3、尾行




 深夜、バルドは厨房の作業台に額を押し付けてうずくまっていた。さっきまで会話していた(と言うよりは一方的に話し掛けてきた)ヴェルグの言葉が忘れられない。
 契約の解消は不可能である事、しかし契約を完成させ「
悪魔」のような力を手に入れる事は可能と言う事――。

 苦悩する頭に、以前から響いている誘惑の声がこだまする。
 ――くるしいだろう。つかれただろう。こっちへこい。楽になるぞ……

「うるさい……黙れ…ッ!」

 呻くように叫ぶと、今度はそれに被さって先程のライの言葉が頭を苛み始める。
 ――もう、剣は振るえないんだろう?

「……ッ……」



 ――ライ。
 成長した白猫が冷ややかにこちらを見下ろす光景は、先程宿の外から見えた光景にすり替わる。

 あの襲撃の後、頭を冷やそうと宿の外に出たバルドは、薄く開いた窓から食堂の中での出来事を垣間見てしまった。
 ライが を引き寄せ……口付けていた。直前まで口論をしていたようだが、その内容までは聞き取れなかった。分かるのは、今二匹が唇を重ねて が僅かに身じろぎをしているという事だけだった。

 睦言を囁いているようには見えないし、あの二匹が恋猫だという訳でもないだろう。そんな仲だったのなら、発情期であっても がバルドを頼るはずはないのだから。
 だがこの時代にそんな温かな関係を求めるのも野暮だ。どういう仲かは知らないが、若い猫同士が絡むのをわざわざ覗き見たいとは思わなかった。……それなのに。

 長々と唇を重ねる二匹から目が逸らせない。すると、視線を感じたのかライが口付けたままこちらに目を向けた。
 薄い色の瞳が僅かに見開き……次の瞬間、確かにそれが細められた。――挑発された。

「……!」

 バルドは咄嗟に目を背けて、暗い林の中に入った。気持ちを落ち着かせるように深呼吸する。
 胸に湧いたのは、ライに対するほの暗い感情だった。嫉妬、と呼ぶものかもしれない。


 別に はバルドの所有物ではないし、どこの誰と関係しようとバルドには関係ないはずだ。
 昔から知っている分、幸せになってもらいたいとは思うが、変な猫に引っ掛かるほど馬鹿ではないとバルドは信頼していた。……けれど。
 
 ――お前はまた、当然のような顔をして俺の羨むものを手に入れるのか?

 ……羨む。 がライに惹かれたからと言って、なぜそれが羨ましいのだろう。愛着があるのは確かだが、まさか惚れているとでも?


 ――アンタは一体、何に囚われているの?
 透徹とした眼差しでそう問い掛けてきた若い雌は、無垢という訳でもなかった。世間を知り、嘘を覚え、時々小細工をするどこにでもいるような猫だ。
 だが荒波に揉まれてしなやかに表情を変えながらも、その一本気な芯は変わる事がない。
 自分には……眩しすぎる。



「は……冗談だろう……?」

 自分には枯渇したはずの単語が頭に浮かび、バルドは自嘲するように苦く笑った。
 考えるべき事は他にもあるはずなのに、こんなくだらない感情一つにも掻き乱される弱い心が、常にも増して厭わしかった。

「ただ、静かに死にたいだけだ……それ以外に望むものなんて…ある訳がない」

 己に言い聞かせるように告げると、バルドは固く固く右手を握り締めた。







  + + + + +







 翌朝、朝食の手伝いをした は、バルドの顔に浮かぶ憔悴と荒んだ気配に息を呑んだ。客に対しては飄々とした態度を装っていたが、それで誤魔化されるほど は短い付き合いではなかった。本当に……何に追い詰められているのだろう。

  が顔を仰ぎ見ると、バルドは繕う事もなくその瞳を逸らした。まるで顔を合わせたくないと言わんばかりの態度だ。表情を装う余裕すらなくなったその様子に、 の不安はますます煽られた。



「だからって……これってストーキングかしら……」

 結局バルドと必要最低限の会話しかできなかった は、その後気分転換に街に出た。コノエを誘おうと思ったが既に出掛けていていなかったため、図書館や露店をのんびりと見て回っていた。実際のところはバルドの事が気に掛かり、上の空ではあったのだが。
 そしてそろそろ帰ろうかと踵を返したその瞬間、裏路地を通るバルドを見掛けて思わず追ってきてしまったのだった。

 バルドに話し掛けようにも微妙に距離が詰められず、とうとう裏通りまで出てきてしまった。 は普段ならば絶対に来ないような通りの様子に躊躇しながらも、少しの間に見失ってしまったバルドを探していた。

(相手の了承を得ずに追ってるなら……ストーキングよね……)

 何とも女々しい自分の行動に溜息が漏れたが、ここまで来たらどこに行くかを確かめたかった。おそらく仕事ではないのにこんな場所に来るとは、何かしらの訳があっての事だろう。そう思い再び路地を見渡した は、次の瞬間に背後から口を覆われて暗い路地に引きずり込まれた。

「むぐ…ッ!」

(――しまった! 暴漢? 夜盗? ……油断してた!)

 太い腕に胴体をがっしりと抱えられ、ビクともしない。だが は一瞬にして冷静な思考を取り戻すと、父親に鳥唄一番と讃えられた必殺技を繰り出した。……肘鉄である。

「うおりゃあっ!」

「ぐほ……ッ!! あ、あんたなぁ……!」

「! ……バルド!?」

 ――決まった。会心の一撃を撃ち込んだ は、次の瞬間聞き慣れた声を耳元で感じ取り、驚いて振り返った。そこには、腹を押さえてうずくまる虎猫の姿があった。

「ご、ごめん! 変質者だと思って思いっきりやっちゃった……!」

「変質者――。いや、この状況じゃそう思われても仕方ねぇか……。しかしいい一撃だった。成長したな、あんた」

「いやそんな事で褒められても……」

 腹をさする雄猫と、ひたすらに謝る雌猫の問答はその後数分間に渡って続けられた。




「しかしまぁ、何だってこんな所にいたんだ。俺をつけてたのか」

「いや、たまたま見掛けただけ……」

 数分後、ようやく立ち直ったバルドは を見下ろして厳しい顔で問うた。本当は尾行してました、とは言える訳もなく が言葉を濁すと、バルドは重い溜息をついた。

「ったく……しょうがねぇな。こんな所で離す訳にもいかんし……」

「――わ。……何?」

 そう言って頭を掻いたバルドは、 の襟元に手を寄せて被ったフードを更に引き摺り下ろした。

「付いてくるのはいいが、絶対に顔を出すなよ。声も聞かせるな。襲われても対処できんぞ」

「…………」

 どうやらバルドは、これから向かう場所に も連れて行ってくれるらしい。 がこくこくと頷くと、バルドはまた溜息をつきながら歩き出した。
  は少しだけ、安心した。 を覗き込んだ琥珀色の瞳が……いつも通り温かなものであった事に。




 バルドが入って行ったのは、そこから程なくの所にある薄汚れた建物だった。扉を開けた瞬間、ハマキのムッとした煙が鼻をつく。
 裏情報を取引する場所、だろうか。大きな街には少なからずこういう場所が存在する。 にとっては危険極まりない場所であるため近寄る事はないが、知識としては存在を知っていた。

  が顔を顰めながらもバルドの後に続くと、バルドは店の奥に座る黒い布を被った猫のたもとに立った。二言三言会話を交わし、それから金の入った袋を置いてまた話し始めた。

 二匹の会話の内容は、近くにいる にも分からないほど潜めた声で行われている。 に聞かせないという意図もあるのだろうが、気にならないと言ったら嘘になる。 が聞き耳を立てようとすると、それより早くに二匹の会話は終わったようだった。

 バルドが歩き始める。慌てて が後に続くと、聞き逃すほどの声量でバルドが低く呟いたのが聞こえてきた。

「せっかく辿り着いたんだ……逃がさねぇ」

「……っ……」

 バルドらしからぬ昏い憎悪と高揚を孕んだ声に、 は息を詰めた。ほんの僅か覗いた、バルドのもう一つの顔。
 ――誰に辿り着いたの? 何をしようとしているの?
 振り返って黒い布の猫に問い詰めたい衝動に駆られたが、バルドに後ろ手に手首を掴まれて は店の外へと引きずり出された。

 そこから表通りに戻って手を離され、ひとりで戻るように言われるまで――バルドの琥珀の瞳が、 を見る事はなかった。








 
 その日の晩は、コノエが帰って来なかった。一日の事だしと は気にせず寝てしまったが、翌朝になってもコノエは戻っていなかった。
 心配するアサトと手分けして街に探しに出た は、またもやバルドの姿を見掛けてしまい、後ろめたさを感じながらも思わず身を潜めてその様子を窺ってしまった。

(どうして、いつもいつも見つけてしまうんだろう……)

 こんな事はいけないと、分かっている。バルドがどう行動しようと自由なのに。
 だが昨日耳にした言葉がどうしても引っ掛かり、目が離せない。――バルドは、誰かを傷付けるつもりなのだろうか。ずっと追ってきた、誰かを。

 バルドはしばらく路地の影に佇んで薄汚れた建物を睨み付けていたが、やがて自身も静かにその建物へと進んでいった。扉を叩いてから何か問答をしているようだった。……何の建物だろう?
 バルドが扉の奥に消えてからも、 はしばらくその様子を窺っていた。雄、雄、また雄……周囲を気にしたり、逆に胸を張っていたりと不審な猫が出入りしている。

「――あ」

 唐突に、 はその建物が何であるかを悟った。路地に紛れるようで、でも雄の通りの絶えない場所――娼館だ。

「あ、そ、そうか……はは……」

 そして は、バルドがここに何をしに来たかも気付いてしまった。何事かに囚われ、疲れきった雄が求めるもの……そんな事は、考えなくても にだって分かる。
 
「なんだ……早とちりして馬鹿みたい、私……」

  は苦笑して踵を返すと、宿に向かって歩き始めた。苦笑した顔がやがて強張り、心がちくちくと勝手に痛み出すのは……たぶん、自分も疲れているせいだ。

  は自分にそう言い聞かせると、疲労した身体を引きずって街の喧騒へと紛れ込んだ。














BACK.TOP.NEXT.