「コノエ……!」

「…… ……?」

 明け方近く、宿の受付には猫二匹の密かな声が響いた。




      5、叫び T  - Side コノエ -




 結局 は、あの後一睡もしなかった。誰よりも真っ先にコノエを迎えたい、そう思った は深夜の受付でひとりその帰りを待ち続けた。そして白々と夜が明け始め、森に探しに入ろうかと思っていた矢先に待ちかねた姿が扉をくぐったのだった。

「なんでアンタ、こんな時間に……」

「――ッ。……コノエ…っ」

「うわ…っ、 ……!?」

 コノエが驚きの声を上げたのは、突然 が抱き付いたからだ。受け止めきれず、コノエが思わずよろける。 はコノエのものでしかありえない声色を聞き、感極まって瞳を閉じた。

「……お帰り」

「……? アンタ――」

「なーんて、ね! ……アハハ、酔っ払ってるのかもー……」

 わずかな囁きにコノエが訝しみを示した次の瞬間、 は先手を打って嘘を口にした。ついでとばかりに締まりのない笑みも浮かべる。

 コノエが困惑するのが伝わってくる。だが例え下手な嘘をついても、道化になっても……「コノエ」が帰ってきた事を、全身で確かめたいという思いを抑える事ができなかった。できれば、なるべくコノエが負担を感じない方法で。

「…………。……放…せよ! そんな簡単に、雄に抱き付いたりするなよ…!」

 だがコノエはしばらくは固まってなすがままになっていたが、突然 の身体を突き放した。思わぬ強い力に は驚いたが、逆らわずにその腕を放した。

「あ……悪い――」

「ううん。こっちこそゴメンね! ……やっぱり酔ってるみたいだから、私ももう寝るわ」

 赤い顔をしたコノエが、申し訳なさそうに目を逸らす。 はそれを刺激しないように笑顔で首を振ると、踵を返した。
 無事が確認できただけで今は取りあえず満足だ。追求は、コノエの不安を煽るだけ――


「――待てよ! アンタ、何かあったんじゃないのか……?」

「……っ」

 だが背後から掛けられた声に、 は思わず足を止めそうになってしまった。

 ……まさかコノエは、知っているのだろうか。リークスに乗っ取られていた間に、 と接触した事を。その会話の内容を。
 だが過去の出来事に対する確執については、 とリークスの問題であってコノエには関係ない事だ。これ以上コノエの心労を増やす事もあるまい。
  は振り向くと、首を傾げて小さな笑みを浮かべた。

「ううん? 何もないわよ、心配してくれてありがと。……君も早く寝た方がいいわよ」

「……っ」

 わずかに眉をひそめたコノエの顔を一瞥して、 は二階へと続く階段を上った。



「アンタ、馬鹿だ――。嘘なんかついたって、すぐに分かるのに……!」

 残されたコノエの小さな呟きは、 の耳には届かなかった。










 翌朝、 は朝食の準備に食堂で皿を並べていた。眠そうな顔をしたバルドが料理片手に入ってくる。

「ふあ〜、眠っみぃなあ……。そういやコノエ、結局帰ってきたのか? 待ってたんだろ」

「うん。明け方頃に帰ってきたわよ。別に何でもなかったみたい」

「そうか。……ま、良かったなぁ? やつれる前に戻ってきて」

 バルドの大きな手が、 の頭をくしゃくしゃと撫でる。乱雑な動きに文句を言いながらも、 の顔はコノエが戻ってきたという安堵に自然と綻んだ。

「もー、掻き回さないでよ。いい加減に――あら? おはよう、コノエ」

 そのとき食堂の扉が開いて、コノエが姿を現した。じゃれる二匹を認めたコノエの頬が、かすかに強張る。それには気付かなかった が明るく声を掛けると、バルドも「んあ?」と顔を向けた。

「お? ああ、おはようさん。何だあんた、また暑っ苦しくフードなんか被って」

「……おはよう……。別にいいだろ、アンタには関係ない」 

 コノエがぷいと顔を背ける。その素っ気ない態度にバルドは目を見開いたが、やがて何か閃いたように口を緩ませると から手を離してコノエへと近寄った。


「……あまり妬くなよ。 は俺なんか見ちゃいないさ」

「……!」

 バルドが立ち去る瞬間に小声で交わされた会話は、勿論 には届かなかった。






「あーあ。きっと私、いま髪グシャグシャね。オヤジは手加減を知らなくて困るわ」

「…………」

 バルドの運んだ料理を盛り付けながら、溜息をついた が話し掛ける。コノエは入り口に突っ立ったままだったが、 は気にせずに当たり障りのない話題を選んで穏やかに話を続けた。

「そういえば随分早いわね。なんか眠ったって気がしないけど、大丈夫?」

「…………」

「あ。昨日ね、トキノに花冠を二つ貰ったのよ。一つはコノエに、って言ってたから後で部屋に届けるわね」

「……なんで、聞かないんだよ……」

「え?」

 ちょうど盛り付けを終えた頃、俯いていたコノエが小さく声を発した。聞き取れなかった が問い返すと、コノエはわずかに顔を歪めていた。

「……昨日俺が何してたとか、なんで約束を破ったとか……なんでアンタは聞かないんだよ……!」

「…………。別にいいわ、一度くらい。無事で帰ってきてくれたならそれでいい」

 突然声を荒げたコノエに は目を見開いたが、短い沈黙の後に正直な気持ちを告げた。だが、コノエはそれを拒むように強く首を振った。

「昨日の事を気にしてるの? だったら今日付き合ってくれればそれでいいわ。あ、バルドにいい蔵書の位置を聞いていくのもいいかも――」

「――ッ、やめろよ!!」

 重ねるように提案した の言葉は、コノエの激昂によって遮られた。食堂に響いた悲痛な叫びに、思わず の身が竦む。 

「やめろよ! なんでいつも、そうなんだ。アンタ、昨日俺がリークスに乗っ取られてたの、知ってるんだろう!? だったらそれを聞けばいいだろう! なんでそうしないんだ!」

「コノエ……?」

「アンタいつもそうだ。そうやって俺の知らないうちに俺を守ろうとする。俺を甘やかして、優しい言葉を掛けて――俺は、俺はアンタにとって、庇護される対象でしかないのかよ……!」

「コノエ、それは違う――」

「――違わない!」

「…ッ!」

 思わず差し出した の手は、コノエによって振り払われた。コノエは一瞬後悔するような表情を見せたが、歯を食い縛るときつく目を閉じた。

「アンタは俺を、対等な雄として見ていない! そうだろう!? だってアンタは俺には頼らない。アンタが頼るのはいつだって、バルドやライみたいに物知りで力も強い猫だ! 俺とは何もかも違う……!」

「…………」

 激情を吐き出したコノエは、静かに顔を伏せた。泣きそうな顔で、続く言葉を搾り出す。

「俺は……俺はアンタにとって、何なんだよ。弟みたいなものかよ。俺だって、雄なのに……!!」

「コノエ……」

「……図書館だって何だって……あいつらと行けばいい……」


 叩きつけられたコノエの言葉に、 は圧倒されて声も出なかった。コノエが荒く息をつく。沈黙に支配された空間は、次の瞬間低い声によって破られた。


「……おいおいコノエさんよ、さすがにそれは言い過ぎだろう」

「! ……あ――」


 いつの間に入ってきたのだろう。バルドが扉を背後に、料理を抱えて佇んでいた。コノエがハッと目を見開く。そのまま呆然としたように固まってしまったコノエに、バルドが小さく溜息をついた。

「さっきは言い方が悪かったな。こいつが見てんのは、あんただよ。昨日もずっと、 はあんたの帰りを待ってたんだ。……分かってやれよ」

「あ――俺……。――ッ、ゴメン……!」

「コノエ……!?」

 バルドの言葉に瞠目したコノエは、 を一瞬だけ振り返ると顔を伏せて食堂を飛び出した。黒い鍵尻尾がちらりと見える。
 残された とバルドは、脱兎のごとくコノエが通っていった扉をぽかんと見つめていた。



「あ〜あ、行っちまった。……若いねぇ……」

「…………」 

 皿を置いたバルドが、 をちらりと見る。呆然とした様子の に、バルドは申し訳なさそうな顔を向けた。

「悪い。……俺が焚き付けちまったかもしれん」

「……バルド。私……コノエを今まで傷付けていた――?」

「あん?」

「弟だなんて思ってもいなかったけど……私、コノエのプライドを逆撫でしてたの……?」

 振り向いたコノエの、傷付いたような瞳が忘れられない。
  の呟きにバルドが眉を寄せる。苦渋の表情を浮かべた と見て、バルドは頭を掻いた。

「……いや、そんな事はないだろう。あんたのそれは、自然に行動した結果のものだろ? だから何もおかしい事なんてない。……ただな、あの位の歳の雄ってのは……なんだ、色々と背伸びしたがる頃なんだよ」

「……?」

「だからな、カッコつけたがる時期なんだよ。特に雌に対してはな。……自分ばっかり心配されるのは嫌なんだろう。頼ってほしい、あんたの悩みも分けてほしいって、あいつは叫んでたんだよ。……雄らしい心構えじゃないか」

「コノエが……」

 あの悲痛な叫びの裏には、 を心配する気持ちが隠れていたのか。バルドに諭されて はようやく理解した。コノエの――葛藤を。
  が見上げると、バルドはゆっくりと頷いた。

「あんたの優しさくらい、コノエだって本当は分かっているさ。ちょっとヤキモチ焼いて、素直になれないだけだろう」

「……ヤキモチ?」

 思いがけない単語に が眉をひそめると、バルドは緩く笑って頷いた。

「そ、ヤキモチ。あいつの言葉、実はかなりドキッとしたんじゃないか? ……あんただって、うすうす気付いてんだろ。コノエがどういう目で、あんたを見ているか」

「…………」

 穏やかなバルドの口調に は息を詰めたが、やがてうっすらと顔を赤らめた。全く気付いて……ない訳ではなかったが、それをこんな時に指摘されても素直に頷く事は出来なかった。

「まあ、今はそれはいい。……とにかくあいつ、今頃道端ですげぇ後悔してるぞ。そういう若さも引っくるめて、あんたがガツンと受け止めてやりゃあいい。――行ってやんな」

「バルド――、……うん……!」

  はバルドを見上げると、決意を込めて頷いた。そしてそのまま、コノエを追って宿から飛び出した。



「若いねぇ……。あーあ、俺ってつくづくいいオヤジ……」

  という従業員を失ったバルドは、その後ぶつくさと呟きながらも朝食の準備をひとり進めた。心なしか、その顔はどこか満足げだった。
















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