6、一滴の不安
無理をして遠出したために再び熱の出た
は、コノエの肩を借りてようやく宿まで辿り着いた。
「……おい! やっぱりあんた、具合悪くなったんだろ。なんて顔してんだよ」
もつれる足で扉をくぐると、受付に座っていた虎猫が眉をひそめて
の前に立った。けれど、意識がぼんやりとして何を言われているのか反応が遅れる。
「かなり熱が高い。悪いけど、薬湯とか作ってやってくれないか」
「それはいいが、まずは休ませるのが先決だ。――ちっ、上は敷布がまだ乾いてないんだよ。……仕方ない、俺の部屋に運ぶぞ。ほら
、俺の肩に掴まれ」
耳元で交わされる会話に頭が追いつかないまま、
はバルドに腰を支えられると奥の私室へと連れて行かれた。
「……ほら、薬湯だ。飲めるか?」
「うん……」
しばらくして、寝台に寝かされた
のもとへバルドが薬湯を片手に入ってきた。身体は相変わらず熱くてだるくて最悪だったが、少しでも早く熱を下げたい。
は重い身体を起こすと、苦みばしった薬湯を嫌々ながらも飲み干した。
「……マズい……」
「薬なんて大概苦いモンだろ。でも……よしよし、よく飲めたな」
渋い顔で器を突き返した
の頭を、バルドがぽんぽんと撫でる。子供にするような態度にいつもならば怒るはずだが、
は頭にそっと手を当てると頬を赤らめた。 何だかちょっと、嬉しいかもしれない。……いやいや、熱でおかしくなっているだけだ。あり得ない。
「……ごめん、アンタの寝台借りちゃって……」
「気にすんな。薬も飲んだし、あとはとっとと寝ちまう事だな」
照れ隠しに呟いた
の言葉に、バルドは穏やかに答えて毛布を引き上げた。ランプの火が落とされ、室内が穏やかな闇で満たされる。そのまま静かに立ち去ろうとしたバルドを、
は慌てて服を掴んで引き止めた。――行かないでほしい。
「ん?」
「あ、ゴメ……。……ねぇ、コノエは?」
思わず手が出てしまった事に驚きつつ、
は咄嗟に思い付いた質問を口にした。バルドが首を傾げる気配がする。
「アイツも疲れてるから休ませたって、さっき言わなかったか? 後で栄養ある物を持ってくよ」
「そ、か……。あ、じゃあ、呪術師の所で聞いた話って聞いた? 意外な話がいっぱい――」
「それは後でいいだろ。今はあんたの身体を休める方が先決だ。……話なら後でゆっくり聞かせてもらうから、少し眠れって」
話題をひねり出す
を遮って、バルドが静かに告げる。
は毛布を寄せると、ぽつりと呟いた。
「……だって、眠くないもの。熱はあるのに、全然眠れる気がしない」
事実だった。身体は苦しくて仕方ないのに眠れないとは、何の試練かと思う。 無意識に拗ねるような口調になった
を見て、バルドが溜息を零した。寝台の傍らの椅子に腰掛けると、バルドは瞳を閉じた
の髪をそっと梳いた。
「子供みたいな事言うな、あんた。やっぱり熱が高いんだろ。……さっきの薬に眠くなる成分も含まれてるはずだ。目ェ閉じてりゃ眠れるさ」
「じゃあ、それまで何か話してよ。そしたら気も紛れるし眠れるかもしれない」
「……俺の話なんて、気を紛らわすのには程遠いだろう。こんな時に話す事じゃない」
ふいに暗い響きを帯びた声に、
は胡乱な眼差しをバルドに向けた。こちらとしては用意はできているのだが……確かに、こんな状態で聞くのはしんどい。
は再び目を閉じると、小さく呟いた。少し眠くなってきているかもしれない。
「……じゃあ、歌ってよ。何でもいいから」
「はぁ? ……歌えって、あんたな……」
バルドが困惑した声を上げる。ふと思い付いた事を口にしただけだが、それは良い考えであるように思われた。……やっぱり熱で頭が回っているのかもしれない。
「いいから。……お願い」
「……っ、またお願いかよ。……あ〜、だからそれは卑怯だって……」
大仰にバルドが溜息をつく気配がした。そのまま無言で催促するように待っていると、「……くそっ」という小さな声を上げてバルドが息を吸った。
低く低く、闇に溶けるほどの小ささで、密やかな歌が生まれた。やや掠れた声で紡がれる旋律はどこか色めいていて、苦しい息の下で胸がわずかに高鳴ったのを
は感じた。けれど語られる歌詞はどこか懐かしく、そして温かい。
は瞼を押し開けると、目を伏せて歌うバルドをぼんやりと見上げた。バルドが歌を止め、
を覗き込んでくる。
「……どうした。もう眠くなってんだろ」
「うん……。それ、子守唄……?」
「ああ。故郷のな」
うとうとと問い掛けた
に、バルドが微かな苦笑を浮かべて答える。
は瞳を閉じると、口を開いた。
「ライにも……歌ってあげた……?」
「……っ、――ああ。……あいつは、覚えちゃいないだろうがな」
一瞬言葉に詰まったバルドが静かに呟く。見なくても、その顔には苦笑にも似た諦観が浮かんでいるのだろうと
には予想できた。……だけど。
「……覚えてるわよ。……こんなに優しい歌を、覚えてないはずがない――」
「…………」
――ああ、駄目だ。もう抗えない。だけどまだ、伝えたい事がある。 泥沼のような闇に引き込まれる寸前、
は切れ切れに言葉を紡いだ。
「……この歌みたいに、アンタ自身を…癒してくれるものが……あればいいのに――」
が眠りに付いた後、コノエを見舞って厨房で仕込みをしていたバルドはふと顔を上げた。夜も大分更けてきたし、そろそろ
を自室に運ぶべきだろうか。そう考えると、瞳を閉じて安らいだ表情を浮かべた
の顔が思い出され、バルドは髪を乱暴にかき上げた。
(……癒す、か。それを言うなら、お前の存在自体が既に――)
今まで、一体何度あの猫に怒鳴られた事だろう。それは大抵怒りを孕んだもので、自分の何に対して
はそこまで真剣に感情をぶつけてくるのかと、バルドは疑問に感じていた。 自分だってギリギリの所にいるくせに、どうして他の奴に構おうとする。しかも、こんな先の見えた惨めな猫に。
そう思う一方で、
の叫びがバルドの心に細波を立てている事も事実だった。
の言葉は剥き出しで飾らず、そしてバルドを引っ張り上げる。ここまで言われて、されて、バルドも虚心ではいられなくなってきている。 知らずあの猫の姿を追っている自分がいる事に、バルドはもう気付き始めていた。
「うおっ…と。……お前か。どうした?」
「…………」
厨房を出たバルドは、待合室に佇むライの姿に気付いて瞠目した。暗闇から、薄い色の瞳がこちらを睨む。その冷えた眼差しに全てを見透かされるような気まずさを感じつつも、バルドはライの返答を待った。
「……貴様の部屋にいるのか」
「あ? ……ああ、
か。まあ不可抗力でな。今起こそうと思ったところだ」
「…………」
ライが沈黙で返す。バルドは不機嫌そうなその顔を眺めて、口を開いた。
「入るか? そろそろ起きてくると思うが」
「知らん。無理に出て行って熱を出したんだろう。自業自得だ、阿呆猫が」
ライが呆れたように低く呟く。口調こそ冷たいが、ならば今ライがここにいるのは何だというのだろう。 たった一匹の猫のために憎んでいるはずの自分にまで情報を聞きに来たライの姿に、バルドは僅かに苦いものを感じた。
「――なあライ。お前……
が、欲しいか」
不意に口を衝いて出た質問に、ライが瞠目する。バルド自身も何故こんな事を口走ったのか分からず、内心動揺した。答えなど……聞かなくとも分かっているのに。
「……あいつは物ではない」
「そういう意味で言ったんじゃない。お前だって分かるだろう」
……ますます煽ってどうする。己の発言に混乱するバルドを見遣って、沈黙していたライが不意に口を開いた。
「……欲しい」
「…ッ」
「――と言ったら貴様はどうする? あいつを譲るとでも? ――馬鹿馬鹿しい。そんな理由で無理やり奪ったところで、あの阿呆猫がなびく訳がないだろう。納得せずに暴れるのが関の山だ」
「……あー……、まあ、な……」
ライの返答に一瞬息を詰めたバルドは、その後に続いた言葉に思わず相槌を打ってしまった。そんなバルドに、ライが冷えた視線を送る。
「……選ぶのは貴様でも俺でもなく、あいつだ。くだらない事を聞くな」
「…………」
淡々と告げたライが、踵を返す。闇に紛れるその姿は最後に「だが」と続けた。
「あいつが誰を見ていようと、俺のところに来る事を選んだのならば――もう、手放しはしないだろうな。過去に誰に触れられていようが、関係ない。……忘れさせるまでだ」
「あれ……バルド……?」
「ああ。大丈夫か?」
暗がりの中、頬を優しく叩かれて
は目を開けた。再び灯されたランプの元で、琥珀色の瞳が浮かび上がる。
がゆっくりと身を起こすと、濡れた布が懐へ落ちた。
「? ……ああ、置いてくれたのね。ありがとう」
「いや。……熱は下がったみたいだな。部屋整えたから、そろそろ動けそうか? 自室の方が落ち着くだろ」
「…………」
……いやむしろ、自分でも驚くくらいにリラックスして熟睡していました。
はそう思ったが、さすがに言える訳もないので曖昧に頷いた。 バルドが渡してくれた水を舐め、
は寝台から降りずにバルドを見上げた。……少し、表情が優れないように思える。また何か考え込んでいるのだろうか。
「……少し、話がしたいわ。……もう少しだけここにいたいんだけど、いい?」
が静かに告げるとバルドは軽く目を見開いたが、やがて頷くと椅子に腰掛けた。ようやく訪れた静かな対話の時間を、
は無駄にしないように滔々と語り始めた。
バルドは既にコノエから、事の顛末と
の事情についてをあらかた聞いているようだった。更に詳細を付け加えて一息ついた
は、考え込むような表情を見せているバルドを見遣って、懐を探った。 「これ……アンタの物よね」
「……! あんた……どこでそれを――」
一枚の紙切れを取り出し、静かに開くとバルドの顔がはっきりと強張った。
は悪魔の絵に視線を落とし、言葉を続けた。
「厨房に落ちていたわ。隠すつもりなら、もっと上手くやらないと。……こんな本まで堂々と置いておいて、勘ぐるなって言う方がどうかしてる」
「…………」
は紙切れを置くと、今度は机の上の本に目を遣った。いつかと同じように、今日も悪魔に関する本が数冊置かれている。
は視線をバルドの顔に戻すと、ふいにその右手をそっと掴んだ。
「!? っおい……」
「……この傷……この絵と関係あるんでしょう? ……ううん、はっきり言うわ。アンタ、悪魔を……呼び出した――?」
「…………」
バルドの顔が歪む。その表情で、
は己の推測がやはり間違っていなかった事を悟った。
「アンタ、前にライを裏切ったって言ったわよね。それってこの時の事なんじゃないの。ライのご両親が殺された後に、アンタは悪魔と契約しようとした。……違う?」
「……放せ」
探るように告げた
の言葉を受けて、バルドが顔を逸らして強く手を引いた。だが、
はその手を放さなかった。バルドの力に身体が引かれ、寝台から転げ落ちそうになっても
はその手を握り続けた。
「糾弾する訳じゃない。その事についてどうこう言うつもりもないわ。過去の事を今更言ってもどうしようもないもの。……だけど、教えて。アンタがずっとずっと囚われて、うなされてきたのはその傷が原因なの?」
顔を突き合わせ、
が問う。バルドは顔を背けると、声を荒げた。
「だったらどうだって言うんだ! これは罪の証だ。全てを諦めて逃げようとした事への代償なんだよ。……俺はもう何も望まない事に決めたんだ。このまま静かに死ねればそれで――」
「……そうやって、またひとりで結論を出して諦めるの? ……一体何回言えば伝わる? アンタが納得していたって、見てるこっちは苦しいのよ。どうにかしたいって、思うのよ……!」
自嘲したバルドの言葉を遮って、
は静かに告げた。瞳に力を込めると至近距離で睨みつけるような形になったが、なりふり構っていられない。
「……過去は過去だわ。やり直す事もなかった事にもできないわよ。けど、未来も未来でしょう……? どうにかできるかもしれないじゃない。何とかなるかもしれないじゃない。アンタは……悟ったように言ってても、結局何もせずに諦めているだけよ」
「……ッ……」
「アンタが探さないなら、私が探すわ。アンタが諦めても、私は諦めない。……可能性はゼロじゃないって、信じてるから」
呆然とするバルドに、
は強く語り掛けた。掴んだ腕は温かい。何度となく安らぎを与えてくれた、この温もりが喪われる事など……耐えられないと、思った。
「アンタを失いたくないわ。アンタの事が、大切だから…よ――。……?」
更に言葉を重ねた
の声が、ふいに途切れた。何か……身体に違和感を感じる。瞠目していたバルドも、
の様子に訝しげな表情を浮かべた。
「……どうした?」
「……? なんか、身体が――」
一瞬また痣かと思ったが、あの灼熱の痛みはない。しかし、身体の自由が突然利かなくなってしまったような感覚がする。
が困惑すると、その腕がひとりでに持ち上がってバルドの首にするりと巻き付いた。
(……コロセ……)
「……え――?」
「……? おい」
驚愕の声を漏らした
は、次の瞬間強力な衝撃を感じた。たった一つの言葉が、呪詛のように頭に響いてくる。
(……コロセ。殺セ殺セ殺セ殺セ殺せ――!!)
「え。ちょ……! 何…!?」
「……ぐっ……オイ――」
の指が動き、バルドの喉をゆっくりと締め始めた。指が皮膚に喰い込む。意識とは裏腹に、その動きが止まる事はなかった。訳の分からない事態に
が呆然とする。
「あんた……何してんだよ。悪いがこういう趣味はないぞ……?」
「ちが……私じゃ、ない…! 何で? 腕が勝手に――!!」
「――随分面白そうな事してんじゃねーか。俺も混ぜろよ」
「!」
「……ヴェルグ……!?」 突然投げられた声に、
は全身の毛を逆立てた。腕がビクリと震え、途端に力を失う。重力に従ってだらりと落ちた自分の腕を瞠目して見遣り、
は咄嗟に顔を上げた。 ……いつの間に入ってきたのだろう。唖然とした
とバルドを見遣り、快楽の悪魔――ヴェルグは唇を大きく歪めた。
「メス。お前、意外といい趣味してんじゃねーか。オスの趣味はあんま良くねーけどな」
「……なんの用だ」
ヴェルグの言葉を遮って、バルドが剣呑な視線を向ける。ヴェルグの視線が逸らされ、
は再び呆然と自分の手を凝視した。
(……今の、何……? 操られてるみたいに、身体が勝手に動いた――)
外側から糸で操られているような感覚だった。すっかり消えた今になっても、何者かが脳から腕にかけて侵入するような、おぞましい感触が生々しく思い出せる。
は不可思議な現象に、そくりとした戦慄を覚えた。……何かが、起こっている。
「本当は……欲しいんだろ?」
「……黙れ! 今ここで、その話は、するな」
深く自分の考えに沈みこんでいた
は、バルドの凄まじい剣幕によって我に返った。殺気を放つバルドを、ヴェルグが無感動に見下ろしている。追い詰められた獣のようなバルドの様子に、
は息を詰めて事態を見守った。
ヴェルグは、「バルドが悪魔の力を借りようとした」と言った。それを何故ヴェルグが知っているのかは分からないが、ヴェルグはそれをバルドの思いつきと思い込みだと詰った。自分を正当化しようとした、と。 バルドが唇を噛む。ヴェルグは更に「悪魔は猫のように嘘はつかない」と言った。それは……バルドが嘘をついているという事だろうか。そしてヴェルグがバルドに何事かの返答を迫る。
「その嘘で塗り固められた日々から、救ってやろうって言ってんだよ。大切なものなんざ、答えられねーんだろ? ……結局自分が一番だもんなぁ」
「…………」
バルドが俯く。言い込められるような姿に焦燥を感じて、
は身を乗り出した。 ……ヴェルグの言っている事は確かに一部正しい。それなりに筋も通っている。だが、だからと言ってバルドがヴェルグに唆されているのを、黙って見てはいられなかった。
「――ちょっと、好き勝手言ってんじゃないわよ」
「ああ? ……なんだよ、何か文句でもあるのか?」
会話を遮られて、ヴェルグが剣呑な視線を
へと転じる。その暗い炎を宿した眼差しに思わず
の身体は強張った。すると、ヴェルグは突然目を見開くと
へと近寄ってきた。
「……お前……なんだ、この匂い……」
「……? ――ちょっと、やっ……何すんのよ!」
くんと顔を近付けたヴェルグが上着に手を掛けたので、
は慌てて抵抗した。だがヴェルグは、容赦なくその手を服の下に捻じ込んでくる。腰に直に触れられて焦る
を、その時バルドが強く引き寄せた。
「おい! ……乱暴な事をするな」
「……ちっ。――リークスかよ。あの野郎、よくも……!」
から手を離したヴェルグが、憎々しげに呟く。紡がれた名前に
はゾクリとしたものを覚えた。……痣の事だけでなく、まさか――
そのまま呆然と二匹が見つめる間に、ヴェルグは青い炎を上げて消え去ってしまった。残された二匹がのろのろと顔を上げる。
「……その、傷……まさか、ヴェルグなの……?」
「……違う。その話は今は――、って、おい。あんた、大丈夫か。顔が真っ青だぞ」
「え……」
呟いた
の頬に、バルドの掌が触れる。それが不自然なほど温かいと感じるのは……血の気が引いているから、なのだろうか。
「今日は色々あったからな。あんた、疲れてんだよ。……早く休んだ方がいい」
「…………。そう、ね……うん、そうする……」
なだめるように休息を促され、
はぎこちなく頷いた。
……そう、疲れているから混乱していただけなのだ。さっきの出来事だって――きっと。 バルドの誘導に従った
はそう自分に言い聞かせ、一抹の不安を噛み殺した。
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