「おいおい。あんた、なにヘバってんだよ」

「――? あ、バルド……」



 
  
1、書庫の秘め事





 あれから数分、 は図書館の扉にもたれて迫る不快感に必死に耐えていた。目が回り、呼吸が上擦る。しばらく休んでから帰ろうと腰を下ろしたはいいが、そのまま立てなくなってしまった。
 聞こえてきた足音にも気付いていたが、身を隠そうという気力すら湧いてこない。 がぼんやりとその音に目を向けていると、道の向こうから見知った虎猫が近付いてきた。



「書き置きは見たが、本当に外に出てるとはな。……ったく、迎えに来て良かったよ」

「……え。迎えに来てくれたの……?」

 座り込んだまま見上げた が、目を見開く。バルドはがしがしと首の裏を掻くと、 に向かってその大きな手を差し出した。

「そうだよ。あんただって今日がなんの日か分からない訳じゃないだろう。ホラ、とっとと戻るぞ」

「なんの日って――あッ!」

 差し出された手を思わず掴んだ は、次の瞬間電流のような刺激を感じて手を引いた。呆然としてバルドを見上げると、バルドも目を見開いて を見下ろしていた。

「やっぱりな……。あんたも、なのか」

「……なに、が……」

 バルドの戸惑いを含んだ視線を受け、 は口を開いた。だがある可能性が頭の隅で不意に閃き、 は目を見開くと小さく息を呑み込んだ。
 ――まさか。

「とにかく、早く帰るぞ。――立てるな?」

 今度は に触れず、バルドが視線で問い掛けてくる。 は動揺を押し殺すように頷くと、立ち上がって歩き出そうとした。
 しかし数歩進んだところで眩暈を感じて足がもつれる。 は壁に手を付くとたまらず頭を振った。歩けるが、とても宿まで持ちそうにない。

「――チッ。仕方ない、少し休んでいくか。……とりあえずここは目立つから中に入ろう」

 舌打ちをしたバルドが再び の手を取った。細かな痺れが腕から身体に向かって走る。
 その手に引かれるまま、 は再度図書館の扉をくぐった。






 バルドに連れて来られたのは、館内でも奥まった所にある小さな部屋だった。
 大きなテーブルの上には古い書物が積まれている。本の修繕か何かをする場所なのだろうか。古い紙の匂いと篭った空気が混じり合い、独特な香りを持つ部屋だった。

 テーブルの上に座らされ、 は片手をつくと荒い息を吐き出した。バルドに会ってから、特に眩暈が酷くなってきたようだ。
  の様子を眺めていたバルドが、しんとした空気を震わせて声を掛けてくる。

「あんた、朝から調子悪かったんじゃないか? ……なんでそんなになってるか、分かるよな」

「……発情、期…?」

 バルドの問いに、 は頭に思い浮かんだ単語を口にした。
 だけど、そんなはずはない。そう思った の願いも虚しく、バルドはゆっくりと頷くと溜息をついた。

「分かってるなら、なんで外になんか出るんだ。まさか初めてじゃないだろ? どんな危険があるか知っているはずだ」

「そりゃそうだけど――だって、いつもと全然違う。発情期だなんて、気付かなかった……」


 発情期なら経験した事はある。しかしそれは少々体調を崩す程度の軽いもので、家の中にいればすぐに収まっていた。少なくとも、今までは。
  はそう弁明して頭を振ったが、今度はうっすらとした吐き気を感じて口を覆った。

「辛そうだな。……じゃあ今までとは違うって意味は、分かるか?」

 小さく問い掛けたバルドが に近付く。テーブルの前に立たれて、 はほぼ同じ高さにある金の目を胡乱に見上げた。熱に浮かされたように頷くと、 は口を開いた。

「相性がいい猫がそばにいれば、強く発情し合うって……」

「そうだ。あんたは発情期。そして俺も――そうだ」

「――ッ」

 伸ばされたバルドの手が、 の頬に触れる。またもやビリッとした刺激を感じて、 は顔を背けた。触れられた頬から熱が広がっていき、バルドの顔をまともに見られない。

「衝動を解消しなければ、期間中ずっとこのままだ。あんたも俺も、苦しいまま。――言ってる意味、分かるよな?」

「…………」

 分かる。それは分かるが――答えられない。
 身を竦める に小さく笑い掛けると、バルドはその耳の縁を優しくなぞって声を和らげた。

「そんなに深く考える必要はない。あんたも俺も、楽になるだけだ」

 重ねて言われるが、 はまだ頷けない。だが身体の中では急速に広がっていく不快感と、何かを期待し始めた心がせめぎ合っている。触れられた頬から与えられる刺激に呼応して、心音までせり上がってきた。その苦しさに は固く目を瞑った。

「それとも、このまま帰るか? アイツらに会って、あんた平静でいられるか?」

「――ッ」

 その言葉に は弾かれたように顔を上げるとバルドを見上げた。正面から見つめた瞳は を追い詰めようとするものではなく、むしろ を慈しむように細められている。
 その眼差しに は心の底で安堵と、そして隠しようのない期待が湧き上がるのをはっきりと感じた。

「そんなのは苦しいだろ。俺なら楽にしてやれる。……俺に、預けろ」

「…………、うん――」

 予想外に真摯な態度のバルドから目が逸らせず、 は小さく息を吐くと縋るように頷いた。
 バルドなら、後ろめたさを感じさせず楽にしてくれる――少しでもそんな事を考えた卑怯な自分を、 は深く嫌悪した。






 頷いた の顎を引き寄せると、バルドはゆっくりと唇を重ねてきた。
 ――衝動を散らすのに、そんな事は必要ないはず。 は頭の隅でふと思ったが、逃げようにも力が湧いてこない。そのまま口付けを受け止めると は薄く唇を開いた。

 表面を啄ばむようになぞっていたバルドが、探るような視線を向ける。 が自らその舌をバルドの唇に沿わせると、熱い塊が の口内へと侵入してきた。

「――ん、……ふ…、はぁっ……」

「……っ……」


 ――どうせ熱を散らすなら、何も考えられなくなるくらいに溺れてしまいたい。

  が深く舌を絡めると、バルドはゆっくりとその背を押し倒した。
 うごめく舌は、さすがに巧みだ。 の唇をなぞるように舐めたかと思うと、今度は荒々しく舌の根を探る。息苦しさを感じて喉を仰のけると、二匹の唇は糸を伝わせて静かに離れた。

 濡れた唇に、互いの吐息がかかる。至近距離にあるその金の目を見上げると、バルドはにやりと口端を吊り上げた。

「あんた、随分とキスが上手だな」

「は……?」

 室内の薄暗い光を受けたその顔を見つめ、 は高まってきた衝動も忘れてぽかんと目を見開いた。やがて何を言われているかを理解すると、 の顔が赤く染まった。

「――ッ! ア、アンタにだけは言われたくない……っ」

 おそらく色事に長けているだろう猫に感心したように言われても、からかわれているようにしか感じられない。というかまったく嬉しくない。
 急に現実に引き戻され、 は羞恥を感じて身体を捻った。バルドの視線から逃れるようにうつ伏せになり、顔を背ける。

「正直な感想を言っただけだろうが」

「――ッ、黙りなさいよ……」 

 そのまま丸まろうとした の背を、バルドがやんわりと抱きすくめた。軽く引きずり下ろされて、足が床に着く。バルドはテーブルとの隙間に手を入れて の腰を抱くと、片手でその髪を掬い上げた。

「ん…っ」

 露わになったうなじにバルドが口付けを落とす。思わず敏感な場所に触れられて、 は身じろぎすると尾を緩く振った。

「……大丈夫だ。心配しなくても痕なんて残さないさ」

 小さく囁いたバルドが舌を行き来させる。「誰がそんなこと言ったのよ」――そう言おうとした も、濡れた感触を追ううちにそんな事はどうでも良くなってしまった。

 舌を沿わせたまま、バルドの手が上着の裾から侵入してくる。抗議しようにも口を開けば恥ずかしい声が漏れそうで、 は小さく口を噤むほかなかった。
 裾を割って、大きな手が の腹に触れる。そのままたくし上げられそうになり は慌てて上着を掴んだ。

 ――恥ずかしい。緩く首を振ると、バルドは服を離した。だが腹を這うように添えられた手は、やがて上方へと移動を始めてきた。

「……ふ、んん……」

 緩く巻かれた布を解いて、温かな手が乳房に触れる。衣服の下で包み込まれるように手中に収められ、 はもう少しで悲鳴を上げそうになった。
 探るように動く指が、先端を摘まむ。ツンと立ち上がったそこを中心にゆっくりと揉みしだかれると、ひとりでに尾が逆立って震えた。

「……声、殺すなよ。どうせ誰も聞いちゃいない。そんなにしてたら辛いだろ」

 ――誰が聞いていないだ。他でもないバルドが聞いている。 はそう思った。
 バルドがいちいち喋るせいで、羞恥がいつまで経っても消えない。だから声なんて上げたくない。
 わずかに熱を滲ませたバルドの声に が首を振ると、溜息をついたバルドが逆の手を今度は下衣に差し込んできた。

「ったく、強情だな。……悪いがこっちは下ろすぞ。汚れるからな」

「え――、あ!」

 腰紐を解いたバルドが の下衣を落とす。ゆっくりと下着も下げられると、脚の付け根にヒヤリとしたものを感じた。
 ――濡れている。

 バルドの手のひらが の膝に触れる。くすぐるように太腿を撫でられ、 の口から押し殺せない吐息が漏れた。
 焦らすように往復した手がようやくその中心に触れたとき、 は歯を食い縛って爪をテーブルに立てた。爪の先が何か硬いものに触れる。

「ん…ッ! ――?」

「おいおい、なにもそこまでする事ないだろ。――お?」


 顔を上げた二匹の視線の先に、ある物が転がっている。それは持ち手の部分が羽で出来ているペンだった。台座から外れた古風な物体に が状況も忘れて目を丸くしていると、後ろから伸びてきた手がそれを拾い上げた。

「これ……なんだと思う?」

「なにって……ペンでしょ……」

  の目の前に羽がかざされる。不穏な色を含んだ声音に が注意深く答えると、バルドが背後で含み笑いをする気配を感じた。

「当たり。――でも、違う」

「な――あっ!?」

  が目を見開いた直後、ふわふわとした羽の先端が の頬に触れた。顎のラインを辿って喉へ、くすぐるように羽が下りていく。

「なに、考えてんのよ……! やめ…ッ」

「なにって、ナニだろ。……ようやく声出したな。元気なのが一番だって」

 恐ろしい事に、羽が触れるそばからゾクゾクとした悪寒にも似た快感が湧いてくる。その乱れた行為に が毛を逆立てて抵抗すると、バルドはしゃあしゃあと笑い、ついでふっと湿った吐息を漏らした。

「馬鹿言ってんじゃないわよ! や、変態……ッ! 信じられない!」

「おいおい、そこまで言うかよ。ひっでぇなあ。……なら、言われた通りにしてやるよ」

「は――ちょ、やだぁッ!」

 顎から手を離すと、バルドは次に下肢へと羽を向けてきた。触れるか触れないかの距離を保って羽が の肌に触れる。

「……分かるか? もう、ぐちゃぐちゃだぞ」

  を煽るようにわざと淫猥な言葉を吐きながら、バルドはその手を動かしていく。敏感な内腿から、臀部へ。尻尾の毛を撫でるように触れたかと思うと、今度は腰へ。
 その手が付け根に及びそうになり、 はバルドの手を押さえると頭を振って懇願した。


「も、いや…ッ、……やだぁ……」

 嫌だった。バルドの行為が、ではない。決定的には満たされないまま、身の内に溜まっていく快楽が苦しい。
 感じすぎて、頭がおかしくなりそうだ。早く、早く早く早く……楽にしてほしかった。

「……悪かったよ。ちょっとふざけ過ぎたな」

  の心中を知ってか知らずか、幾分か神妙な声音でバルドが呟く。羽による耐え難い責め苦が終わった事に が息をついた、その時。ペンを置いたバルドが の中心へと指を伸ばしてきた。

「――ッ! や、あ! ――なに…ッ」

 節張った指が、つぷりと中へ埋め込まれる。柔らかな内部を異物に掻き回されて、 の腰に震えが走った。

「ああ、やっぱりスゴイな。……熱くなってるの、分かるだろ?」

「なに言って――ンッ!」

 熱く吐息をついたバルドが指を抜く。わずかな衣擦れがした直後、くたりとした の尾が持ち上げられた。潤みに何か熱いものが宛がわれ、 はとっさに背後を振り返った。


「待って! ――い、挿れるの……?」

「はぁ? そりゃ、ここまで来たら挿れんだろ」

 怪訝そうに眉をひそめたバルドが答える。 はバルドの顔を見つめると、その動きを視線で制した。

「でも――発情期、なのよ?」

「? ……ああ、そういう事か。中で出さなきゃ大丈夫だろ」

「ッ……」

 バルドの言葉に は息を詰める。たしかにバルドの言う通りだ。発情期でも最後までしなければ妊娠のリスクはまずないだろうし、何より衝動を鎮めるのにはそれが一番手っ取り早い。だが――

「…………、分かったよ。…ったく、めんどくせーヤツ」

 目を見開いて固まってしまった に、バルドがやれやれと息をつく。動けない の腰をぐっと引き寄せると、バルドは再びその熱を に宛がった。

「ちょ――あ……!」

「少しもどかしいが、コレで我慢してくれ」

 苦しげに息をついたバルドが耳元で囁く。 は固く身を竦めたが、バルドの熱が の中に埋まる事はなかった。
 自身の熱を掴んだバルドが、それを の潤みに擦り付ける。交わるよりもなお恥ずかしい倒錯的な行為に は一瞬呆然としたが、やがて頬を真っ赤に染めた。

「や、だ……うあッ! や…あ、あぁ…ッ!」

「……っく……!」

 身を振り逃げようとした を、バルドの腕が強く引き戻す。その弾みで張り出した部分が の芽を擦り、 は強烈な快感に高く喘いだ。

「あ、アッ……やだ、やだ……ッ! ふ、あ……」

 滑りを纏った熱が、 の快楽を暴力的に引き出していく。互いを濡らす潤みは、どちらのものなのかもう分からない。
 混ざり、擦られ、快楽に落とされないよう は必死にテーブルに縋った。

「あ、あ……、――ッ!」


 震える の指に、積まれた本が触れた。その感触に自分たちがこんな場所で何をしているかを思い知らされて はハッと息を呑んだが、今となってはそれは快感を高める要因にしかなり得なかった。
 ありえない場所で、ありえない事をしている。それは背徳であり同時に快楽だった。

「ア……ッ、や――!」

「……っ! う、あ……っ」

 やがて声を上げて が背筋をしならせると、バルドは息をつめて身を引いた。
 小さく呻き声を上げて荒く息を吐く。床に何かが零れる音がして、バルドも達したのだと は悟った。

「ふ……あ――……」

「……っ……。――はぁ……」

 頭の芯を余韻が焼いていく。テーブルにぐったりと伏せた は、腰から力が抜けて不意に膝を折った。それをバルドにがしりと受け止められ、 はテーブルの上に身体を横たえた。





「…………」

 力の入らない腕で、なんとか衣服を整える。同じように身を整えたバルドが、やや疲れたような視線を に向けてきた。

「……あんた、大丈夫か」

「大丈夫……だけど、よくもやってくれたわねアンタ――!」

 テーブルの上に はのろのろと身体を起こす。忌々しい羽ペンを睨み付けると、次に虎猫を睨み上げて掠れ声で叫んだ。
 先程から続いていた頭痛と眩暈は綺麗になくなっていた。だがそんな事よりも、今はこれを言わねば気が済まない。

「目に付いたからつい、な。――でも、良かっただろ? またやろうな」

「!! ――しないッ! ひとりでやってなさいよこのエロ猫!」

 ニッと笑った親父猫を見上げ、 は顔を真っ赤に染めると足音も荒く書庫を出た。
 床に散った欲の名残と、わずかにふらついた自分の身体はこの際無視することにした。 
 







「信っじられない!! エロ猫! 助平猫! オヤジ!」

 暗い書架の間を、 は思いつく限りの罵詈雑言を挙げて歩いていく。走るのはまだ無理だった。
 必要以上に喚くのは、何かしていないと先程の情景を思い出してしまって堪らない気分になるからだ。

 安心して委ねられるなんて、少しでも思った自分が間違っていた。あのオヤジが何かしない訳はなかったのだ。
 だがそれよりも呆れるのは、あっという間に理性を飛ばしてはしたなく快感に溺れた自分の痴態以外の何物でもなかった。


「あ〜〜もう、あーもう! ――えっ?」

 頭を抱えた は、ふいに目の前を横切った謎の物体に目を見開いた。影のようなそれは、床に着地して素早くこちらを振り返った。

「なに――」

 トカゲかと思ったが、違う。それは実態を持たない存在で、だが爛々とした赤い目を に向けてきた。
 突然の異形のものの出現に の身が竦む。体の疲労もあり、襲い掛かってきたトカゲを見てもとっさに逃げる事が出来なかった。

「――何やってるんだ! 逃げろ!」

 その時、立ち竦む の腰を誰かが強く引き寄せた。――バルドだ。
  が足をもつれさせると、バルドは の手を強引に引いて書架の間を駆け始めた。
 たがしかし、牙を剥いた(ように見える)トカゲが追ってくる。二匹との距離が縮まり、バルドは を乱暴に書棚の間に押し付けると押し殺した声で叫んだ。

「ここにいろ。絶対に声を出すな! 動くのも駄目だ」

「……ッ」

 見た事もないバルドの形相に がこくこくと頷くと、バルドは身を翻して違う方向へと走っていった。それから数秒して、苦しげな呻き声が の耳に飛び込んできた。


「……ぐッ…! が、ああッ――!」

「! ――バルド!!」

 危険を顧みず、 が書架から飛び出す。やがてバルドの元へと辿り着いた は、信じがたい光景を目の当たりにした。

 バルドの右手から黒い霧が出ている。その霧を受けてトカゲが苦しげな悲鳴を上げたかと思うと、次の瞬間それはまるで吸い込まれるように消えてしまった。
 トカゲは消えた。しかし、残されたバルドも苦悶の顔で右手首を押さえ付ける。


「ぐッ……」

 目の前の光景が信じられず は呆然としていたが、我に返るとバルドに駆け寄った。黒い霧に構わず、バルドの手を掴む。はっと顔を上げたバルドよりも早く、 はのその手に巻かれた布を剥ぎ取った。

「――! なに、この傷……!」

 露わになった手には、痛々しい傷が走っていた。傷は生傷のように濡れていたが、よく見るとそれは血液ではない。黒く粘ついた液体を溢れさせるその傷痕に は思わず息を呑んだ。

「離せ。――嫌なもん見せちまって悪かったな。ただの古傷だ」

「嘘。アンタいつもそればっかりじゃない! ただの傷じゃないでしょう!?」

 手を引いて目を逸らしたバルドに は強く問い詰めた。バルドが顔を歪める。
 今度はなんと弁解するつもりかと は息を詰めてバルドを見つめたが、バルドはやがて布を元に戻すと に背を向けて立ち上がった。

「……帰るぞ」

「――ッ! …………」

 静かな背中にそれ以上の問答を拒絶され、 は歯噛みをしたが結局バルドの後に続いた。
 ――今、バルドの側を離れてはいけない。そんな気が強くしていた。



 バルドが何かを抱えているのは分かる。そして、それにバルドが苦しんでいる事も。
 けれど自分には何も話してくれない。それは信頼に値しないと言うよりは、バルドの本質に自分が近付けていないためのように思えた。
 身体が近付いても、薄い壁の向こうにいるバルドの心には近付けない。
  はその事を悔しいと思った。そしてその真実に触れてみたいと、初めて心から思った。










「はぁ……」

 宿に戻った は、物思いに耽るように食堂で溜息をついていた。

(バルドの傷、それから消えたトカゲ……。あのトカゲは、バルドに吸い込まれた――?)

 ふと感じた疑問を心の中で問うても、今は答えが分かるはずもない。誰に聞かせるでもなく は力なく呟いた。

「そんな訳、ないか……」

 もう少ししたら、バルドが準備にやって来る。聞きたい事は山程あった。知りたい事も沢山あった。
 だが気まずさもあって、どうしたらいいのか分からない。それでも席を立つ気にはなれず幾度目かの溜息をついたその時、食堂の扉が静かに開いた。

「――あ。アンタ、帰ってたんだ。お帰りー」

「……お前か」

 入ってきたのはライだった。こつこつと、 の座る椅子へと近付いてくる。その姿を見遣って、 の頭にある考えが閃いた。
 ――ライなら、バルドの「何か」を知っているのではないか。

「ねぇ!」

「……なんだ」

 勢いよく立ち上がった に、ライは眉を寄せてその隻眼を向けた。冷静な視線を受けて はハッと我に返った。
 バルドの事を聞いたところで、ライを不機嫌にするだけだろう。嫌悪を露わにした顔が容易に想像できて、 は己の失態を悟った。

「えと、あの……な、なんでもない……」

  は頭を振り、苦笑を浮かべた。ライは呆れたような視線を向けてきたが、次の瞬間目を見開くとその顔を強張らせた。

「……お前」

「ん? なに」

 困惑したようなライの視線を受け、 がきょとんと顔を上げる。ライは顔を背けると低い声で告げた。

「身体を拭け。――不快だ」

「は? ――え。……私、臭う?」

 告げられた言葉に呆然とした は、次の瞬間慌てて腕を引き寄せた。くんと嗅ぐが、特に臭わないように思われる。これでもまめに水浴びはしているのだ。
 だが異性の猫から受けた恥ずかしい指摘に の頬がわずかに染まる。

「違う。――あいつの残り香がすると言っている。……それで俺の前に立つな。不快だ」

「は……、――ッ!?」

  の様子に苛立だしげに尾を振ったライが、吐き捨てるように告げた。
 一瞬の後にその意味を理解した は、目を見開いて口元を覆った。頬が熱く染まっていく。

 した事は、事実だ。別に後悔をしている訳でもない。
 だが他の猫に指摘されるのがこんなに恥ずかしい事だとは思わなかった。
 つがいでもない相手に身体を許した、節操のない猫。そう言われているようで弁解の言葉も出てこない。
 
 ――きっとライは軽蔑しているだろう。その視線を確認するのが怖い。

  は顔を背けると食堂から飛び出した。ライの顔を見る事は、できなかった。





「……くそっ」

  が去った後、ライは苛立たしげに拳を壁に叩き付けた。熱を散らした とその相手の顔が思い浮かび、白猫は奥歯をきつく噛み締めた。

 

 

 

 

 


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