藍閃への道程を進みながら、 は昨日のフィリの出現について想いを巡らせていた。
 フィリは に掛けられた暗示については、特に触れてこなかった。フィリも知らないという事か。気まぐれのように仕掛けられた悪趣味な術に、 は改めて眉を寄せた。





    9、共に負う痛み





「何か、様子が変ね……」

 藍閃の街中に入ると、 とコノエは揃って不穏な違和感を感じ取った。
 どことなくぎこちない街中の雰囲気は失躯が急速に現れ始めたせいだと悟り、二匹は戦慄した。本当に……最後の時が迫ってきているのだ。

 急いで宿に帰り着いた二匹は、その時ちょうど表に出てきたバルドに出くわした。いつもとは服装が違う。すると、バルドは大きく目を見開いた。


「あんたら、一体何処へ行っていた――!」

「……お。やっと帰ってきたのかチビ猫ども」

 だがバルドの声は、頭上から降ってきたヴェルグの言葉に遮られた。どちらに顔を向けるべきか戸惑う たちには構わず、ヴェルグは「リークスの居場所が分かった」と告げると宿の裏手への移動を命じた。




 リークスのいる方角が分かったという悪魔の言葉に、コノエはすぐに飛び出して行こうとした。だが居場所が掴めた訳ではないので、バルドはそれを押し止めた。
 宿に入り、釈然としない様子のコノエをどうにか説き伏せて休息を促すと、 は待合室に立ったバルドを振り返った。


「バル……、――っ」

 パシリ、と軽い音がして頬に衝撃が走った。ぶたれたのだ。痛みはないが、驚愕に目を見開いた は頬を押さえてバルドを見上げた。

「こんな時に、黙って何処へ行っていた……! 残された奴らの気持ちも少し考えろ…っ」

「…………」

 押し殺した呻き声に、 は息を詰めた。……怒っている。けれどそれ以上に、バルドが二匹を心から案じていた事が伝わってきて、 は俯くと黙り込んだ。

「……ごめんな、さい……」

 尾と耳が力なく下がる。 が呟くと、バルドは大きく溜息をついた。


「……もういいから、あんたも休め。……叩いて悪かったな」

 穏やかな声に が顔を上げると、バルドはいつも通りの手付きで の頬をそっとさすった。






 


  は果実水を貰ってから休む事にした。厨房に入り、バルドに手渡される。甘い汁を舐めながら、 は簡単に火楼での出来事を話した。


「村を滅茶苦茶にして……許せない……」

 空になった器を抱えて低く話を締めた に、バルドは探るような視線を向けてきた。 

「あんたも、リークスを追うのを諦めないのか」

「? ……ええ」

 それは勿論だ。この世界が滅びるのを防ぎたいとか大それた事は思わないが、取り合えず身近な猫が苦しんでいるのは放っておけない。コノエの呪いも解きたいし、自分の呪いも解きたい。そしてこのバルドに向かう不可解な術からも、何とかして逃れたかった。

「アンタはやっぱり、無駄な事だって思う……?」

 だが、バルドはどう思うのだろう。やはり気持ちは変わってないのだろうか。逆に問い掛けた に、バルドはしばらく逡巡すると「分からん」と答えた。リークスを強大と思うのは変わらないが、そう思う限り自分は駄目なままなのではないか、と。

 今までには見られなかったバルドの変化に、 は目を見開いた。……向き合い始めているのだろうか。言葉が、届いているのだろうか。

  の器を受け取ったバルドは、ふと の顔を覗き込んできた。疲労に段々瞼が重くなってきた は胡乱にその顔を見上げた。

「……何?」

「いや……。一つ聞いてみたくてな。あんたはなんで、俺に付き合おうとするんだ?」

「……?」

 唐突に問われて、 は首を傾げた。これは……この前ライにも聞かれた質問だ。

「なんでって……放っておけないから、かな……」

「俺を? ……ライじゃなくてか?」

「? ……なんでそこでライが出てくるの?」

 バルドの言葉に、 はますます首を傾げた。バルドも困惑したように を見つめてくる。しかし眠い。

「ライの事が気になるから、俺に何かと聞いてくるのかと……」

「…………。アンタねぇ……、今まで私の何を見て聞いてきたのよ……。これだけアンタに構ってるのに、どうしてそう思えるの」

 呆れたように見遣ると、バルドは目を丸くした。 がふあ、とあくびをする。そろそろ限界だ。

「あんた、ライの事が好きなんじゃないのか」

「違う。私が好きなのはライじゃなくてアンタよ。アンタが自分の事を弱いとかどーしようもないとか思っていようと、関係ない。私はそんな風には思わないから。……力の強い弱いなんてどうでもいい。アンタは十分強いと思うわ。私はそんなアンタが好き」

「…………」

 早口に告げた の言葉に、バルドは息を詰めた。だが は再びあくびをすると首を振った。

「……あー眠い。もう無理。悪いけど行くわ、果実水ありがと」

「お、おい……」

 ぼそぼそと呟くと、 はふらふらと厨房を出て行った。扉に一度ゴンとぶつかる。……どれだけ眠かったんだ。
 空の器と共に残されたバルドは、呆然と の消えた扉を見遣った。



 おそらく夢うつつなのだろうが……さりげなく想いを告げられたような気がする。しかし――

「色気のねぇ告白だな、おい……」

 あくび混じりで好意を告げられたのは初めてだ。バルドは苦笑すると、がりがりと頭を掻いた。











 食事もパスして眠っていた は、喉の渇きを覚えて目覚めた。階下に降りると、静まり返った厨房の中は夕食の後片付けが少しもなされていない。
 バルドは何をしているのだろう。 は手早く片付けを済ませると、バルドの私室をノックした。



「どうしたの? ……また、手首が痛むの?」

 バルドは部屋の中にいた。寝台に座り込み、右手首を握り締めている。 は扉をくぐると入り口で問い掛けた。
 ……ここ何度かで気付いた。バルドに触れなければ、おそらく術は発動しないという事を。

 バルドはわずかに笑むと首を振った。だが、考え込むようにじっと視線を落とす。 は少しバルドに近付くと、虎縞の耳を見下ろした。


「……ライは、まだ戻ってないか」

「え? ……ああ、出掛けてるみたいね。いつからいないの?」

「昨日からだ。どうって事はないはずなのに……何だか、胸騒ぎがしてな」

 呟いたバルドは意気消沈しているようだ。 を見上げるが、その瞳はどこか遠くを見ているようだった。


「もう、戻ってこないような気がするんだ。遠くに行って二度と会えないような。……考えすぎだろうが」

「…………」

 バルドの言葉に、 は声を失った。何も告げずに行ったしまったライ。何でもない事なのかもしれないが――確かに、胸に引っ掛かるものがある。
 ……バルドはきっと、後悔しているのだろう。ライに何も言えず、関係がこじれたままで別れてしまった事を。


「アンタもやっぱり行くんだよな。もし居場所が分かったのなら、リークスを倒しに」

  に視線を戻したバルドが問い掛ける。まるで「行くな」と告げるようなその視線に押されながらも、 は唇を引き結ぶと頷いた。

「……ええ。力になれるかどうかは分からないけど……私の問題でもあるもの」

「……命を落とすかもしれなくても?」

「それは最悪の仮定だけど……それでも、行かないと」

 繰り返した に、バルドは眉を寄せて目を閉じた。何かを堪えるような表情には苦渋が強く浮かんでいる。バルドは目を開くと、 を見据えた。


「あんた前に、俺が苦しんでるのを見て苦しむ猫が猫がいるって言ったよな。俺は全然分かってないって。……俺はその言葉を、今あんたに返したいよ。もしあんたが死んだとしたら…俺も死にたくなる」

「……!」

「そう思う猫がいるって事を、あんた達こそ考えろ。あんたもコノエも……アイツも」

 見上げた瞳はハッとするほど真剣だった。言葉に詰まった が口を開こうとすると、バルドがそれを遮った。


「俺は、後悔している。俺が逃げて諦めて捻じ曲げたせいで……俺もライもこんなになっちまった事を。偉そうな事を言ったって、結局ライの事を何も分かってやれてなかったんだな。……今頃気付いたよ」

「…………」

「一昨日あんたに言われてからな……ずっと考えてたんだ。あの時ライに、どうしてやれば良かったんだろう。ライは何を望んでいたんだろう……って。そんな事を今更知っても仕方ないが、それでも分からないんだ。正体のない強さを追い求めて、復讐の念と諦めに隠されて、真実が見えなくなっていた。俺はアイツに、あの時何をしてやれたんだ――?」


 激情を押し殺すようにバルドが顔を背ける。呟いた声は震えていた。拳を握るバルドを、 は呆然と見下ろした。
 一瞬泣いているのかと思った。けれど、バルドは涙を流してはいなかった。雄の矜持だろうか。その代わり、泣くよりも深い悲嘆と後悔がバルドの中に渦巻いているのを ははっきりと感じ取った。



 何をできたか、なんて が分かるはずもない。二匹の間の深い事情もその一部をバルドとライの口から聞いただけだし、偉そうに説教できる立場でもない。だけど――

(少しだけ、なら……)

  はバルドに近付くと、その前に立った。そして寝台に腰掛けるバルドの頭を……ゆるく抱き寄せた。


「……っ」

 バルドが息を呑む。 は虎縞の耳をそっと撫でると、小さく口を開いた。

「……こうすれば、良かったんじゃない? ……復讐なんて必要なかった。そんな事よりもただ抱き締めて、愛情を注いで、本当の温もりを教えてあげれば――今のアンタ達は、少し違っていたのかもしれない」

  の言葉にバルドが息を吐き出す。抱かれるまま目を開くと、バルドは に問い掛けた。


「……そんな事で、良かったのか……?」

「……ええ。でもなかなか難しい事だわ。――だけど、きっとまだ遅くはないわよ。私もコノエもライも、死にに行く訳じゃないのよ? 生きるために闘うだけだわ。そしたらちゃんと帰ってくる。だから……まだ、遅くない」

「生きるために……闘う」

 繰り返したバルドに は頷くと、腕に少しだけ力を込めた。


「アイツがあんなに噛み付いたのは、アンタを強く意識してるからでしょ。無関心よりもずっと濃い感情だわ。アンタの態度と言葉は……きっと届く」

 バルドが目を見張る。 の言葉を噛み締めるように唇を動かすと、バルドは溜息をついた。
 そして、身体を預けるように に抱きつく。 はその重みを黙って受け止めた。



「そうか……。ま、噛み付いた理由はそれだけじゃないとは思うけどな……」

「?」

 わずかに声音を上げて苦笑したバルドに、 は首を傾げた。

「……今のあいつを抱き締めたりなんかしたら、即斬り殺されそうだ。関係を改善する前に天国へ送られる」

 呟いたバルドに、 は目を見張ると「……それもそうね」と苦笑した。


「伝えたいなら――生きて。そうじゃないと……許さないから」

 軽く睨み付けた に、バルドは肩を竦めて答えたのだった。











 バルドを抱き締めていた は、腕にわずかな痺れを感じて顔を上げた。
 ……また、来るのか。そろそろ離れなければ。そう思った はバルドの腕から離れようとしたが、バルドは の腰にしがみついたまま放そうとしてくれない。わずかに焦った は、バルドの腕を掴んだ。


「バルド。……放して」

「嫌だ」


(……、ロセ……)


「…っ、ちょっと――。お願い、放して」

「嫌だ、放さない」

「バルド! お願いだから離れて! じゃないと私――! あ…ッ!!」


(――殺せ……!)


 ――ドン、と鈍い衝撃がして の頭に呪詛が放たれた。頭を打ち付けるように「殺せ」とただ一言だけが意識を支配する。わなわなと震える両手を見て、 は叫んだ。


「や……だ、嫌だぁッ!! バルド、逃げてよっ!!」

…!? ――うッ!」

  の異変にバルドが眉を寄せた瞬間、素早く の腕がバルドの首を捉えた。この前のようにゆっくりとした締め付けではない。明らかな殺意を持って動く指に、 は慄然とした。


「やだ、やめてよ…ッ!! イヤだ、殺したくない!! 離れなさいよ……!」

「……ぐッ……! は…… ――」

「バルド!! あ……ッ、離れてよっ!!」


 首を振る。寝台を蹴飛ばす。腕以外は自由に動くのに、どうして指だけが動かないの。
 バルドの顔が歪む。苦しげに眉をひそめる。その顔を見て、 は激しく祈った。
 ――やめてくれ。こんな事をするぐらいなら、いっそ自分が死にたい……!


「バル――、ッ!」

 だがその瞬間、 の指に手を掛けたバルドは力任せにそれを引き剥がした。拘束から逃れ、素早く立ち上がる。無防備になった に、バルドは素早く口付けた。

「落ち着け。……






「……!」

  の腕が力を失う。それを見届けたバルドは、再び寝台に腰を下ろした。呆然とする を見上げると、わずかに咳き込んだ後に苦笑を浮かべた。


「……ほら。ビックリして術も解けちまっただろ」

「……ッ、あ……!」

 その笑顔を見て…… はズキリと胸が痛んだ。咄嗟に後ろに退こうとすると、バルドに腰を掴まれて阻まれた。退路を塞がれた は、こらえきれずに顔を覆った。


「ごめん! バルド、ごめん――!!」

 罪悪感が胸を灼く。リークスの呪いは強力だ。 が抗ったところで、それを嘲笑うようにまた発動してしまった。
 ボロボロと涙が溢れ出す。顔を覆った指の間を通り抜け、それはバルドの頬へと落ちていった。流れる雫をそのまま受け止め、バルドは に問い掛けた。


「いいよ。……それより、いつからだ。前はこんな症状なかったよな」

「……! ――リ、リークスが……この痣と、一緒に……」

「リークスにそう言われたのか」

「ちが……。ヴェルグが、一番殺したくない猫を…殺す暗示を、掛けられてるって……」

 しゃくり上げた は、切れ切れにもう一つの術の事を語った。涙が止まらない。
 何故よりによって、バルドなのだ。一番殺したくない猫を……一番大切な猫を、殺せだなんて。 に死ねと言っているようなものだ。バルドを――これ以上巻き込みたくない。



「ちっ……。エグい事しやがるな……」

 バルドが憎々しげに呟いても、 は顔を上げられなかった。もう一度その手から逃れるように、身体を引く。

「私が、触らなければ……こんな事にはならなかったのよ。ゴメン、バルド……。もう触れないから、放して――」

「嫌だ」

「バルド……! また来るかもしれないのよ!? やめてよ!」


 先ほどと同じような遣り取りに は叫んだ。だがもがけどもバルドの腕はしっかりと を捕らえて、放してはくれない。

「放したらあんた逃げるだろう……! もう見ないふりで誰かを黙って行かせるのなんざ、俺は嫌なんだよ!」

「! ……私は平気よっ!」

 バルドはぱっと腰から手を離すと、逃げようとする の腕を掴んだ。泣き顔が露わになる。 の顔を睨み付けるように、バルドは叫んだ。


「二度と繰り返したくないと願った! ここであんたを見放せば、俺はまた情けない自分に逆戻りだ。向き合えと言ったのはあんただろう。変われると言ったのもあんただろう…!? ――言えよ。今どう思ってるのか。あんたひとりで、そんなモン抱え込めんのか!?」

「ッ! ――できるわよ。アンタに触れなければこんな術、なんて事ない……!」

「嘘付くなよ。平気って顔じゃないだろうが。……あんた、俺の傷や苦しさを背負うって言ってくれたよな。でもあんたはどうなんだ? いつもいつも笑顔で強がってたって、分かるんだよ…! あんたの悩みや苦しみは、誰にも分け合えないのか。俺には打ち明けられる資格もないのか…!?」

「……っ」

 怒鳴り返した にも怯まず、バルドは畳み掛けるように問い掛けた。 が唇を噛む。顔を背けると、またボロッと涙が溢れてきた。それをこらえるように俯くと、 は震える唇を押し開いた。



「……怖い……!」


 押し殺したわずかな声に、バルドが目を見開く。 はバルドを見ないまま、言葉を重ねた。

「怖い…! このまま側にいれば、いつかアンタを殺してしまう……!!」

 吐き出すように叫ぶと、 はこらえきれずに嗚咽を漏らした。


 ……どうして、手を放してくれないの。このままだと居心地の良さに、またその腕に縋ってしまう。
 そんな事をするぐらいなら死んでしまいたいのに――バルドの手を振り払うこともできない自分の弱さに、 はますます泣いた。




「……苦しかったな」

「ちが……。――ッ!」

 穏やかな響きに顔を上げた瞬間、 は腕を引っ張られた。立ち上がったバルドに抱き寄せられる。身体を強張らせて逃げようとした の頭を、バルドは優しく引き戻した。


「俺の身体を、心配してくれたのか」

「……当たり、前……ッ」

「そうか。でも大丈夫……大丈夫だ。そんなに簡単に殺されやしないさ。あんたの力くらいは何とか振り払える。……怖がるこたぁ、ないんだよ」

 ポンポンと、 をなだめるようにバルドが頭を撫でる。優しい仕草に はまた涙が浮かぶのを感じた。だがこれは嘆きの涙ではない。これは……安堵だ。荒れ狂う の心が徐々に鎮まっていく。――だけど。


「それでも術が、治まらなかったら……?」

「そんときゃそん時だ。あんたほど度胸もないし心も広くないが、それくらいなら何度でも受け止められる。そう言える程度には……あんたは俺を変えてみせた」

「……っ」

 囁かれた言葉に、 は顔を上げた。滲む視界でバルドが眉を下げ、笑っている。バルドは穏やかな琥珀色の瞳で を覗き込むと、静かに口を開いた。


「一緒に背負わせてくれるか…? 俺にも、あんたの抱えてるモンを」








  は涙に歪む顔で必死に笑みを浮かべると、バルドに強くしがみ付いた。 

 
 
 










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