カガミ湖での誓いから二晩明けて、ライは藍閃の街中を苛々と歩き回っていた。
 仕事の情報を求めていたのもあるが、出歩いた一番の理由はあの馬鹿猫どもを探しに行くためであった。




      11、理由




 一昨日、洞窟で に「殺す」と宣言された時――心が解き放たれたような気がした。

 顔を歪めた雌猫は、今にも泣き出しそうな表情をしていた。だが瞳を強く見据えて、ライが最も求めた約束を紡いだのだ。震える腕と、唇で。
 掴んだ手の意外なほどの小ささと震えに、重責を背負わせてしまったと思う気持ちがない訳ではない。だが……安堵した。心の底から。


 しかしその夜にフラウドが現れ、『同じ魂の持ち主』…などと煽られて、差し迫る限界への実感と憎しみがますます湧いてくるのを感じ取った。
 その苛立ちに拍車を掛けたのが、コノエと が揃って一晩帰ってこないという、常からすれば些細な出来事だった。

 昨日、別々に宿を出て行った事は分かっている。だがどちらも帰ってこない。
 共にいるのかどうかも分からない。この緊迫した時に無断で出歩く呑気さにも苛立つが、あの二匹だと他の猫に絡まれて……という不穏な事態も十分に考えられる。

 見つけ出したら――ただでは置かないと、ライは思った。








 その頃、 とコノエはちょうど藍閃の街中に入ったところだった。
 どことなくぎこちない街中の雰囲気は失躯が急速に現れ始めたせいだと悟り、二匹は戦慄した。本当に、最後の時が迫ってきているのだ。
 宿に急ごうと足を踏み出した二匹を、その時「おい」と呼び止める声があった。……ライだ。


「……この、馬鹿猫どもが!! 何処へ行っていた!」

「いッ……!」

「……たぁッ!!」


 振り返りがしら駆け寄ってきたライに、二匹はいきなり拳骨で頭を叩かれた。
 無論手加減はしているのだろうが、かなり痛い。 は涙目になると突然の暴挙に牙を剥いた。

「いきなり何すんのよ……!」

「当然だ。馬鹿猫どもが。……こんな切羽詰った時に、無断で出歩く馬鹿がどこにいる! もし『最後の時』とやらよりも早く、リークスが攻撃してきたらどうするつもりだった。……二匹揃って容易く殺されるのが目に見えている。よく考えて行動しろ!!」

「……ッ」

 真剣な表情で怒鳴り付けたライに、 は目を見開いた。……ライの言う通りだ。だが押し殺された剣幕に驚き、すぐに謝罪の言葉が出てこない。そんな に、コノエが助け舟を出した。

「ライ……。 は、俺を心配して火楼まで一緒に来てくれたんだ。だから、あまり……」

「火楼だと? 何故今さら故郷に……」

「それは――」


 謝るタイミングを逸した の横で、コノエは火楼へ向かった理由とその顛末をライに語った。
 ライは眉をひそめて無言で聞いていたが、やがてコノエの話が終わるとさっさと踵を返した。コノエが慌てて呼び掛ける。

「ライ……!」

「帰るぞ。さっさとしろ」

 振り返りもせずに告げたライに二匹は顔を見合わせ、その背中を追って駆け出した。












 数時間後、自室で休息を取った は部屋を抜け出した。ライに会うためだ。

 あの後、宿に戻った三匹は屋根の上にいた悪魔たちに出迎えられた。
 リークスのいる方角が分かったという悪魔の言葉に、コノエはすぐに飛び出して行こうとした。だが居場所が掴めた訳ではないので、ライがそれを押し止めた。

 寒空の下で野宿をした事もあり、疲労の溜まっていた二匹は無理やりに休息を促された。それにしぶしぶ従ったら、もう陽暮れも近い時間になってしまった。


 ……結局、 はまだ無断で外出し、心配を掛けた事をライに謝れていない。もうライの中では済んだ事として片付けられてしまったかもしれないが、 の中ではモヤモヤとした罪悪感が残っていた。

 一言告げてこようとライの部屋の扉を叩いたが、ライは外出しているようだった。隣室のコノエに聞くと、街外れの空き地に向かったらしい。
  が出掛けようとすると、受付に座っていたバルドに呼び止められた。


「ああ、帰ってきたんだな。……ライに搾られただろう」
 
「ええまあ……。今から謝りに行くところ」

  が苦笑すると、バルドは眉を下げて同情するような笑みを浮かべた。 がライに関わる事を、責めてはいないようだ。ならば……。
  は思い切って、バルドに疑問をぶつけてみる事にした。


「ねえ……。前に、ライの『悪いクセ』の話をしたじゃない。あれが……ね、段々酷くなってきている気がするの。……アンタはあの原因が、何だか知ってる?」

「…………」

  が問い掛けると、バルドは渋い顔をして黙り込んだ。今日もまた、はぐらかされてしまうだろうか。
  がじっと見つめると、バルドは溜息をついて重い口を開いた。……今日は答えてくれるらしい。だがその内容に、 は目を見開いた。


 ――ライの両親が殺されるよりも、前の話。
 ライの両親は、ライに対して非常に厳しくあたっていたらしい。それにライは従順に従っていたとバルドは言う。……子供らしい態度を押し殺して。

 そんな姿を不憫に思ったバルドはライを構い、いつしか狩りに連れ出した。そこで――ライが獲物に頬擦りしているところを、目撃してしまった。

 ただ狩りの時にだけ、安らいだ笑みを浮かべるライ――。それをバルドは、温もりを求めていたからではないかと語った。



「…………」

 壮絶な過去に は相槌も打たずに沈黙した。項垂れた に、バルドが小さく声を掛ける。

「あいつの心には、何か欠けた所があるんだろうな。心の底で望んでも、与えられなかったものが沢山あった。それがあるべき場所は、今でもポッカリと空いたままだ。……感情を理解できないんじゃない。ただ、教えて貰えなかっただけなんだ。それが育つよりも早く、あいつは大人になっちまった」

「…………」
 
 思い当たる節が、いくつもある。バルドの指摘は確かだ。伊達に幼少を見てきた訳ではない。
 だけど――

「あいつの側にいるってのは、あの狂気を何度も目の当たりにするって事だ。……それでもあんたは、あいつの側にいるか?」

 憂慮を滲ませて問い掛けたバルドに、 は顔を上げるとゆっくりと頷いた。たとえ過去を聞いたとしても、狂気に晒されたとしても……決意を揺らがせるつもりはなかった。
 強い意思を宿した瞳に、バルドはわずかな笑みを浮かべた。


「じゃ、さっさと行くしかないだろ。……もう、何を言っても聞かないんだろ?」

「……うん」


  は頷くと、宿を飛び出した。走り去る背中にバルドは小さく呟いた。――ありがとな、と。









 夕暮れの街中を、 は郊外に向けて走った。息を切らせて空き地に辿り着くと、雄猫が銀髪をたなびかせて無心に剣を振るっていた。
 既視感のあるその光景に、 は目を閉じて口を開いた。

「――なんだか随分久し振りに、ここに来た気がするわ。……そんなに前の事じゃないのに」

「……っ」

 ライが振り向く。 はゆっくりと歩み寄るとその隣に立った。顔を上げて視線を合わせる。


「……昼間は、ごめんなさい。勝手に出て行って悪かったわ。……反省してる」

「…………。もういい。とうに忘れていた」

「うん、そうかなとは思ったんだけど……やっぱり、ちゃんと伝えたくて」

  が告げると、ライは押し黙って正面を向いた。 も顔を戻し、ライと同じ方向を見る。
 さわさわと風が吹き抜けていく。ライの銀髪と の金髪を揺らし、 が何気なく髪をかき上げた頃。ライが、ぽつりと問い掛けてきた。



「……コノエの事が、心配だったか。だから共に行ったのか」

「え? ええ、まあそうね」

「……お前があいつを案じるのは、『絆』だと思うか」

「……?」

 唐突に投げられた質問に、 はわずかに目を見開いた。これは……あの日の問答の続きだろうか。 は一旦押し黙ってから、ゆっくりと口を開いた。

「そうね……。でも一方通行の想いなら、ちょっと違うんじゃないかと思う。誰かを想って、相手にも想われて初めて『絆』って言うのかもしれないわね」

「そうか。だが、俺にはそれが良く分からない。絆、温もり…そういうものを、感じ取れた事がない」

「え……」

 目を眇めて遠くを見るライの瞳は、淡々と冷えていた。 が見つめる先で、ライは静かに両親の死についてを語った。

 以前にバルドが話した過去に、ライの心情が加わる。だがそれで分かったのは「何も感じることがなかった。ただ動かなくなったと思った」という異常に平坦なライの心の静けさだった。
 感情と呼べるほど揺らぎがある訳でもない。……虚ろだと は思った。ライの、欠けて育たなかった心が垣間見えるようだ。



「血の繋がりに絆はあるのか? 賛牙と闘牙の間には……? ……俺には分からない。お前は、本当にそんなものがあると断言できるか」

「…………」

  に視線を向けて、ライが問い掛ける。 はわずかに首を傾けると、ライを静かに見つめた。

「……そういう関係だからと言って、必ずしも絆が生まれるとは思わないわ。でも逆に、家族とかつがいとか、そういう形に当てはめなくても……元々何の繋がりがなくっても、絆が生まれる事もある。私はそう思う。……形がなくても、ちゃんと存在しているわ。――こんな風に」

「…………」

 ――とん、と はライの肩口に額を押し当てた。
 ライの気配が強張るが、 を押し退けようとはしなかった。 はそっと額を擦ると、瞳を閉じて呟いた。


「今、アンタがこうするのを許してくれるのも、絆だわ。無防備な私を受け入れてくれてる。それに……私がアンタを殺すって言って、アンタが受け入れてくれたのも……普通の姿ではないかもしれないけど、絆だって…私は思った」

「……今この瞬間に、俺が狂気に囚われてお前の喉を引き裂いたとしてもか」

 ライが搾り出すように問い掛ける。 は肩口から顔を上げると、至近距離でライを見つめた。

「関係ないわ。アンタがどう行動しようと、私が感じた想いは変わらない」


 ――ライが、絆を感じるかどうかは分からない。そう思う感覚があるかどうかすら分からない。それは、ライ自身の問題だから。
 けれど、自分が感じた想いを知ってほしかった。絆はここにあると、伝えたかった。



「……そうか」

 やがてライは目を閉じ、ただ一言だけ呟いた。その横顔は思いのほか安らいでいるように見えて、 も目を閉じると隣で風を受けた。



 







 陽も暮れた頃、二匹は連れ立って宿へ戻った。階段を上がり、ライが扉に手を掛ける。そのまま足を踏み入れたライが扉を閉める瞬間、 は扉の内側へと滑り込んだ。


「お前……!」

 バタン、と扉が閉まる。それにもたれ掛かると、 は眉を寄せたライに向かって告げた。

「……もう少しだけ、側にいたいの。……ここでいいから」

 別にやましい気持ちはなかった。ただ、もう少しだけ話をして……いや、しなくてもいい。その存在を感じていたいとふと思っただけだ。だがライは顔を背けると、間髪いれずに答えた。 

「駄目だ。帰れ」

「何でよ」

「分からないのか。……いつ来ても、おかしくはないんだぞ」

 逸らされた顔に苦渋が浮かんでいる。 は目を見開くと、静かに問い掛けた。

「……また、来てるの?」

「いや……さっき、空き地で波が来たからしばらくは平気と思うが……」

「だったら……」

 不満の声を上げた を制するように、ライがすっと腕を上げる。手を の首元に伸ばすと、ライは一昨日噛み付いた傷をそっと押した。

「う…っ」

「……まだ、痛むか」

 そりゃ痛い。 がわずかに顔を歪めると、ライは指を離して握り込んだ。再び俯き、視線を逸らしてしまう。


「……お前を、二度も傷付けた。その首を絞めたのも、噛み付いたのも……俺が躊躇なくやった事だろう。……このまま側にいれば、またお前を――」

「……だったら何? そうなるかもしれないから離れろって、また言うの?」

 ライの言葉に、 はわずかな怒りをもたげた。……まだ言うのか。自分はとっくに覚悟を決めているのに。
 
「……言ったでしょ、アンタを止めるのは私の役目だって。そんなに簡単には殺されない。死ぬならアンタも一緒に連れて行く。約束したでしょ……?」

「お前がそこまでする必要はない。……それにどう足掻いても、俺はいずれ消えねばならん存在だ」

「そんなの……!」

「聞け」

 投げやりな言葉に顔を上げた を、ライが制する。ライは眼帯に手をやると、己の狂気についてを……壮絶な、血に彩られた真実を、初めて語った。




 ライの衝動は、なるべくしてなったとライは言う。狩りに行って血肉に頬擦りした時、初めて温もりを感じた、満たされたと思ったと、ライは毒を吐くように語った。

 これは――きっと、誰も聞いた事がないライの心の深淵だ。それを今ライは、苦しみながらも吐き出している。 は真剣な表情で、話の続きを促した。

 刹羅を飛び出してから、あの魔物との対決があってライは右目を失った。獲物の血肉だけで満たされていた心は、それから次第に狂気へと変わってきている、とライは告げた。



「俺が最も憎むのは、あいつじゃない。……俺自身だ。血肉に安らぎを見出してしまった浅ましい己の狂気を、俺は憎んでいる。いっそこの手で、断ち切りたいと願うほどに」

「…………」

 全てを語ったライを見上げ、 は呆然と目を見開いた。まさか……こんな葛藤が、己への嫌悪が、この怜悧な姿の下に隠されているとは思いもしなかった。
 手探りで探っていたライの真実が、今やっとはっきりとした形を持って目の前に現れたと は思った。


「……ッ……」

 ふいに、喉元に熱いものがせり上がってくる。……これは、何。
  は咄嗟にこらえると、歯を強く食い縛った。荒れ狂う感情を、息を吐いて落ち着かせる。
 顔を上げると、わずかに震える唇を動かして は静かに言葉を紡ぎ始めた。

「……前に、襲われた時……私、言ったわよね。アンタが来てくれて……本当に良かったって。それは、助けてくれたからだけじゃないわ。頼りにして、信頼して……一番来て欲しかったアンタに会えて……嬉しかった。顔を見るだけでホッとした」

「…………」

 ライが怪訝に眉を寄せる。急に何を、というところだろう。 は構わず話を続けた。

「あの時だけじゃないわ。初めて会った時も、おぶってもらった時も、フラウドに襲われた時も……ずっと、助けられてる。……身体だけじゃない。アンタは心も守ってくれたわ。温もりを与えてくれた」


 ともすれば冷え切ってしまいそうな の心と身体を、ライはさりげなく支えてくれた。温もりをくれた。……それは表立って庇うような、優しい姿ではなかったかもしれない。けれどそんな事は も望んでいなかった。

 雌として、ではなく対等の猫として扱ってもらったような気がする。
 馬鹿と怒鳴られた。阿呆と罵られた。だけど雌だから帰れとか付いてくるなとか言われた事は、一度もなかったように思う。
 それに が雌である事を利用しようともしなかった。そんな事は初めてだったから、 は驚いた。

 今まで側にいる事を許し、そして命を絶つ事すらも許してくれた。……これが、絆でなくて何だと言うのだ。
  は呆然と押し黙っているライの腕を引き、その手を頬に押し当てた。


「お前……」

「……アンタにとって温かいものは、本当に血肉だけなの?」

「何……?」

 ライが眉を寄せる。 はライの手の上に自分の手を重ねると、目を閉じた。少し体温の低い手のひらに、頬擦りをする。

「ねぇ、感じる? ……私は、温かいでしょう……?」

 薄く目を開いて見つめると、ライは戸惑うような顔をしていた。途方に暮れているとも言える。
 手を押し当てたまま、 は再び口を開いた。

「この温かさを、アンタにも感じて欲しいの。分けたいの。……ずっと、側で」

「……!」

 ライが目を見開く。 はもう一度目を閉じると、ライを真っ直ぐに見上げた。 

「アンタのつがいはコノエだって言ったけど、いつかこの闘いが終わったら、その時は私を……アンタの、賛牙にしてほしい」

「何……」

「でも本当は……賛牙とか闘牙なんて関係ない。命を絶つためでもなくて……ただ、一緒にいたいだけなの……」


 ――これが、真実。狂気を断ち切るとか、共に闘うとか、大義名分は後でいい。
 本当の気持ちはとてもシンプルだ。浅はかで、感情的で……でもとても強い、願い。




 ライは打たれたように押し黙っていた。しばらく待ってみても、反応が得られない。落胆を胸に が頬に当てていた手を離そうとした、その時。
 ライは反対側の腕を勢いよく扉につき、 を囲いこんだ。

「……!」

「……何故、そんなことが言える」

「え……」

 扉とライに閉じ込められるような姿勢は、あの忠告を受けた日と同じだ。
  は一瞬目を見開いたが、今日は目を逸らさない。苦渋を滲ませて問い掛けたライを、 は強く真っ直ぐに見つめた。

「理由もなく、何故俺と一緒にいたいなどと言える。身が危険かもしれないと分かっていて、何故」

 責めるようなライの視線を受けて、 は静かに口を開いた。


「……理由が必要なの?」

「分からない。……ただ、誰かの側にいるには理由が必要だとずっと思っていた。理由なき共存など有り得ない。……だからその理屈でいくと、俺がお前の側にいてもいい理由がどこにも見つからなかった。だが――」

 迷いを示すようにライは口をつぐんだが、結局心情を吐露するように続きを口にした。

「……お前を離したくはないと、思った。他の猫に触れさせたくない。お前を傷付けるかもしれなくとも」

「……ッ」


 息を呑む。薄青に見つめられた の顔に、血が上った。今頃になって至近距離にいる事を実感して、急速に心拍が上がっていく。――ライが、自分を離したくない……?
 でも自惚れてはいけない。掠れる声で、 は一番に考えついた『理由』を問うた。


「それ、は……私が賛牙だからじゃなくて?」

「……違う。お前の言ったように、お前が賛牙だという事は理由にはならないと思う。能力としてはコノエの方が上だし、正直……そんな事は忘れていた」

「…………」

「これは……何なんだ……」

 苦渋に満ちたライの声が落ちて、 は胸が締め付けられるような感覚に襲われた。


 ――この猫は。
 すべての行動や心情に理由がつかなければ安心できないこの猫は――

 なんて不器用で拙くて……愛おしいのだろう。



  は下げていた片腕を持ち上げると、ライの頬にそっと添えた。扉についた手を離し、ライが戸惑ったように腕を下げる。
 そのまま顔を見上げると、途方に暮れたような薄い色の瞳が を映した。


「分からないなら……私が教えてあげる。理由なんてなくたって、側にいられることを」

 ライの瞳が見開かれる。そこから目を逸らさずに、 は続けた。

「……私とアンタが望むなら、私は離れていかない。アンタの側にいる。……いいえ、いさせて欲しいの。ライ」


 戸惑いに揺れる瞳を覗き込むと、 はライを引き寄せ――背伸びをして、静かに口付けた。






 しばらく静止して唇を離すと、ライは固まっていた。構わず は再び口付ける。
 唇から、頬、顎、喉……。肩、髪、額――届くところすべてにキスを降らせていった。
 
 この温かさを、感じて欲しかった。
 理由などなくとも無償に与えられる温もりを、知って欲しかった。
 こんな他愛無い口付けに震える、仔猫のようなこの猫に――



 やがて唇は、布に隠された目元に辿り着いた。ライは無意識に身じろいだが、抵抗はしない。
 その静かな受容に甘え、頭の後ろで眼帯を解く。軽い衣擦れの後に古い傷が晒された。

 ライが顔を背けようと身じろぐ。それをそっと制し、肉の盛り上がった傷跡を瞼に焼き付けると は静かにそこへ唇を押し当てた。

 ……静かな時間。想いのたけを込めて触れていると、薄い皮膚からは確かに脈動と温もりが伝わってきた。傷付いても、闇が育ちつつあっても……確かにそこは温かかった。


 銀の髪を引き寄せると、 は胸元でライの頭をかき抱いた。 を見下ろしていたライが、抵抗なく身体を預けてくる。
 ライの重みが胸元にかかる。それは、ひどく愛おしいものだった。


「ずっと……触りたかったの……。アンタの根幹にあるものが分からなくて、でも触れたくて――。やっと分かった。やっと、アンタに触れられた……!」

 震える声で が告げると、ライは胸元から顔を上げた。薄青と傷跡の下で失われた二つの瞳が、かすかに揺れて を見つめる。
 大きな手が頬を包み、親指が目元をなぞった瞬間―― は自分が涙を流していたことを知った。

 いつ流れたのだろう。気付かなかった。爆発的なものではなく、ただ何かに押し流されるように は涙を零した。


「共に、いてくれるのか」

「うん……」

「俺が、もし闘牙でなくなっても……狂気に呑まれても、側にいると言うのか」

「うん…ッ……」

 ライの問い掛けに はこくこくと答える。喉が詰まって、上手く言葉を紡ぐ事ができなかった。

「泣くな」

「……っ、ア……」

「……泣くな……」


 ライの顔がぼやける。きっと困った顔をしているだろうに、雫を拭い取る指が優しくて温かくて、 はますます泣けてきた。強張った心が、溶けて溢れる。

 ……まずい、ものすごい顔になってるに違いない。自制したいのに止まらない熱に、 は俯くと低く唸ってしゃくり上げた。その涙を、ライはただ黙って拭い続けた。








 しかしやがて熱が収まってきた頃、それまで神妙な面持ちで を見下ろしていたライはぼそりと呟いた。――「酷い顔だぞ」と。
 その言葉に、 は恥ずかしいのも忘れて思わず顔を上げてしまった。

「わざわざ言わなくっても分かってるわよ……! ……うっ、ひど…ッ!」

「阿呆猫丸出しだな。ほら、顔を拭け」

「あっ、阿呆猫は余計よッ! だって、し、仕方ないじゃないッ。すぐに止まるモノじゃ……」

 ガシガシと腕で の顔を擦るライに、 は先程「ライってちょっと可愛いかもしれない」などと感じたことを後悔した。擦られる痛みに抗議しようと顔を上げた、次の瞬間。




「……そうだな。だから、こんな顔を見るのは俺だけでいい」

「ん…ッ!」

 思わず真剣な表情に目を奪われ―― はライに深く口付けられた。














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