8、愛しき日常





 翌朝、目を覚ました は「ふあ」と伸びをした。熱が下がり、身体も軽くなっている。太腿の痣はそのままだったが、まあこれは仕方のない事だろう。

(昨日は随分、コノエの世話になったな……)

 祠からの帰り道では負ぶってもらい、その後も何かと献身的に看病をしてもらった。
 今日会ったら、何かお礼をしよう。 はそう思った。……だが。

「まずは、身体を拭くのが先ね……。うえ〜、ベトベトして気持ち悪い……」

  は張り付く服を摘まむと眉を下げた。取りあえず今一番にすべき事は、水浴びのようだった。









「ふ〜、スッキリスッキリ」

 無事に水浴びを終えた は、色気のない掛け声と共に全身の水を払った。
 水が肌を伝っているのも気持ちがいいが、この季節だ。早く拭かないとまた熱を出してしまうだろう。そう思った が乾いた布に手を掛けたその時――いつぞやのように、扉がひとりでに開いた。


「……あ」

「え……? ――あ、ゴメ……私、鍵…ッ!」


 ……扉を開けたのは、またしてもコノエだった。今度はハッと反応した が、とっさに身体を隠す。

「ゴメン! 俺、また――!」

 バタリと音を立てて、コノエが扉を閉める。垣間見た顔はやはり赤く染まっていた。
 再び閉じられた扉の奥で は布を握り締めて頭を抱えた。……またやってしまったと思っても、後の祭りであった。






「重ね重ね、ほんとにゴメン……!」

「あ、うん……。私も、油断してたし……ごめんね」

 やがて水浴び場を出た は、コノエの真っ直ぐな謝罪に出迎えられた。いつぞやのように俯いているだろうと予想していた には、これは意外だった。潔いその態度は雄らしく、わずかに鼓動が早まる。

「……見た?」

 かすかに乱された感情の意趣返しに、 は意地悪く問い掛けた。きっとまたコノエが赤い顔で、「見てない!」と答える事を予測して。

「……見た。……ゴメン……」

 だが、返された答えはまたしても の予想外のものだった。自分で聞いておいて何だが、はっきりと肯定されるとそれはそれで恥ずかしい。 は俯くと、ボソッと口を開いた。

「でも他の奴らに見られるよりは、良かったっていうか……」

「え?」

「いやいやいや、何でもない。変なこと聞いてゴメンね!」

「あ、ああ……」

 うっかり口を滑らせた が頭を振ると、コノエは呑まれたように押し黙った。こんなところはいつも通りだが、コノエの態度に若干の変化が生じてきているのに気付き、 は内心動揺した。これが……成長というものだろうか。
 訳もなく寂しいような恥ずかしいような気持ちになった は、次にコノエが呟いた台詞に目を見開いた。

「俺が言うのも何だけど、アンタ、本当に気を付けろよな。……いつもいつもこんな感じじゃ……心配で仕方ない」

「え……!?」

 耳を通り抜けていった言葉の特別な響きに、 が振り向いたその瞬間。二匹の間は、集合を告げる憤怒の悪魔の出現によって遮られた。








 ラゼルに呼び寄せられ、 とコノエは宿に戻り食堂へ向かった。中には既に、ライもアサトもバルドも悪魔全員も揃っている。

 話は、まずはコノエに再び現れた痣の事から始まった。一通りを話したコノエが をちらりと見遣る。 は頷くと、痣のある太腿を服の上からそっと撫でた。

「私にも……痣が、現れたの」



 コノエと の痣は、今度は悪魔たちではなくリークスの力によるものであるらしかった。
 最後の時に向けて力を強めているリークスの居場所が、分かるようになってきたと悪魔たちは言う。そしてその「最後の時」とは月が重なる時、もしく雪が降った後ではないかとのライの推測であった。


「結局、今は力を蓄えておくしかないって事ね……」

 全て話が終わり、猫や悪魔たちが各々消えてしまうと は長く息を吐きながら呟いた。今はこちらからは動けないと言う事か。

「そうでもあるまい。機会を伺い、力を蓄えておく期間があるという事は有益だろう。もっとも後数日というところだろうがな」

「……! ――ビックリした。アンタ、まだいたのね」

 食堂を出ようとした は、突然背後から声を掛けられて尾を逆立てた。……ラゼルだ。
 物静かに佇んでいたため気付かなかった。というか、何故か気配を消していたのだ。驚くからやめてほしい。


「もうあまり動き回る時間はないぞ。せいぜいゆっくり構えておくといい」

「分かってるわよ……」

 ゆるりと笑ったラゼルが、 に近付いてくる。正面に立つとわずかに腰を落とし、ラゼルは に目線を合わせた。

「……なに?」

「……痣を、見せてみろ」

「え!?」

 さらりと言われた台詞に は目を剥いた。痣とは……もちろん太腿の痣の事だろうが、かなりきわどい所にあるため流石においそれとは見せられない。
  は首を振ると、困り顔でラゼルを見上げた。

「いや、ちょっとそれは……」

「いいから見せてみろ」

「えっ、ちょ…っ……」

 じりじりと、壁際まで追い詰められていく。とうとう壁に背がついた は、ふと下を向くと目を剥いた。いつの間にか……下衣の裾がまくり上げられ、白い腿が露わになっている。

「ええ!? いつの間に……!」

 ……全く気が付かなかった。手が触れた気配も何もない、悪魔の早業に は呆然とした。しかし次の瞬間、慌てて服を引き下げると高い位置にある顔に向かって怒鳴った。


「……ッいきなり何すんのよ、このセクハラ悪魔!」

「セクハラ……? 随分とまた懐かしい響きだな。あの虎猫か」

「そうよ! バルドに教えてもらったのよ! ……じゃなくて、アンタ、アンタ――!」

 ……油断していた。今までが紳士的な言動だったために、こんな事をする奴だとは思わなかった。
  が赤い顔で睨み付けると、ラゼルは何事もなかったのような泰然とした表情で を見遣った。

「……俺の紋章、だな。……もしやと思ったが、やはりな」

「え……?」

 呟かれた言葉に が目を見開いた直後、ラゼルは足元から赤い炎に包まれ始めた。

「これで可能性が高くなったか――」

「え……ちょっと、……何…っ」


  の戸惑いの声も虚しく、炎は一気に立ち上がるとラゼルの身体を呑み尽くしていった。憤怒の悪魔が姿を消す。後に残された は、ポカンと口を開いた。

「な、何なの……」

 全くもって、訳の分からない悪魔だと は思った。












 自室に戻った は、戸惑いがちに扉を叩く音を聞いて振り返った。扉を開けると、コノエが所在なさげに立っていた。


「あれ、コノエ。出掛けてなかったんだ」

「ああ……。特に、する事もないし。アンタはどうなんだ? 今日はどこか行くのか?」

 きょとんとした に、コノエが問い掛ける。 が首を振ると、コノエはわずかに身を乗り出してきた。

「あの、じゃあ、さ……俺と、出掛けないか」

「コノエと? ……いいけど、どこ行くの?」

 コノエの提案に は目を丸くした。コノエの方から言い出してきたのは、これが初めてかもしれない。 がわずかに心を躍らせて問い掛けると、コノエは詰まったように黙り込んでしまった。……そこまでは、考えていなかったらしい。

「……決めてないのね? えっと、じゃあ……」

「――図書館に行こう。……昨日のお詫びを、まだしてない」

 助け舟を出そうとした を、コノエが静かに遮る。告げられた言葉に は目を見開いた。
 ……図書館。それは――


『……図書館だって何だって……アイツらと行けばいい……』


 昨日のコノエの叫びが、頭をよぎる。今日は……一緒に行ってくれるのか。 は何かが胸に沁みてくるのを感じながら、しっかりと頷いた。

「いいわよ。……デートの、やり直しね」









 その日は、穏やかに過ぎていった。当初の予定通り図書館に行って、おいしいものを食べて、商店をハシゴして、トキノの所に立ち寄り……そして今、 とコノエは夕暮れの中を肩を並べて歩いていた。


 特に何か、新しい情報が得られた訳ではない。リークスを倒す手掛かりが見つかった訳でもない。それでも は、この何の変哲もない平凡な一日を特別な日だと思った。
 穏やかで、満ち足りて……でもそれだけではない。隣にコノエがいるからこそ、そう思うのかもしれなかった。


 本当は、今自分たちに起きている事は全部嘘で、明日も明後日も今日みたいに穏やかであればいいのに。
 本当は、 の肌にもコノエの肌にも痣などなくて、確実に迫る闘いの時など知らなければいいのに。


 ふと心に思ったが、そんなもの幻想だ。 は心の中で自嘲した。
 闘いの時があるからこそ、今が特別に思えて、こんな不安に駆られるのだ。……だったら、闘いを終わらせてしまえばいい。そうすればこれが日常になり、不安に思う事もなくなるだろう。
 ――そう、結局は闘うしかないのだ。

  はそう覚悟を新たにしたが、同時に今少しだけはこの安寧に浸っていたいと思った。
 この穏やかな時間が、これからの指標になるように。この安らぎを、取り戻せるように。


  は静かに腕を伸ばすと、コノエの手をそっと握った。振り向かずに握り返されたその手は より大きく、そして温かかった。














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