた猫。 二匹に会いたかった。助けてほしかった。だけど、会うのが怖くもあった。
宿に辿り着く。窓から入り込もうとしたアサトは、ハッと我に返って屋根へと上った。座り込み、コツコツと屋根を爪で削る。 ……コノエと
に会う訳にはいかない。会って、どうしようというのだ。
(もう、側にいるべきじゃない。触れてはいけない。……近付かない)
藍閃の町並みを見下ろしながら、アサトは心に決めた。けれどそう誓った瞬間……心が、凍り付くように鋭く軋んだ。藍色に染まり始めた空から吹く風が、冷たく身体を冷やしていく。
からもコノエからも離れて……吉良の猫にも追われて、自分が生きる場所がどこにあると言うのだろう。 どこにも残されていない。探す時間もない。このまま獣になって、関係ない猫はもとより大事な猫すら傷付けるのなら――
『――もし、お前が大切なものを守りたいと思うのならば……自害しろ』
「……ッ……」
いつかの、冥戯の猫の言葉が――ふいに蘇った。ゴクリと喉がなる。 視線をゆっくりと手元に戻すと、使い慣れた自分の剣が鈍い輝きを放ち転がっていた。それは今のアサトにとって、唯一の希望の光のように思えた。
「……っ」
――大切ナモノヲ、守リタイナラバ……
喉がカラカラに渇く。アサトは衝動的に剣を手に取ると刃をかざし――己の喉に、押し付けた。
「な――ッにやってんのよ! アサト!!」
カルツの言葉を受けて屋根へと上がった
は、目前の光景に絶句した。アサトが喉に剣を当て、まさに首を掻き切ろうとしていたのだ。 目を開くよりも叫ぶよりも早く、
は屋根を蹴った。突進するようにアサトにぶつかり、その柄を掴む。
「!
!」
「なに考えてんのよ! やめなさい!!」
は叫ぶと力強く剣を引いた。だがアサトも固く握り締めたまま剣を離さない。
は渾身の力で、再び喉へ押し当てようとする力に抗った。
「
、手を離せ! 怪我したらどうする!」
「嫌よ! だったらアンタが引きなさい!」
叫び合い、揉み合う。雄猫の力に叶うべくもないが、手を離せる訳もなかった。 強く引き合っていると、刀身がぶれて
の腕を掠めた。鮮血が溢れ出す。わずかに息を呑んだアサトは、強く剣を引き戻した。
「やめろ! ……こうするのが一番いいんだ!」
「何言って――ッいい加減に……!!」
グ、と腹に力を溜めた
は、己の身が傾くのにも構わず全体重を掛けて腕を強く引いた。一瞬だけアサトの力に競り勝つ。それを逃さず、
は剣を奪うと遠くに放り投げた。カラカラと乾いた音を立てて剣が転がっていく。
ハッと目を見開いたアサトに間髪入れず、
はその横面を平手で叩き付けた。
「……っ、……ッ!! ――っ!」
……上手く言葉が出ない。ぽたぽたと血が垂れる腕もそのままに、
は大きく呼吸を繰り返した。 喉がせり上がる。声が詰まる。わずかに俯いた
は、激情に震える声で問い掛けた。
「なんで……なんで、こんな事するのよ……!!」
「……ッ……」
「自害なんて絶対に許さない! なんでこんな事するの!?」
初めての
の罵声に、頬をわずかに腫らしたアサトは目を見開いた。 雌猫は強く眉を寄せ、泣き出しそうな顔をしている。その腕からは、鮮やかな血がどんどん滴り落ちていった。――早く、止めなければ。
「
、手が……」
「手なんかどうだっていい!」
「良くない。お前の手は鍛冶をする大事な手だ」
「じゃあなんで傷付いたのかを考えなさいよ!」
「……ッ」
の声に、アサトは打たれたように黙り込んだ。視線を逸らし、耳を伏せる。
「……俺が、傷付けたからだ……」
苦しげに呟かれた声に、
は眉を寄せた。激昂を落ち着かせるように息を吐き出すと、
はアサトを覗き込んだ。
「そうじゃなくて…! アンタを止めたいからできた傷でしょう…? ――なんで、あんな事をしたのよ……」
視線を合わせると、アサトは逃げ場のない子供のように瞳を彷徨わせた。逡巡するように黙り込み、やがてポツリと口を開く。
「生きる時間が……残されていないと言われた。全て失う。全て傷付ける。お前も、コノエも……みんな。だからそうなる前に――」
「…………」
断片的な、アサトの言葉。その中から真実を拾い上げるのはひどく困難だ。けれどつまりは……アサトに何か変化があるという事なのだろうか。それを、誰かに告げられた――?
(……待って。前にコノエが同じ事を言われてたって言ってたわ。確か、大切なものを守りたいなら――)
「だから――自害、しようとしたのね……。私や、コノエを守るために……」
望まぬ記憶を探って言葉を継いだ
に、アサトはコクリと頷いた。それを見て、
は泣きたくなった。何故、こんな事にまで素直に従ってしまうのか。
「どうして、そんな事をハイハイと聞くのよ……。命を絶てだなんて……ッ」
「……もし、そうなれば……お前たちを傷付けると思った」
「そんなの…! だからって、それで目の前でアンタに死なれて私が喜ぶとでも思うの!? その方が安らげるって! そんな事、あるわけないじゃない……! 私は傷付くのなんか怖くない! アンタが死ぬ事の方が何倍も怖いのに……!」
アサトの言葉に、
はたまらず叫んだ。アサトが苦渋の表情を見せる。
はアサトを覗き込むと、必死に訴えた。
「勝手に私の気持ちを決めないで。その方がいいなんて、勝手に判断しないで。私はそんな事、これっぽっちも思ってない……! 誰もそんなの望んでない!」
「……っ」
「アンタが命を絶ったら、その瞬間に私の心も死ぬわ。アンタは私も殺すのよ。……自害なんて許さない。勝手に死ぬくらいなら……私を先に、殺していって。アンタの死体なんて見たくないのよ」
本音だった。もしアサトがどうしても命を絶ちたいと言うのなら、自分も共に死んでしまいたいと思った。 何故そこまで思い詰めてしまったのかは分からないし、コノエの事も中途半端なままで申し訳ないが、それでも目の前で大切な猫をみすみす死なせてまで、
は生き長らえたいとは思わなかった。
はアサトの両手を取ると、自分の首に押し当てた。アサトがビクリと震える。
「
……」
力を込めるように上から押さえ付けると、アサトは慌てて手を引いた。それを逃さず捕らえ、今度は頬に押し当てる。 両手で頬を包ませ、
はまっすぐにアサトを見据えた。迷いを示すように揺れる瞳を強く捉える。
「ちゃんと見てよ…! 私はここにいる。アンタの側にいる。傷付くのを恐れて、消えていなくなったりしない!」
「!」
「大切なのよ。生きていてほしいの…! ――アンタに何があろうと構わない、私はもう決めたから。だから、アンタも私を見てよ……!」
――視界が歪む。呼吸が上擦る。気を静めるように息を吐くと、情けないくらいに唇が震えた。 言いたい事は全て言った。
は不安に激しく脈打ちながらも、顔だけは平静にアサトを見据えていた。 青い瞳が、驚きに見開かれている。アサトは
の言葉を反復するように押し黙ると、やがて
を見上げた。
「お前や、コノエに出会わなければ……何も残さずに、消える事ができたのに」
「…ッ。――そう、したかったの……?」
押し殺すように、アサトが告げる。わずかに責めるような響きに
が哀しく返すと、アサトは緩く首を振った。
「本当は、死にたくなんてない。
と、ずっと一緒にいたい。でも……いつか傷付けて離れるのだとしたら……最初から出会わない方が、良かったのかもしれない」
「……アサト――」
恐れるように瞳を伏せてしまったアサトに、
は胸が締め付けられた。 ……この、不信。アサトが
をなかなか信じられないのは、きっと長い間、傷付き押し殺してきた心が怯えているからだ。求めても手に入らない。近付こうとしても、遠ざけられる。そんな過去がアサトの気持ちを後ろに向かせる。……不安なのだ。
はアサトの頬に手を添えて正面を向かせると、コツ、と額同士を合わせた。近すぎる距離は正直言って恥ずかしいが、アサトを離したくない。
は青い光を見つめ、口を開いた。
「出会わなければ良かったなんて、思わない。……私はアサトと会えて、良かったよ。アンタは私を大切にしてくれた。私を守ってくれたし、怒ってもくれたわね。……忘れてた事を、アンタは思い出させてくれたわ」
「
……」
「……アンタみたいな猫に、私はずっと会いたかった。出会えて嬉しかった。……アンタは違うの?」
静かに問い掛けると、アサトはわずかに首を振った。まるで泣き出しそうな瞳で
を見返し、口を開く。
「もし、俺が醜いものに変わっても……お前は側にいてくれるのか」
……醜いものとは、何だろう。
は一瞬思ったが、怯えるようなアサトの問い掛けの前ではもはや思考など無意味だった。アサトと自分に誓うように、瞳を閉じて静かに告げる。
「……いるよ、ずっと。何があっても離れない。……アサトと、一緒に生きたいの」
がゆっくりと瞳を開くと、アサトは泣きそうだった顔にようやく晴天のような笑みを浮かべた。
空は黄昏を経て、既に藍色へと変わっていた。まるでアサトの瞳のようだと、
は思った。
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