2、おやすみ






 
自室に戻ったコノエははじめこそ発情の波が去って心地よい気分だったが、徐々に身体にだるさを感じてきて早々に床についた。

 頭がぼうとして視界が揺れる。……どうやら発熱してしまったらしい。
 眠れば熱も冷めるだろうとコノエは瞼を閉じたが、安息の眠りはなかなか訪れてはくれなかった。
 瞳を閉じれば―――今日の出来事が、鮮やかに脳裏に甦ってきた。


 初めての、発情期。その耐え難い苦しさと衝動を散らしてくれたのは―――まだ知り合って日も浅い、年上の雌猫だった。

 労わるように、気遣うように振舞っていた が「限界」と呟いた時、コノエはその心中に焦燥と情欲が滲んでいるのをようやく感じ取った。

 自らの身を苛む苦痛と、何よりも胸の奥で密かに憧憬を抱き始めていた相手の扇情的な仕草に、コノエは突き崩されて我を失った。
 今日に至るまで考えもしなかった行為に耽溺する自分が滑稽で、それでもやめる事が出来なかった。


 達した後、頬にコノエの欲望を滴らせて振り向いた の表情が忘れられない。
 とろんと潤んだ目、半開きの唇、すんなりとした剥き出しの脚。……発情期によるものではない衝動が沸き上がり、コノエは咄嗟に目を逸らしたのだった。



 初めてまともに接した雌猫は、雄よりも小さくて弱そうな外見に反して、気丈で心の強い猫だった。
 コノエの呪いは解けると言い切り、ライや悪魔やそしてリークスとも真っ向から相対する猫。
 決して優しいだけではなく、しばしば厳しい物言いをしたり醒めた目をしている時もあった。時々子供……というより聞き分けのない弟をなだめるように扱われて、苛立ちを感じる事もあった。

 それでも自らの置かれた状況を受け入れて次の行動を選択しようとする姿勢や、仕事に注ぐ真摯な情熱はコノエにとって憧憬に値するものだった。


 ―――それなのに。そんな猫に雄としての邪な感情を抱くなんて。


  に触れて、本能が刺激された。もっと触れてみたい、もっとその体温を感じたい、もっとその声を聴きたい―――そんな想いに心が支配され、コノエは動揺した。

  は雄に追われてこの藍閃までやって来た。今回はたまたま発情期が重なってコノエに付き合ってくれただけだろうが、こんな感情を に向けるのはきっと迷惑でしかないだろう。


(でも――― から嫌がる感情は流れてこなかった、な……)

 次第に熱で朦朧としながら、コノエはぼんやりとそんな事を思った。都合の良い解釈だと割り切る前に、意識は暗い淵へと沈んでいった。











「―――? …… ……?」

「あ、起きたのね。具合はどう?」

 次にコノエが目を覚ますと、みちしるべの葉のほのかな光を纏って暗がりから白い顔が覗き込んできた。怪訝に思いながらも目を凝らすと、 が心配そうに見下ろしているところだった。

 敵ではなかった事に安堵を抱きながらも、あれから初めて顔を合わせる を直視できず、コノエは咄嗟に目を逸らした。


「どうって……平気、だけど。それよりアンタ、何でここにいるんだ」

「夕食に来てなかったから、何かあったかと思って寄ったら熱出してるんだもの。今バルドに薬湯頼んで来るからね」

 ぶっきらぼうに答えた自分に対し、 はいつも通りの口調で告げた。……これが余裕というものだろうか。経験の差を感じて、コノエは若干憮然となった。そんな様子を見て、 が小さく口を開く。

「ごめんね……なんか、無理させたみたいで……」

「…………」

 ―――それは普通、雄の自分が言う台詞ではないだろうか。
 コノエは咄嗟に反論しようとしたが、何を言っても恥ずかしい事態になってしまうような気がして結局ブスッと黙り込んだ。

  が項垂れる気配がする。子供っぽい真似はやめようと思うのに、羞恥が邪魔をしてなかなか顔を上げられない。



「……起こしてゴメン。じゃあ行くから、しっかり寝て―――」

「アンタが謝るような事は何も―――、ッ!!」

 申し訳なさげに呟いた が部屋を出て行こうとする。それを呼び止めようと咄嗟に身を起こしたコノエは、次に強い殺気を感じてゾクリと身を竦めた。

「―――ッ! ……コノエ、こっちに来て。……剣、借りるわよ」

 目を見開いた がコノエの腕を掴む。存外に強い力で寝台から引き摺り下ろされると、 の纏う空気が一変した。コノエを庇うように立った が窓辺をきつく睨む。その直後、窓を割って黒い塊が部屋に飛び込んできた。

 感情の共鳴による激しい苦痛の中、 がコノエの剣を掲げて敵の猫と組み合ったのをコノエは呆然と見上げた。


「コノエ、逃げなさい! コイツの目的は君でしょう!!」

「……ぐッ……」

  が叫ぶが、胸を掻き毟るような殺気に当てられてその場から足が動かない。
  は敵……冥戯の猫の剣を何とか受け流している。剣を扱う生業なだけあって、その手捌きは慣れたものだ。
 だが は雌だ。速度で勝っていても、段々と力負けしていくのが目に見える。歌で支援しようにも、 も賛牙だから力を送る事もできない。

(どうする―――!?)

「あーもうしつこい! いい加減に―――ッ、え!?」

 だがコノエと の葛藤は、突然室内に巻き上がった赤い炎によって唐突に遮られた。立ち上る炎に冥戯の猫が声なき悲鳴を上げる。
 コノエと が呆然として視線を向けると、炎の中から憤怒を司る悪魔―――ラゼルが姿を現した。


「ラゼル……!?」

 突然現れた悪魔の姿に猫は明らかに怯んだが、唸り声を上げて今度は殺気をラゼルへと転じた。
 その気配を感じない訳がないだろうに、ラゼルは猫には一瞥もくれずにコノエと に向けてゆったりと笑みを浮かべた。

「……少々小うるさい気配を感じたんでな。加勢してやろう。―――去れ、地に伏せる畜生よ」

 豊かな低音を響かせて、ラゼルが手の中に光球を生み出す。そのまま軽く手を振ると、炎は猫の胸に当たった。その途端に強い炎が立ち上がり、猫を呑み尽くしていく。

「……ぐあ…ッ!」

 急激な激痛にコノエはたまらずしゃがみ込んだが、それは長くは続かなかった。炎を纏った猫は、悲鳴を上げる事も抵抗する事もできずに―――崩れ落ちて、あっという間に消滅した。


「…………」

「…………」

 何事もなかったように静まり返った室内で、コノエと は目を見開いた。またしても圧倒的な力の片鱗を見せつけられて、言葉も出てこない。

「他愛のない。……邪魔したな」

 つまらなさそうに呟いたラゼルが姿を消す。それから数秒たって、 がよろよろとコノエの剣をようやく下ろした。


「何だったの……? ていうか、来るなら早く来なさいよ……」

「……すごい、な。けど……それよりアンタ、大丈夫か? 怪我したりしてないか?」

 ラゼルの力に呆然としたが、それよりも今は自分を守ろうとした の安否が気になる。コノエが問い掛けると、 は首を振って微笑んだ。

「うん、大丈夫。……コノエはやっぱり具合が悪そうよ。多分今夜はもう大丈夫だろうから、横になった方がいいわ。私は薬湯を頼んで来るから」

「ああ……」

 タフな雌猫の様子に少々情けない思いをしつつも身を苛む熱には抗えず、コノエは荒い息をつくと再び寝台に潜り込んだ。







「ゴメン。俺、本当に役立たずで……」

 数分後、 が持ってきた薬湯を飲み干したコノエは腕を目元に当てて悄然と呟いた。 が覗き込む気配がするが、今は顔を見られたくなかった。
 相手の感情に乱されて、あげく雌や悪魔に守られて……情けなかった。

「……そんな事、ないと思うけど。誰だって体調の悪いときはあるわ。気にする事ないわよ」

「…………」

 優しい声で言われるが、到底頷く事はできない。そのまま口を噤んでいると、僅かな空白の後に「ふむ」とよく分からない の溜息が聞こえてきた。


「……私の方が力、貰ってるのにな……」

「……?」

 呟かれた言葉の意味をはかりかねてコノエが怪訝に腕をずらすと、穏やかに がこちらを見下ろしていた。 はうっすらと目を伏せると、コノエに代わってその手をコノエの目元へと伸ばしてきた。
 みちしるべの葉の光が遮断され、代わりにほのかな温もりがコノエの額を覆う。一瞬息を詰めたが、 から流れてくる穏やかな感情に導かれ、コノエは緩く息を吐き出した。


「ねぇ。明日の午後、図書館に行こうと思うの。……付き合ってくれる?」

「? ……いいけど。何か読みたい本でもあるのか?」

 突然の からの申し出に、コノエは少々困惑しつつも了承で返した。ゆっくりと が頷く気配がする。

「そうね。こないだの本をもう少し詳しく読みたいし、君と調べたい事もあるし……。でもそれだけじゃないのよ」

「……?」

「その後、おいしいものを食べに行くわ。私が案内してあげる。それからお店をハシゴして、トキノの所にも寄って―――」

「アンタ、そんなに出歩く気なのか? ……俺が一緒で、いいのかよ」

 どうやら は明日、徹底的に藍閃を巡る事に決めたらしかった。
 それは構わないが、その同行者が自分などで良いのだろうか。ライやバルドのようにもっと腕も知識もある猫の方が良いのではないだろうか。
 コノエが問うと、 は再び頷いた。小さく苦笑したようだった。

「君が、いいのよ。言っとくけど勿論買い物をするから、君は荷物持ちね。だから今日は変なこと考えずにさっさと寝て、明日に備えてちょうだい。……役立ってもらうんだから」

「…………」

  がおどけて呟いた言葉が、胸に響いた。沈みそうな気持ちを引っ張り上げる、何気ない言葉。……だがその言葉が、いつも胸に染みていくのを自分はもう知っている。

「何だよそれ。……アンタ、結構横暴だよな」

 コノエは緩みそうになる口元を引き締めると、ぶっきらぼうな口調を装って口を開いた。目元に置かれた手が「ふふ」という笑い声と共にわずかに震える。



  はそっと手を引くと、「おやすみ」と小さく告げて去っていった。目を開けずともその目が穏やかに細められている事を感じながら、コノエは再び眠りへと落ちていった。







 

 

 

 

 

 

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