6、叫び U  - Side -




「最悪だ、俺……。ホント、どうしようもない……」

 宿から飛び出したコノエは、猫気のない裏路地で壁に手を付いて項垂れていた。


  に酷い言葉を叩き付けてしまった。あんな事を言うつもりじゃなかったのに。

 本当は、落ち着いたら昨日の事を謝ってさりげなくリークスとの接触について聞いてみるつもりだった。 の疑問に思う事を、自分が分かる範囲で伝えてやりたいと思っていた。……それなのに。
 バルドに撫でられて安らいだ表情を浮かべる を見て、自分の中の何かが爆発した。

 ……今までにも予兆はあった。澱のように心に溜まる、わずかな予兆が。

 他の猫に比べて、自分が にしてやれる事はあまりに少ない。
  がコノエを守るのは、 自身を他の猫が守っているからだ。だから は無意識的に自分の事よりもコノエを優先しようとする。それは、何も物理的な事に限ってではなかった。

  がライやバルドやアサトに自然と背中を預けているのが分かり、コノエはいつも自分の非力さが悔しかった。そして を守れる猫を羨んだ。

 そんな焦りとわずかな嫉妬にくすぶる心を更に追い詰めたのは、昨夜のリークスの言葉だった。
 自分と を追い詰めるリークスへの怒り、そして が血縁者かもしれないという可能性への絶望で、コノエはもう に対してどんな距離でどう振舞ったらいいのか分からなくなった。
 そこに止めを刺したのが――コノエを守ろうとする、 の優しい振る舞いと嘘だった。


「違う…… は何も悪くない……」

  はコノエを思って行動しているだけだ。自分が責める所など、どこにもありはしない。
 そんな に子供じみた嫉妬を叩き付けた。そしてあまつさえ、差し伸べられた指を拒絶した。

(謝りたいけど……もう、呆れられても仕方ない、な――)

 壁に背を預けてずるずるとしゃがみ込んだコノエは、聞こえてきた声にぼんやりと顔を上げた。



「……コノエ……!」

「! ―― ……?」


 宿の方向から、フードを被った小柄な影が駆けてくる。猫はコノエに気付くと、一層その足を速めた。
 雌猫がコノエの前に立つ。コノエも思わず立ち上がると、息を乱した を呆然と見つめた。

「アンタ、なんで……いやそれよりも――」

「コノエ……ごめん……!」

「!?」

 驚きながらも謝罪を口にしようとしたコノエは、先手を取って に謝られて目を剥いた。何故 が謝るのか。

「コノエ、私……間違ってた。コノエに心配かけまいとして嘘をついたけど……それはコノエが心配して、苦しむって決め付けてたからかもしれない。コノエの力を、自分の中で勝手に推し量ってた」

「…………」

 耳を下げた が神妙な顔で言葉を紡ぐ。告げられた内容にコノエは呆然とした。

「君は私の亊、心配してくれたのに。ちゃんと聞こうとしてくれたのに、私はそれを遮った。コノエは……私に庇護される対象なんかじゃ、ないのに」

「……なんで…アンタが謝る事なんて、何もないだろ……? それを言うなら俺の方が――!」

 どうして、この猫が謝るんだろう。一方的に怒ったのは自分の方なのに。
 震える声で に頭を下げようとしたコノエは、だが路地の奥から聞こえてきた低い声によって己の行動を妨げられた。


「そこにいるの…… か――?」

「……? ――っ……」


 怪訝な表情を浮かべた が、顔を強張らせた。コノエの知り合いの猫の声ではない。ならば の知り合いだろうか。
 だが は一言も発さずに、フードで顔を隠すように俯いてしまった。そんな を見て、中背の若い雄猫が足早に近付いてくる。

「なあ、 だろ? なんでお前、藍閃なんかにいるんだよ」

「……猫違いじゃないのか。俺はお前など知らん」

 低い声を作って呟いた が、背を向けて歩き出す。だがその腰に下げた剣の鞘先を、雄猫が無遠慮に掴んだ。

「そんな訳あるかよ。この剣、この紋……お前、鳥唄の だろ? 間違えるはずがねえ」

「…………」

 剣を掴まれた は、舌打ちをして足を止めた。観念したように顔を上げる。
 それまでの出来事を呆然と眺めていたコノエは、今まで見た事もない の冷えた表情に思わず息を呑み込んだ。同時に、冷たい感情が流れ込んでくる。


「……なんか用? 私はアンタに用なんてないから、放してほしいんだけど」

「おいおい、久し振りに会ってそれはないだろう。……一年振りか? 俺が村を出て以来だから――」

「触らないで。……知らないわ。アンタが藍閃にいるなんて、思いもしなかったけど」

 図々しくフードに触れようとした雄猫の手を、 が鋭く払う。雄猫は舌打ちすると、今度はにやついて の顔を下から覗き込んだ。
 ……どうやら酔っているらしい。だがその行動は、到底コノエが見過ごせるものではなかった。

「だからそれは、俺の台詞だっての。なんでお前こんな所にいる? 確か鳥唄も、雌の捕獲が始まったはずだろう」

「…ッ。……剣を卸しに来てるだけよ。もう鳥唄に帰るわ」

 ――捕獲。まるで獲物を捕らえるような言い方に、コノエは目を見開いた。 が動揺したのが伝わってくる。だが は歯を食い縛ると、震えを隠して口を開いた。

「嘘だな。……お前、逃げたんだろう? チッ、つっかえねー雌。村に残ってりゃ、種付けくらいには使えたのによ」

「……なんですって……」

 雄猫の暴言に、とうとう が低い呻き声を発した。だがそれにも気付かないように、酔った猫は言葉を重ねていく。

「ま、どうせコッチでも似たような亊やってんだろ? 客でも取んなきゃ雌一匹じゃやってけねーもんなぁ? 教えろよ、どこで働いてんのか――うぷッ!?」

「コノエ!?」

「お前――いい加減にしろよ……!!」

 己の怒りと から流れてくる怒りの感情に押され、コノエは咄嗟に剣を抜くと雄猫の胸へとそれを突き付けていた。
 無防備な雄猫が目を見開く。だがそこは腐っても猫、そのまま倒れることもなく雄猫は気圧されたように一、二歩後ずさったのみだった。

「は、は……そのガキが新しい情猫か? どっちが娼婦だか分かんねぇ――ヒッ!?」

 再び雄猫が悲鳴を上げたのは、今度は が剣を引き抜いて切っ先を首へと押し当てたからだ。……いや、違う。もう皮一枚切って、わずかに血が流れている。
  は底冷えするような眼差しで雄猫を睨むと、静かに口を開いた。

「逃げようとしたら、斬るわ。彼を馬鹿にするのは許さない。……一つだけ、答えなさい。アンタは今後、鳥唄に戻ってくる?」

「……は、はあッ……? も……戻らねぇよ。あんな片田舎、雌も少ねーし誰が戻るか……ってオイ、冗談だろ? 剣下ろせよ……!」

 脂汗を流した雄猫が、怯えたような声を上げる。 は瞬きもせずに剣をぴたりと沿えたまま、厳かに告げた。

「鳥唄にも確かにロクでもない奴がちらほらいたけど、アンタは群を抜いて極め付けのカスだわ。もう二度と会う事もないでしょうけど、もう一度顔を見るような事があったら……その時こそ殺すわ。今は同郷のよしみで殺さないでいてあげる。だから――消えて」

「ヒ……」

 本物の殺気を纏わせた の声に、雄猫は息を呑むと身を翻して逃げていった。間抜けな後姿が、路地裏からあっという間に消える。
 コノエは剣を鞘に戻すと、いまだ抜き身の剣を下げたままの を静かに振り返った。



「あの…… ……」

「…………」

  が俯く。その表情はフードから零れた金の髪に覆われて見えなかったが、 から流れ込んでくる感情にコノエは胸が締め付けられそうになった。

 怒りと、悔しさと、絶望と……何よりもそれらを凌駕する、哀しみ――
 様々な負の感情が、 の中に吹き荒れている。雌猫は嗚咽を漏らしても涙を浮かべてもいなかったが、 が泣いている事をコノエははっきりと感じ取った。慟哭している。叫んでいる……。


「あんな、言葉……今までも言われ慣れてるのにね――」

「……!」

 酷い言葉だった。あれは言葉などではない、もはや凶器だ。
 火楼に雌はいなくとも、若い雌猫がどのような状況にあるか何となく分かったつもりでいた。だが全然そんな事はなかった。想像以上の酷さだ。
 雌を「道具」としか見ていない身勝手な雄の言葉。だがそんな言葉を、 は今までにも受け止めてきたと言うのか。

「なんか……今日はダメだった……。我慢できなかった……」

 剣を収め、弱々しく呟いた が頭を振る。俯いたその身体が急に遠いものに感じられて、コノエは咄嗟に手を伸ばした。

「我慢なんて、しなくていいだろう……!」

「! コノエ……!?」


 項垂れる を抱き締める。
 ……どうして自分は、こんな事をしてるんだろう。雄猫に傷付けられた にとって、こんなのは苦痛でしかないだろうに。コノエはそう思ったが、もはや衝動を止める事は出来なかった。


「アンタは我慢なんてしなくていいんだ! 雄に対して、もっと怒ればいい。ふざけんなって言えばいい。斬りたかったら……斬ればいいんだ! こんなに傷付けられてるのに……!」

「……っ」

 抱き締めた肩が震える。ああ、この猫はこんなに小さかったのだろうか。こんな身体で――自分を守ってくれていたのか。

「アンタ、相手の事ばっかり考えて……いつも自分は後回しだ。そうじゃないだろ? アンタにもたくさん悩みとか怒りとか、あるだろ……?」

 考える間もなく、言葉が勝手に口をついて流れる。コノエはわずかに腕の力を弱めると、額を の肩へとそっと押し当てた。……そう、あの発情期の日に がそうしてくれたように。自分も に安堵を与えられるように。

「そういうの……抱えてないで、俺にも分けてくれよ。俺にもアンタを、守らせてくれよ――」

「…………」


 ――雄とか雌とか、年上とか年下とか、血が繋がってるかもとか、本当はそんなの何も関係ない。
  が誰かに守られているとか、自分の力が足りないとか、そんな事は問題ではないのだ。

 大切な猫が…慕っている猫が、目の前で傷付いている。傷付けられている。
 それを見過ごすくらいなら、死んだ方がマシだと思った。死ぬくらいなら――生きて、守りたい。そう、自分はこの猫を守りたいのだ……!


「――っ」

 硬直していた がわずかに身じろぎする。突き放されるかと一瞬怯えたコノエは、だが上着を軽く引っ張られて目を見開いた。 が……コノエに縋っている。

……」

  の発する怒りと哀しみに満ちた感情が、少しずつ鎮まっていく。やがてそれが周囲の空気と同化する頃、かすかな声がコノエの耳を震わせた。


「……コノエ……ありがとう――」

「……違うよ。それを言うなら俺の方こそ――本当に、ごめん……」










 路地で抱き合っていた二匹は、やがてどちらともなく身体を離して静かに照れ笑いを浮かべた。
 わだかまりが全て解けた訳ではないが、それはこれから話していけばいい事だ。まずは心配を掛けたバルドの所に戻ろうと、コノエが に手を差し伸べたその時――傍らの が、苦悶の声を上げて路地に蹲った。

!?」

「……ッ、あ……!」

 外だという事もあり、これでも悲鳴を必死に堪えたのだろう。歯を食い縛った は、顔を歪めながら右の太腿をきつく押さえ付けていた。

「足……どうかしたのか……?」

「急に、何か……変――!」

 呻いた が、勢いよく下衣を捲り上げる。いきなり晒された素肌からコノエは咄嗟に目を逸らしたが、 の驚愕した気配を受けて思わず振り向いてしまった。そして……己の目を、疑った。

「――あ…、あ……!」

  の白い腿を舐めるように刻まれた憤怒の紋章――その禍々しい紋様から、コノエは目を逸らす事ができなかった。














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