陽の月の昇った森を、ふたりで歩く。前を行く の後姿を見ながら、コノエは寝起きの出来事を思い返していた。



   9、涙




 朝起きると、コノエは の上に乗ってその胸に顔を埋めていた。

「ゴゴゴメン! 俺、なんてトコで……!!」

「あーいいのいいの。私も寝ちゃってたし、気にしないで」

 そうカラリと笑った は、すたすたと藍閃に向けて歩き出した。迷いのないその足取りをコノエは追った。

 
 ――まさか、泣くとは思わなかった。
 火楼にいた時は何ともなかったのに、降りしきる雪を見ていたら……いつの間にか涙が溢れてきた。それに拍車を掛けたのが、優しい の言葉と温かな抱擁だった。

 ボロボロと涙が零れた。 にしがみ付き、散々に泣いた。
 どれだけ泣いたか分からないのは、途中で眠ってしまったからだろう。…… に抱きついたまま。

 心が弱ってたとはいえ、何という事をしたのだろう。コノエは真っ赤になったが、あれだけ色々晒してしまった今となっては弁解する方がむしろ恥ずかしい。何より はそんな事お構いなしに先に向かって進んでいる。
 コノエは大きく溜息をつくと、雪のうっすらと残る森を足早に進んだ。


 昨日、 がいてくれて良かったと――心の底から思った。










「何か、様子が変ね……」

 藍閃の街中に入ると、コノエと は揃って不穏な違和感を感じ取った。
 どことなくぎこちない街中の雰囲気は失躯が急速に現れ始めたせいだと悟り、二匹は戦慄した。本当に……最後の時が迫ってきているのだ。

 急いで宿に帰ると、屋根の上にいた悪魔たちに呼び止められて二匹はそのまま話を聞く事になった。リークスのいる方角が分かったというのだ。
 その言葉にコノエはすぐに飛び出して行こうとしたが、居場所が掴めた訳ではないので に止められた。

 共に休息が必要だと受付にいたバルドに諭され、ふたりはそれぞれの部屋に入った。扉が閉まる前に、 は『一眠りしたら私の部屋に来て』と言った。……何だろう。

 室内では、ライが静かに剣の手入れをしていた。無断外出して と火楼に言った事を伝えると、ライは『馬鹿猫どもが』と言ったきりむっすりと押し黙ってしまった。一応、心配してくれたらしい。
 コノエが寝台に潜り込むと、いつしか扉が開きライは外出してしまった。
 コノエはとろとろと、疲労した身体を抱えて眠りに落ちた。











 夕方、コノエは の部屋の扉を叩いた。……起きているだろうか。

「あ、よく休めた? 結構ぐっすり寝ちゃったよ」

「まあ、それなりに……。それで、何か用か?」

  はすぐに顔を出した。コノエを部屋に招き、別々の寝台に腰掛ける。向かい合うように座り、コノエは訳もなく緊張してきた。
 ここは…… の部屋なのだ。自分の好きな猫が、今の今まで安らいでいた部屋。そんな場所の寝台で雄と雌が一対一で向き合って、何も感じるなと言う方が無理だった。
 だけど、 は何かを言おうとしている。わずかに硬いその表情を見て、コノエは気を引き締めた。


「これの、記憶を……見てほしいの」

「え……」

 スッと が差し出したのは、愛用している直刃の剣だった。鞘から抜くとよく手入れされた刀身が露わになる。
 コノエは意外な思いで、真剣な表情で自分を見る を見つめた。

「これ……アンタの母さんが、使ってた剣だったよな……」

「うん……。ゴメン、コノエにとっては嫌な能力かもしれないけど……どうしても、母がどうやってどんな気持ちで命を落としたのかを知りたくて――」

「…………」

 リークスに、殺されたという母親。亡くなる直前にあの呪術師にこの剣を託したという。
 そんな重要な剣の記憶を自分が読んでしまっていいのだろうか。コノエが見上げると、 はまっすぐな瞳で頷いた。
  から剣を受け取ると、コノエは目を閉じてその刀身に触れた。





 緩やかな圧迫感と共に、ぼんやりと映像が流れ始める。


 ――どこかの、部屋の中。金髪の雄猫がこの剣を持ち上げ、隣にいた雌猫に渡した。
 嬉しそうに笑うその雌猫は―― ? ……違う、髪が赤い。だが によく似た顔の猫が、剣を嬉しげに覗き込んだ。


 映像は唐突に切り替わる。
 今度は明るかった。先ほどの赤い雌が、腕に抱いた赤ん坊を揺らしている。歌を歌っているようだ。

 我が子に向ける慈しみと愛おしさが伝わってくる。腕の中の子供は、金の髪と緑の目をしていた。
 すると、扉がふいに開いた。入ってきた猫は――歌うたい……? 彼と同じような髪の色をした猫が訪れてきた。


 また、記憶は切り替わる。今度は哀しみの感情に満ちていた。
 暗い……洞窟だろうか。黒い布を纏った猫が後ろを向いて立っている。……この映像にはひどく既視感がある。あれはリークスだ。
 剣の持ち主が、何かを叫んでいる。糾弾しているのではなかった。ただ必死に、リークスに何かを聞いている。だがリークスは片手を上げると、何かを呟くように口を動かした。

(……!)


 映像が乱れる。次に映った景色は、今までよりもひどく乱れていた。持ち主の感情も変動が激しく、コノエまで酔ってしまいそうだ。

 暗い家の前に、誰かが佇んでいる。さっきの金の雄と少し成長したけれどまだまだ小さい……雌の子供だ。
 眠ってしまって父親に抱かれた子猫を、雌猫が抱き上げる。その時ばかりは雌猫の感情も、切ないほどの哀しさと愛しさに満ちていてコノエは胸が詰まりそうになった。

 ――離れたくない。死にたくない。けれど、行かなければ。
 そんな悲愴な決意を抱き、雌猫は一度だけ頬擦りをすると子供を父親に返した。そのまま踵を返すと、暗い森へと走り始める。


 ……最後の映像では、もう剣の持ち主は雌猫ではなくなっていた。
 暗い洞窟の中で――ああ、ここは呪術師の祠だ――金の雄に、剣が手渡される。雄猫は剣を握り締めて泣き崩れた。その隣では小さな金の子猫が…… が、不思議そうに父親をなだめていた。





「…………」

 ゆっくりと目を開ける。何度か頭を振って瞬きすると、いつの間にか隣に来ていた が心配そうに覗き込んできた。

「大丈夫? ……どうだった?」

 ――迷う。今見たものを に話すべきかどうか、コノエは迷った。母親の身を切るような決断を、その剣にまつわる悲しい記憶の連鎖を知って、 は落ち込まないだろうか。

 けれど、あの想いを感じてしまった後で知らないフリをするのは、 にとって決して幸せな事ではないとも感じた。あの母親の想いを……最愛の娘に向けた想いを、今伝えてやれるのは自分しかいないのだ。

 コノエは に向き直ると、今見た全てを静かに語った。





「……母が……」

 全てを語り終えると、 は手元の剣に視線を落として黙り込んだ。
 ……ショックでない訳がないだろう。直接関わりのないコノエでさえ、胸に迫る記憶だったのだから。
 だけど、何とかして を励ましたい。硬くなった空気を和らげるようにコノエは小さく笑うと、 を覗き込んだ。

「アンタの母さん、本当にアンタにそっくりだ。赤い髪で綺麗な猫だった」

「私、と……」

「……それから、小さなアンタも見たよ。可愛かった。お母さんの膝に抱かれてあやされてた。……幸せだ、大切だってアンタの母さん思ってた」

「……っ」

 ポツリと、磨かれた剣の上に雫が落ちた。驚いて見上げると―― が静かに涙を流していた。


「アンタ……」

「……ッ」

 ポタポタと、次々に頬を伝った涙が顎から落ちていく。コノエが声を掛けると、 は唇を震わせた後にとうとう顔を覆ってしまった。

「……っそんな、コト――父さん一度も……ッ!」

 吐き出すように、 が小さく叫ぶ。震える声は、今の記憶がもたらした衝撃の大きさを物語っていた。

「ただ、出て行って死んだとしか……聞いてなかったのに……っ」

 嗚咽が漏れる。コノエは唐突に、ある一つの可能性に思い至った。


「もしかして……ずっと、憎んでたのか……?」

「ちが……! でも――ずっと、引っ掛かって……捨てられたのかと思って…ッ! じゅ、呪術師に聞いて少しホッとしたけど、全然記憶なんてないし……っ」

「……っ」

 コノエは驚いた。まさか の中に――こんな根強い母親への不信があったとは。
 父親が多くを語らなかったのは何故だろう。……きっとリークスに関わって死んだ事を知っていたから、不必要な関心を持たせようとしなかったのだろう。それか、父親自身が辛すぎて語るのを拒んだためか。

 どちらにせよ、正しい情報を与えられずに育った の中での母親像は、歪んだとは言わないまでも多くのしこりを残してしまったらしい。
 コノエも父親の記憶がないが、母が語ってくれたおかげで好意的な印象を抱き、大事な存在である事には違いない。ここが とは違う。

 父親が良かれと思ってした事が、本来ならば良好だったはずの心象にヒビを入れてしまった。
 ……だけど。真実の気持ちを伝えてやらなければ の母親も、きっと悲しいだろう。


 コノエは震える の肩にそっと手を置くと、温もりを伝えた。昨日 がしてくれたようにはいかないけれど……どうにかして、この猫の支えになりたい。

「アンタの母さん……アンタの事も、アンタの父さんの事もすごく愛してたよ。捨てられただなんて絶対にない。アンタ、ちゃんと愛されてたんだよ」

「……ッ、う……っ」

 想いを込めて告げると―― は身体を起こし、コノエの胸に抱きついた。



「……!」

 胸に顔を埋めた の姿に、コノエは息を呑んだ。 は背に腕を回し、きつくコノエに縋ってくる。
 あの無礼な鳥唄の雄猫に会った時よりも、抱擁は深く激しい。顎の下で嗚咽が漏れる。初めて見る雌猫の涙は哀しくて切なくて、そして綺麗だった。

 感情の自制をあえて解いてみる。すると、おそらく長い間押し込められていたのだろう愛しさが、 の心をゆるゆると伝っていくのが感じられた。母親へと真っ直ぐに向かう――想い。



 どうすれば元気付けられるかなんて……もう、分かりきっている。
 コノエは の背に手を回すと、震える雌猫をそっと抱き締めた。



 












BACK.TOP.NEXT.