2、その絶望の奥に
ライからの指摘を受けて、
は水浴び場で身体を流した。 実際のところ、残り香があるかどうか自分では判断できなかった。ライも
の様子から判断したのかもしれないが、親しい間柄のリビカならばその匂いを覚えて嗅ぎ分ける事もある。
つまり、ライはごく僅かに残されたような匂いからバルドを判別できるほどに、かつてはバルドに近しい存在だったという事だ。そう思い至り、
は何度目とも知れぬ溜息をついた。
いまだバルドが何を引きずって何に囚われているのかは分からないが、ライとの過去に何らかの原因がある事は確かなようだ。発情期のうやむやで頭が散らされていたが、今度こそバルドと……可能ならライともゆっくり話をしてみようと
は思った。
簡単に話してくれるとは思えないが、何もせずにバルドが苦渋を溜め込んでいく姿を見るよりはずっといいと思われた。
「あ……」
「お……あんたか」
階段を上りきった
は、バルドがコノエの部屋の扉に手を掛けているところに出くわした。その手には木の器が乗せられている。 ――なんというタイミングの良さ……いや悪さだろう。決心をしても、まだ心の準備は出来ていないというのに。
は先程の発情期の恥ずかしさとその後の出来事による気まずさで一瞬言葉を失ったが、会話の糸口を探すべくぽつりとバルドに問い掛けた。
「それ、どうしたの……。まさかライにじゃないわよね」
「ん? ああ、アイツにやっても飲まんだろう。……何かコノエが熱を出したみたいでな、薬湯を持ってきたんだよ」
「熱……?」
今日は朝からコノエとは顔を合わせていないが、体調を崩してしまったらしい。また無理をしているのではないだろうか。
は年下の猫の顔を思い浮かべ、その身を案じた。
「酷くならないといいけど……コノエ、入るわよ」
バルドに付き添って室内に入ると、今夜の同室者であるライはいなかった。暗い寝台でコノエが少し息を荒げて眠っている。
は寝台に近付くと、毛布からはみ出た耳の先端を摘まんだ。――少し、熱い。 放っておいても下がるかもしれないが、熱冷ましを飲んだほうがいいだろう。
はそっとコノエの肩を揺さぶった。
「コノエ……コノエ」
「――ん……、え? あれ……
…とバルド…?」
「起こしてゴメンね。バルドが薬、持ってきてくれたのよ。……飲める?」
コノエは目を瞬かせると、もそりと起き上がった。
に向けた顔が、やや赤い。心なしか表情もぼんやりしているように思えた。
の差し出した器をコノエが両手で抱える。そのまま顔を歪めて薬湯を飲むコノエとその様子を見守る
に、扉の前で静観していたバルドから声が掛けられた。
「あんたら、そうしてると……まるで姉弟みたいだな」
からかうように、ではなく妙に優しげに言われた言葉に、
とコノエが目を合わせる。直後、二匹は揃って渋面を作った。
「……何だよそれ。俺が子供っぽいっていう意味かよ」
「……どっかの誰かと同じこと言わないでよ……」
全く同じタイミングで返されて、バルドが肩を竦める。「そういうところが似てるんだがなあ」と重ねて言ったバルドに、コノエはますます憮然となり
は小さく苦笑した。その次の瞬間、コノエが突然胸を押さえてうずくまった。
「……ッ」
「――んあ? どうし……」
「コノエ? ――ッ!! 危ないっ!」
部屋の窓を突き破って、何かが飛んできた。いち早く気付いた
がコノエを強く引き寄せる。凶器――独特な形をした短剣が、たった今までコノエが寝ていた寝台の上に深々と突き刺さった。
「なに…、――!!」
凶器が刺さるのを待っていたかのように、今度は窓を割って何か黒いものが飛び込んできた。 ――猫だ。
顔を覆った冥戯の猫が
とコノエに殺意のこもった視線を向ける。その懐がギラリと光り、
は咄嗟に剣を抜いて応戦しようとした。しかし、
の剣が相手の剣を受け止める一瞬前に、
の前に大きな影が立ち塞がった。
「バルド!」
バルドが、コノエの剣を持って敵の刃を受け止めている。そのままギリギリと拮抗する力に
が呆然としていると、後ろを振り返らないままバルドが叫んだ。
「コノエを連れて逃げろ!」
「! でも……!」
「いいから、早く行け!」
そう叫ぶ間にも、バルドは的確な動きで敵の攻撃を受け流していく。いつか見た薪での見惚れるような戦闘と同じく、無駄のない動きだった。しかし、あの時と同様に敵に致命傷を与える事は出来ない。――何故なら、バルドはコノエの剣を鞘から抜いていないからだ。
「アンタ、何で抜かないのよ!」
「……ッまだいたのか! 早く行け! ……抑えきれなく、なる――!」
「え――、……ッ!」
優勢かと思われたバルドが、剣を取り落として苦しげに手首を押さえた。そこから、黒い煙が湧き上がる。その煙の源は――あの手首の、傷……!
「ぐ、あ…ッ!」
「バルド!」
膝をついたバルドの隙を逃さず、冥戯の猫が剣を振りかぶる。部屋の隅に取り合えずコノエを押し込んで、
は咄嗟に駆け出した。先程バルドがそうしたように、敵との間に立ち塞がる。剣を構える余裕など、なかった。
「
!?」
(――斬られる……ッ!!)
「――ッ! …………、え……?」
覚悟を決めて歯を食いしばった
が、その身に刃を受ける事はなかった。いつまで経ってもやって来ない衝撃にそっと目を開けると、そこには目を見開いた敵が喉から血を流して立っていた。 猫が、ゆっくりと倒れていく。バルドに引き寄せられてその死体から身を引くと、背後の木立に見知った白い影がある事に気が付いた。
「……ライ……?」
が呆然と呟くのと同時に、ライが軽い身のこなしで部屋に入ってきた。倒れていた敵を一瞥しその死を確認した後、短剣を引き抜く。冥戯の猫は黒い煙を上げてやがて霧散し、跡形もなく消えてなくなった。
「どうして、アンタが……」
苦しげな表情の消えたコノエが、ライにその行動の理由を問い掛ける。 ライは猫がコノエを狙っているのに気付きながらも、泳がせていたらしかった。 早々に仕留めなかった事への疑問が
とコノエに沸き上がる。だがその疑念を遮ったのは、ライのバルドに向けた冷ややかな一言だった。
「これでようやくはっきりしたな。――もう、剣は振るえないんだろう?」
「……!」
――その時のバルドの表情の変化を、なんと言ったら良いのだろう。怒り、後悔、恥辱……そういったものに加えて、その瞳に絶望と諦めが滲むのを
は捉えた。
の腹の底に、何かがカッと込み上げた。……別段ライに対して怒りを抱いた訳ではない。悲しさでもない。 ただ、この猫に何度も何度もこんな顔をさせる何がしかの「理由」に、不意に感情が突き動かされた。
――この猫は、何かを失った。そして、今もなお何かを失いかけている。 絶望して、諦めて、囚われて……それが全てではないだろうが、重たいそれらを抱えながらバルドが生きてきた事を
は直感的に察した。
バルドから視線を外したライが、静かに部屋を出ていく。憔悴したように項垂れたバルドが気に掛かるが、コノエが心配げに近付いたのを認めて
も部屋を飛び出した。そのまま階段を下りていくライを追い掛ける。
「待って……。ねぇ、待って!」
「…………」
「――っ、待ちなさいよ!!」
立ち止まろうとしないライに焦れて、
が声を張り上げた。待合室にいた数匹の猫が振り返る。雌だとバレただろうか。だがなりふり構っていられる余裕はなかった。
「……っ、阿呆猫が。こっちへ来い!」
入り口前でようやく足を止めたライが、振り返る。そのまま舌打ちして苦々しく告げると、ライは
の手を取って強引に食堂へ連れ込んだ。そのまま乱暴に扉を閉める。
「……アンタね、ひとが呼んでるんだから止まりなさいよ!」
「だからと言って声を張り上げる馬鹿がどこにいる! だから阿呆なんだ、お前は」
「何ですって! アンタだって――、じゃない。……喧嘩しに来たんじゃないのよ」
「…………」
思わず激昂しかけた
は、それどころではないと我に返って息を吐いた。ライも呆れたように目を伏せる。
は顔を上げると、ライを見上げて口を開いた。
「……さっきのって、どういう事。バルドが剣を握れないって……」
「知らん」
「……アンタは理由を知ってるんでしょう? 剣を持てないのは……あの傷のせいだって」
「…………」
ライは顔を歪めるのを隠そうともしなかった。吐き捨てるように告げるのに気圧されそうになりながらも重ねて問うと、不機嫌そのものの顔でライは
を睨み付けた。
「知っていたとして、何故お前に話す必要がある? そんなにあいつの事が知りたいか」
「……確かに必要はないわね。……でも、私は知りたいのよ。アンタだって、アイツが何かに囚われてるのが分かるでしょう?」
ライが話す義務などない。ただ自分の欲求を満たすために問うているのだと暗に
が告げると、ライは鼻で笑った。
「それを俺に聞いて、どうする。救ってやりたいとでも? ……一度抱かれたくらいでほだされたか。――くだらんな」
「――な…に言ってんのよ。そんなのは今、関係ない! それに抱かれても――、ッ!」
ライの言葉に反論しようとした
は、突然伸ばされた腕に引き寄せられて言葉を封じられた。――ライの唇で。
「――ッちょ、っと……はッ……やめ…!」
突然の口付けに目を見開いた
は、やがてライの腕の中で抵抗を始めた。 ……こんな事で説得される軽い猫だと思われているのだろうか。身体に刺激を与えれば、心まで意のままに出来るとでも。――なんて屈辱だ。
「……うるさい。黙れ」
「――! ふっ……」
は怒りに身を震わせたが、しかしライは行為をやめようとしなかった。再び長々と口付けられ、
の抵抗する力も段々と弱くなっていく。 ――受容した訳ではなかった。ただ、抵抗すればする程にライを煽る結果になるだろうと思ったから動きを止めたまでだ。
だがそのうちに、ライは
を黙らせるためにこんな手に出たのではないかという気分がしてきて、
は段々呆れた気分になってきた。……何というか、黙らせるにしてももっと他の手があるだろうに。
「……もう……、一体何なのよ……」
「…………」
やっと唇を離されて、
は深々と息を吐き出した。疲労と呆れを込めてライを見上げると、白猫は僅かに視線を逸らして口を開いた。
「……あいつの傷を、見たんだろう。だったら、あれが奴の全てだ。……矮小で、臆病で、欺瞞に満ちた……くだらない過去の証だ。そんなものを後生大事に抱えて、あいつは生き長らえている」
「……そんな言い方……」
辛辣な言葉を思わず咎めると、ライは顔を歪めて
を見据えた。
「もう一つだけ、忠告しておいてやる。……あいつにこれ以上、深入りするな。救おうなどとは、考えない事だな。……お前の身を滅ぼすぞ」
「…………」
それだけ告げて、ライが食堂から立ち去ろうとする。扉に手を掛けたその背に向かって、
はぽつりと呟いた。
「救ってやろうだなんて……そんな事、考えちゃいないのよ。私はそんなに大層な猫じゃない。だけど……」
……だけど。飄々とした態度に隠された絶望と諦観の、その更に奥に―― 柔らかく真摯な眼差しが息づいている事に、気付いてしまったから。 バルドの、コノエや自分やそしてライに向ける視線が、偽りや諦めに塗り潰されたものであるとは思えなかった。その片鱗を感じさせながらも、それでもあの視線は柔らかで、時折少し哀しかった。
あんな眼差しを見せられて、どうしてそれが覆い尽くされていくのを黙って見ていられるだろう。
「…………」
……けれど何と言えばいいのか、分からない。この気持ちを言葉でどう表せばいのだろうか。口にすればする程、自分勝手な言い分を肯定していくようで
は言葉に詰まった。
ライがゆっくりと振り返る。視線が結ばれ、二匹は無言で見詰め合った。 バルドの過去を知る者と、バルドの現在と過去を追う者は、言葉に出来ない想いを伝えるように互いを見据える。
「……阿呆猫が」
やがて、根負けしたような呟きを残して白猫は食堂を出て行った。残された
は緊張が解けたように椅子に座り込むと、打ちひしがれたように項垂れていた虎猫の姿を思い浮かべ、瞳を閉じた。
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