7、答え
翌朝どんよりとした気分で目覚めた
は、景気付けに水をあおって一息ついた。熱はすっかり下がったが、昨夜の勝手に外側から身体が動かされたような感覚が脳裏に残り、気持ちが悪い。 それでも、新しい一日は始まってしまったのだ。
は首を振ると、朝食の手伝いをするべく階下へと降りていった。
「……おはよう」
「ああ、おはよう。……身体はもう平気か」
「うん。……これ、分ければいい?」
厨房に入ると、既にバルドが起きて朝食の準備をしていた。
昨日は結局、言葉を投げ付けたままでヴェルグが来たり身体がおかしな事になったりで、バルドから本当のところを聞いたり、
の言葉をどう思ったかを聞く事ができなかった。 だが、
自身もバルドの首を(故意にではないものの)絞めてしまったという後ろ暗さがあるため、朝からバルドとそういう話をする気分にはなれなかった。
は仕事を見つけると、黙々と作業に取り組んだ。
(昨日のあれは、一体何だったの……? それに、ヴェルグの言葉――)
「――おいおい。野菜、はみ出してんぞ」
「え……?」
深く思考に沈んでいた
は、突然大きな手に腕を掴まれてビクリと震えた。慌てて振り返ると、バルドの顔が間近にある。その距離の近さに思わずカッと頬を染めた
は、ふいと顔を正面に戻した。……ものすごく驚いた。
「心ここにあらず、って感じだな。ほら、手ェ動かせって」
「あ……」
の手首を掴んだバルドが、軽くそれを揺さぶる。確かに、盛り付けていた野菜が皿から零れ落ちていた。これでは客の前には出せまい。
は慌てて手を動かそうとしたが、バルドの手が沿えられていて思うように動かせない。……何故、離してくれないのだろう。
「あの……手……」
「…………。細っせえな……」
「……?」
だが、催促してもバルドは手を離してくれなかった。
の手首を握りこむようにして、ぼそりと呟く。その吐息が耳を偶然掠めて、
は急速に鼓動が早まっていくのを感じた。
……近い、近すぎる。背中と手首からバルドの体温が伝わってきて、
は焦った。バルドが側にいるのが嫌だという訳ではない。だが近付かれる程に胸が苦しくなり、己の身体の変化に
は戸惑った。 掴まれた腕から、早い鼓動が伝わってしまうのではないか――そう動揺した
は、次の瞬間ぞくりとした衝撃を感じて思わず総毛立った。
(――コロセ……)
「……!」
これは……昨日と一緒だ。頭に声が響き、腕が痺れ始める。
は咄嗟に、まだ自由が利く腕で背後のバルドを突き飛ばした。
「もう! いい加減離しなさいって!」
「うお…っと。……突き飛ばす事ねぇだろ」
「一度やってもらえば分かるわよ。ちゃんとするから、アンタもほら作業に戻って!」
やれやれと手を挙げたバルドを呆れた顔を装って睨み付けると、バルドは「はいはい」と己の作業に戻っていった。その後姿を眺め、
はぐっと両手を握り締めた。
(……また、来た――)
痺れは、バルドから離れた瞬間にスッと収まっていった。何者かに乗っ取られていくような、あの感覚。それが二日続けて続いたという事は……もう、偶然だとは思えなかった。 共通点はとにかく「殺せ」という強い思念が送られてきて手が勝手に動こうとする事、そして前回も今回もバルドに接触していた事……くらいだ。何がどうなっているのかさっぱり分からない。
これもリークスが、
に施した術だというのだろうか。だとしたら、何のために……? いつ発動するともしれない自分自身の変化に、
は困惑すると奥歯を噛み締めた。
朝食の準備が終わった頃に、厨房に突然ラゼルが現れた。いきなり現れた悪魔に目を丸くした二匹に、ラゼルは告げた。リークスの事と
に現れた痣について話したい事があるから、食堂へ来いと。 朝食場所を待合室に替えて皿を運ぶバルドの代わりに、
は他の猫たちを呼びに行く事にした。
コノエは既に食堂へ降りていて、アサトは部屋にいなかった。
はライの部屋の前に立つと、ごくりと唾を飲み込んだ。
……ライとは昨日、コノエを追うために話し途中で分かれてしまったきりだ。それ以降は熱を出して話せなかったし、何よりも――先日言われた事への返事をまだ返していない。 何もかもが中途半端になってしまっている事に申し訳なさを抱きながら、
は扉をノックした。
ライは、部屋の中にいた。
が大まかな状況を説明すると、降りてきてくれるという事だった。とりあえず怒ったり無視されなかった事に
が安堵すると、ライは扉にもたれてじっと
を見下ろしてきた。
「……答えは、出たか」
「……!」
――来た、と思った。静かに自分を見つめる薄青の瞳を見上げると、
は静かに口を開いた。
「……出たわ。――ごめんなさい。……私、アンタとは一緒に行けない」
「…………」
――これが、あれから考えた末に出した答えだった。
おそらく曖昧なままでいれば、ライは必ず手を差し伸べてくれただろう。さりげなく
を支え、気遣って優しくしてくれただろう。 ……けれど、それに甘えて寄りかかったまま自分の気持ちをはぐらかしているのは……ライに対して、とても失礼で卑怯な事だと思った。だから、
ははっきりと口にした。
ライの沈黙が痛い。だが、言わなければ。
はライから目を逸らさないまま、言葉を重ねた。
「アンタの言葉……本当に、本当に嬉しかった。はっきり言って、かなり揺らいだわ。……だけど、私……やっぱりバルドに関わるのをやめたくない」
「……そうか。お前が出した結論ならもう俺は何も言わん。……だが、ひとつだけ聞かせろ。忠告を重ねてもなお、何故お前はあいつの側にいようとする?」
静かに
を見下ろしていたライが、低く呟いた。ライが他者の事について尋ねてきた事に少々驚きながらも、
はふと考え込んだ。
――何故? ……なぜだろう。怒りを覚えた事も呆れた事も沢山あるはずなのに、なぜ自分はバルドから離れたくないと思うのだろう。それはきっと――
「……放っておけないから、かな……」
「……何?」
ぽつりと呟いた
に、ライが眉を寄せる。
はライを見上げると、眉を下げて苦笑いを浮かべた。
「……アイツ、ほんっとどうしようもない猫だわ。すぐヘコむし、何か色々抱えてグダグダ悩んでるし、どうにかしようと思ったら色んな事に逃げようとするし……。オヤジのくせに、子供みたいに融通が利かない。……アンタ風に言うなら、ダメ猫ってとこかしら」
「…………。否定はせんが……」
の言いように、ライは沈黙をもって応えた。だが
は「でもね」と続けた。
「……優しいわ。それに、弱さもあるけど他者の弱さを許容する心を持っている。私は何度も、バルドがいてくれて良かったって思ったわ。支えられたって……思った」
「…………」
「昨日もね……アイツ、歌うたってくれたのよ。刹羅の子守唄。……アンタにも歌ってあげたって、言ってた。そういう事ができる猫だって知ってるのは、私だけじゃないわ。……きっと」
静かに呟いた
が瞳を覗き込むと、ライはわずかに眉を寄せた。……だが否定はされない。 自分の意見を押し付けないように軽く目を伏せると、
は口元に小さな笑みを浮かべた。
「そういう所に気付いちゃうと、もう駄目なのよ。アイツが悩むのも、逃げようとするのも……本当は今の自分をどうにかしたくて足掻いてるからなんだって気付いて……目が、離せなくなった」
ライは変わらず沈黙している。
は一旦言葉を切ると、バルドのいる階下の方に目を向けてからライを再び見上げた。
「……救う事なんてできないわ。だけど側にいてバルドを見守る事はできる。アイツがどんなに危険でも構わない。……側にいたいって、思ったの。だから――ゴメン」
「…………」
が全てを話し終えても、ライは沈黙していた。値踏みするような冷えた眼差しで
を注視した後、ライは短く溜息をついた。
「……阿呆猫」
「! ……そうね。……本当に、どうしようのないくらいの阿呆猫だわ、私」
「……ふん」
呆れた言葉にハッと顔を上げると、そこに含まれた優しい響きに
はわずかに微笑んだ。
ライはさっさと踵を返すと、階段を降りていってしまった。その後姿に向けて
は静かに頭を下げると、ライに続いて食堂に足を踏み入れた。
食堂には既にほぼ全員が揃っていた。一匹足りないと首を傾げると、窓からアサトが現れて
は唖然とした。……いつもの事だが。 話し合いはまず、コノエに再び現れた痣の事から始まった。一通りを話したコノエが
をちらりと見遣る。
は頷くと、上着の裾をそっとまくり上げた。
「私にも……痣が、現れたの」
コノエと
の痣は、今度は悪魔たちではなくリークスの力によるものであるらしかった。最後の時に向けて力を強めているリークスの居場所が、分かるようになってきたと悪魔たちは言う。そしてその「最後の時」とは月が重なる時、もしくは雪が降った後ではないかとのライの推測であった。
「結局、今は力を蓄えておくしかないって事ね……」
全て話が終わり、悪魔たちが各々消えてしまうと
は長く息を吐きながら呟いた。今はこちらからは動けないと言う事か。 すると
と並んでいたバルドが、険しい顔をしていたライに「おい」と呼び掛けた。……何か話があるのだろうか。
だが待てどもバルドは重く黙り込んだまま、言葉を発しようとしない。そのまま出て行こうとしたライを
が呼び止めると、ライはつかつかと
に歩み寄ってきた。
「ラ、イ――んっ!?」
「……おい!」
呼ぶ声が遮られたのは、途中でライに唇を奪われたからだ。一瞬だけ
の唇を掠めたライを見て、隣のバルドが目を剥く。というか、残ったコノエもアサトも目を見開いていた。
「……餞別だ」
「は!?」
告げられた言葉に
が目を丸くすると、ライは踵を返して扉へと向かった。そして部屋を出る寸前に振り返ると、バルドに向けて低く告げた。
「……二度と、同じ過ちを繰り返すな。……ダメ猫」
「……今のは、一体どういう意味だ」
「さぁ……」
残された
とバルドは、ぽかんとライの消えた扉を見つめていた。 わずかに触れられた唇に指を添えると、
は今の言葉の意味を考え込んだ。全てが分かるはずもないが――悪い意味では、なかったように思う。 そんな
を、バルドは複雑な眼差しで見下ろしていた。
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