翌朝、
はいつも通りに起きていつも通りに朝食の支度をし、いつも通りに宿を出た。ただし、ひとりで。 何だか色々な事が起きすぎて、少しゆっくりと気を落ち着かせたかった。
は森に入って、あの四つの岩が集まる場所へでも行ってみようかと思った。――だが。
「あれ……。コノエ?」
森の入り口で挑むように木々を睨み付ける雄猫を見て、
は間抜けな声を上げたのだった。
雪の断章 火楼
「火楼に……」
「……ああ。大事なものを、忘れてきてしまったんだ。取りに行かないと」
思い詰めたような顔で語る猫……コノエは、今すぐにでも森に飛び込みそうな気配を漂わせていた。同行者は、いない。ひとりで向かうつもりだったのかと問うと、コノエは小さく頷いた。
「道は知ってるの? 火楼の方角は、かなり虚ろの被害が大きいはずだけど」
「…………。被害が大きい事は、知ってる」
「……つまり、道は知らないって事ね。それじゃ辿り着く前に死んじゃうわよ……」
ふいと視線を逸らして答えたコノエに、
は目を見開くと大きく溜息をついた。道も知らずに飛び込むなど、自殺行為も甚だしい。
は数秒に渡って逡巡すると、コノエを静かに見遣った。
「私も一緒に行くわ」
「え……。なんで、アンタが……」
「何が起こるかも分からないのに、ひとりで行くのは危ないわ。それにここで別れても気になるだろうから、一緒に行かせて。……お願い」
「…………」
は装備を背負い直すと、すたすたと森に足を踏み入れた。他の猫に告げていこうかという考えが一瞬頭に過ぎったが、そう長く掛かるものでもないし大丈夫だろう。
はそう思った。 コノエは戸惑いを露わにしていたが、やがてぎこちなく頷くと
の後を追ってきた。
虚ろの森を、二匹で黙々と歩く。
のすぐ後ろに続くコノエは、何か考え事をしているようだった。 生贄にされそうになって飛び出してきた村に戻るとなれば、思うところも多いのだろう。
も特に話し掛けずに、足元の枯れた草を慎重に辿って行った。
たち商いをする猫の間では、草の色が異なる……というか枯れている道を辿っていけば、魔物や虚ろの被害には合わない、という言い伝えがあった。事実、
もその道を通って藍閃までやってきた。 何らかの外的な力が働いている事は知っているが、一体いつ、誰がこんな道を作ったのだろう。
がそんな事をぼんやりと考えながら進んでいると、背後のコノエが「あ」と声を上げた。つられて
も視線を上げる。
「久し振り。元気だった?」
「アンタ――」
そこには、異形の白い少年……フィリが、いつかのように小首を傾げて立っていた。
「お前、いい加減に自分の正体が分かった?」
「……母親がリークスに殺されたって事だけは分かったわ。そりゃ顔も似てる訳だわ」
リークスはどこかと問い掛けたコノエを無視して、フィリは
に視線を向けてきた。嘲るように
を見下ろすが、その姿には何となく覇気がない。
は違和感に眉をひそめた。
「ふん。……でも、それだけじゃないみたいなんだよね。俺にもよく分からないけど」
ボソリと呟いたフィリが、苛立ったように爪を噛む。いつもの余裕がない姿に、
は告げられた言葉への困惑よりも、妙な胸騒ぎを覚えた。
「ちょっとアンタ――」
声を掛けようとした
を無視して、フィリがコノエに向き直る。微妙にふらつくフィリの足元に戸惑いながらも、
は二匹の会話を注意深く見守った。
結局何を意図して現れたのかがさっぱり分からないまま、フィリは唐突に消えていった。リークスの力が強まるほどに、失躯と虚ろの被害が酷くなるという情報だけを残して。 不吉な予言に急かされるように、二匹は火楼への路を急いだ。ムッとする森の匂いに包まれながら、
は思った。
先ほどの、フィリの言葉――。コノエとも詳しくは話さなかったが、リークスの力と被害が連動しているいう事は……まさかこの二つの現象は、自然に発生したものではないという事だろうか。 誰かに引き起こされた現象。そんな可能性が自然と浮かんできて、
は頬を強張らせた。
(もし、リークスが掛けたものだったら――)
虚ろはともかく、失躯の被害なら
も嫌というほど見てきた。身体のいたる所が欠け、無残な姿で生涯を閉じた父親。それをなす術もなく見つめていた時の恐怖を……忘れた訳ではない。
(絶対……許さない――)
スッと表情を凍らせ、
は暗い怒りを無言で押し殺した。
やがて火楼付近に辿り着いた二匹は、村の様子に違和感を感じて駆け出した。なぜか、生あるものの匂いがしないのだ。 余所者の
でさえそう思うのだから、コノエはもっと敏感に感じ取っているのだろう。走る横顔はひどく青ざめて見えた。
そして辿り着いた村へ足を踏み入れた
は、入り口で立ち止まったコノエの視線の先を追って――凍り付いた。
「何これ……虚ろ――?」
村じゅうが、毒々しいほどの色彩に侵されている。ただし一面ではなく、まだらに。 まるで境界線が引かれたように明暗を分ける景色は、鳥唄から藍閃までの道のりでも見掛けたものだ。しかしこれは……酷すぎる。
眉根を寄せた
は侵食された家の前でうずくまっている黒い塊を見つけ、目を見開いた。まさか、あれは――
「……ッ!!」
――失躯だ。耳と尾と足の欠けた無残な遺体が、そこには横たわっていた。
「あ……、あ…ッ……!」
父の……最期の姿が、目の前の光景と重なる。欠けた耳、足、死を待って怯える日々―― すうっと血の気が引いていく気配がする。カタカタと震えて口元を覆った
は、次の瞬間ハッと我に返った。コノエが固く目を閉じてよろめいたからだ。 ……そうだ。自分などよりも余程コノエの方が――。
「コノエ。……しっかりして」
はコノエに駆け寄ると、咄嗟にその震える肩を後ろから掴んだ。コノエがビクリと身を竦める。そのまま手を添えていると、やがてコノエは低く唸り声を上げ始めた。……まずい、我を失っている。
「コノエ! つらいのは分かるけど流されないで。……何をしに来たのか、思い出して。私たちにはやるべき事があるでしょう!」
少し強めに告げると、コノエはハッと息を吐き出した。ぎり、と歯を食い縛り、小さく口を開く。
「……家に、指輪を取りに行かないと」
「うん。……行きましょう。一緒に行くから」
肩を掴む力をわずかに強めて、
は頷いた。コノエがぎこちなく歩き出す。その背中を見守るように
も続くと、コノエは集落の奥へと進んでいった。やがて、一軒の家の前で立ち止まる。
コノエの家は、虚ろの被害には遭っていなかった。滅んだ村はしんと静まり返っている。その中でひとり佇むコノエの後姿は、ひどく寂しいもののように思えた。
コノエが家の中に入る。思い出の場所に踏み込む気にはなれず、
は外で待つ事にした。 ひとりでいると、先ほどの失躯の猛威を思い出して足元が崩れそうになった。
は慌てて瞳を閉じて視覚を遮断すると、無心にコノエが出てくるのを待った。
出てきたコノエを迎えた
は、すぐに藍閃へ戻る事を提案した。失躯に侵された村に留まる事は、
にとってもコノエにとっても苦しい事だったためだ。 素直に従ったコノエに先だって、
は森を進んだ。しかし結局夜になってしまい、その日は森で過ごす事になった。
――寒い。冷え込んできたとは思っていたが、夜の森は染み入るような寒気を二匹にもたらした。 木の根元に座り込んだ
は、ぶるりと震えてコートにくるまった。すると少し距離を置いて座ったコノエの尾が、
よりはるかに寒そうに震えているのに気が付いた。 ……寒いのはきっと、身体だけじゃない。
「寒くない?」
が問うと、コノエは首を振って否定した。けれど、尾はまだ震え続けている。 一体何に遠慮しているのかと
は思ったが、まあいい。……とりあえず、コノエは火が苦手だから――
「……私、寒いの。……隣に行っていい?」
「え……」
は強行手段に出ることにした。返事も聞かず、コノエに近寄るとその隣に腰を下ろす。身体の片側が密着して、温もりが伝わってきた。
「こうすると、あったかいから。……体温、分けて」
「…………」
が覗き込むと、コノエは息を詰めた後に頬をうっすらと染めた。けれど、立ち上がろうとはしない。 良かった、と
は思った。自分だって今日ばかりは平静ではいられないから、コノエがいてくれて本当に……良かった。
「それが、指輪……?」
「ああ。……記憶を、読めばいいんだと思う」
「……?」
やがてコノエは、懐から小さな袋を取り出した。現れた指輪を見た
が視線を向けると、コノエは自身の不思議な能力についてを
に初めて語った。 他者の感情がダイレクトに流れ込んでくる事、物に触れるとその物が持つ記憶を垣間見る事ができるという事――。想像の範疇を超えた能力を、コノエは有していると言う。
「……嫌じゃ、ないか。俺はアンタの感情も何度か感じ取った事があるし……。こんな能力、気持ち悪いだろ」
やがて全てを話し終えたコノエが、気遣うような視線を
に向けた。
は目を見開いたが、苦笑すると穏やかに告げた。
「……今更、でしょう。驚いたけど、確かに納得できる場面もあったし。……別にそうだと知ったからって、コノエを変に思うなんて事はないわ。能力があってもなくても変わらない」
「……そうか」
コノエは安堵するように小さく呟くと、指輪に触れて集中するように瞳を閉じた。
目を見開いて記憶を辿るのをやめたコノエは、見えた出来事を
に告げた。父親らしき猫が歌っていて、もしかしたら賛牙だったのではないかという事。それから……父親とリークスに関わりがあったのではないかという事。
父親がリークスと関わっていたかもしれないなんて嫌だ、とコノエは呟いて項垂れた。その姿に掛ける言葉が見つからず空を見上げていると、頭上からハラハラと白いものが舞い落ちてきて
は目を見開いた。
「コノエ……。雪が――」
終焉を告げるものの到来に、二匹は揃って呆然とした。 ――二つの月の歌の通りになった。もう……近いのか。
不吉な象徴のはずなのに、雪はそれでも磨耗した心を洗い流すように美しかった。
がぼんやりと夜空を見上げていると、不意にパタリと何かが落ちる音がした。顔を戻すと、またかすかな音を立てて雫が地面に落ちる。
がゆっくり見上げると……コノエが、声も上げずに涙を流していた。
「……ッ、ふ……ッ」
顔を歪めて、コノエは必死に堪えていたようだ。
が見ている事に気付くと、膝に顔を埋めてしまった。震える肩としゃくり上げる押し殺した声に、
は心を突き動かされた。
この、孤独で寂しい存在を――抱きしめたい。
はゆっくりと腕を伸ばすと、コノエの肩に触れた。少し力を入れて引き寄せると、コノエが息を詰めて身体を引こうとする。それを押し止め、
は震える耳に向けて囁いた。
「抱きしめさせて。……お願いだから」
「…………」
コノエがぴたりと動きを止める。抵抗の緩んだ身体を更に引いて、胸に頭を抱え込むと柔らかい髪に
は頬を押し当てた。 「……泣いて。ここなら誰も見てないから。私にも見えないから、全部……流して」
「……ッ、……う…ッ」
コノエが大きくしゃくり上げる。次の瞬間、手を伸ばしたコノエ
を強く掻き抱いた。
……雪と一緒に、コノエの胸に溜まったものが全て洗い流されればいい。
の胸に温かな雫が染みてくる。押し殺したコノエの嗚咽を、
は受け止め続けた。 コノエが泣き疲れて眠るまで、
はその頭を撫でるのをやめなかった。
翌朝、雪は既にやみ木々の間から陽の光が覗いた頃。
はうとうとと目を覚ました。 ……座っていたはずが、いつの間にか横になって眠ってしまったらしい。背中は冷たいが胸は温かい。なぜだろうと思って目を開いた
は、腕の中の温もりと重みを確認して小さく息を吐き出した。
――どうしよう。
はわずかに逡巡したが、気付いたからといって起こすのも忍びない。
やがて目覚めたコノエが顔を真っ赤に染めるまで、二匹は体温を共有し続けたのだった。
コノエルートへ
アサトルートへ
ライルートへ
バルドルートへ
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