この声が、聞こえますか。
押し殺した感情の奥に浅ましく秘めた願望に、あなたは気付いているのですか。

隠したかった。見られたくなかった。消えてしまいたくなった。

けれど同時に……応えてほしかった。――あなたに。


この想いは罪ですか。あなたを求めることは、許されないのですか。
それならば罪を抱いたまま、私はあなたに向き合うしかない。
そうすることでしか、きっと私たちは重なり合えない。


答えて下さい。あなたは私を――受け入れてくれますか。


 




5、渇望





 満月を待つ とカルツは、中途半端に空いてしまった時間を静かに過ごした。カルツはふらりと召喚に応じ、小屋に残った は久し振りに歌の練習をしていた。

 ――ふたりとも、決定的な疑問は何も口にしない。生前のナタリアとの込み入った事情やヴェルグが放ったらしき術や、日に日にはっきりと輪郭が浮かび上がってきた『黒猫』の事など、聞いてみたい事は山ほどあった。けれど互いにそんな状況でもない。
 軋みを増した空気の中で、それでもふたりは共にある事を自然と選んでいた。そんな時。

 
 満月の月夜を控えたその朝に――『それ』は突然やってきた。






「…………」

 身体が重い。小屋の隅で目覚めた は、突然訪れた不快な感覚に眉を寄せた。
 特に体調を崩すような事をしたわけでもない。不調の原因にぼんやりと頭を巡らせ、 はハッと思い至った。暦の上では――そういえば発情期の時期ではないか。


「……っ……。こんな時に……」

 毎度のことで呆れ果てるが、今回も当日まですっかり存在を忘れていた。そもそもカルツと共に行動していても、相手が猫でないからそう強くは発情しないのだ。なんとなく屋内で寝転がっていれば通り過ぎていた生理現象など、年じゅう覚えてはいられない。
 だが今回ばかりはタイミングが悪すぎた。何も今日でなくとも。

 カルツは出掛けていていない。もちろん他の猫がいるわけでもない。だがどうした事だろう。何かが……いつもと違う。

(苦しい……)

 身体が熱をもてあますように火照っている。一呼吸ごとに体温が上がっていくようだ。すると の呼吸と合わせるように室内の空気が揺れ、冷たい炎と共にカルツが帰還した。


「…………」

「……? ――どうした、


 全くもってタイミングが悪すぎる。ぐったりと横たわった を見て、カルツが目を見開いた。しゃがみ込み耳に触れようとした手を はふいとかわした。

「何でもないわ……。少し熱が、出ただけ」

「ずいぶん顔が赤いな。だいぶ高いのではないか? 少し計らせて――」

「――いい。お願いだから触らないで。寝てれば、大丈夫だから……」

 なおも差し伸べられた手を振り切り、 は壁際に顔を背けた。知らずぶっきらぼうな口調になり、ひどい態度を取っているのが分かる。けれど今カルツの顔を見てしまえば――自分が何を言い出すか分からない。
 背を丸めた の頭上で、カルツが小さく息を呑んだのが分かった。

「あ、そ、そうか――。もうそんな時期だったな。その……すまない」

「……ううん……。ゴメン、心配かけて」



 気まずい会話を交わしたきり、室内に沈黙が落ちる。カルツも戸惑っている雰囲気だ。確かに闘いに赴こうという日に連れ合いがこの状態では、集中できやしないだろう。

(……なんで今日なのよ……!)

 ヴェルグに発破をかけられ、 は自分の気持ちに正直な行動を今夜取ろうと思っていた。
 ――冥戯に行く。カルツはきっと拒むだろうから、先回りして村を探すつもりでいたのだ。不慣れな土地ではあるが、注意深く匂いなどを探れば辿り着く事もできるだろう。……そう思っていたのに。

 身体がこんな状態では、とてもではないが足手まとい以下だ。森で行き倒れるかもしれないし、もしそこらを歩いている雄猫などに見つかった日には……最悪な未来が容易に想像できる。


 この状態を解消する道は一つだ。そうしなければ冥戯に行く事はできない。それは分かっていても、目の前のこの悪魔に縋るわけにはいかなかった。発情期のために衝動を散らすのが目的であっても。
 身体は彼を求めている。心も。けれど最も欲してやまない熱は、同時に冷たい思考を に抱かせる。


 一度でも触れられたら、きっと勘違いする。彼が……自分を受け入れてくれるのではないかと。


(……馬鹿じゃないの……)

 そんなはずがないのに―― は自分がそう思ってしまうだろう事を、予感せざるを得なかった。





「……っ……、ぅ……く……」

 自分が帰ってきてからというもの、 の具合が加速的に悪くなってきているように見える。カルツはうずくまって熱に耐える の背中を、困惑の目で見つめていた。


 これまでも当然ながら は何度か発情期を通ってきたが、街中にいなければ症状はそう強くは出ないようだった。
 悪魔相手に発情はしない。だからカルツが気付かないふりをして黙って姿を消していれば、次に帰ってきた時にはけろりと回復していたのだ。だが今回は――

(……おかしい……。これでは、まるで――)

 自分相手に発情しているかのようではないか。何があったというのか。
 少し触れてみれば、答えが分かる。けれどそれで がさらに苦しんだら――自分はどうすればいいのだろう。
 決定的な事実が突きつけられるのを恐れ、カルツは何度となく手を握り締めては開く意味のない行動を繰り返した。


 だがそんな事をしていても、 の具合が好転するわけではない。ぐったりと投げ出された尾は熱をこらえるように震え、上気した唇は熱い吐息を漏らし続けている。
 発情の衝動が強ければ強いほど、求めるものが与えられない苦しみは大きいものだ。それはかつて猫であったカルツにも嫌というほど分かる。カルツはとうとう、 の肩にそっと手を添えた。


……大丈夫か……?」

「…!! ――だ…ダメッ……!」


  はびくりと飛び起きると、壁際に後ずさった。
 ――今の反応。カルツにはなんの刺激もなかったが、 は触れられた肩を押さえて目を丸くしている。

(……やはり、そうか)

 だが飛び出した言葉はカルツを拒絶するものに他ならなかった。カルツはそっと目を伏せると、重い気持ちで告げた。


「すまない……。私などに触れられるのは嫌だろうが……君が、あまりにもつらそうで……」

「…………」

  の視線を感じる。しばらくすると大きく息を吸い、 は搾り出すように声を紡いだ。まるで泣き出しそうな声で。


「嫌……なんて……。そんな事、あるわけないじゃない……! 今までだって、たくさん触れてきたのに――今さら。でも今日は駄目。今日だけは……触らないで……」

  が弱々しく首を振る。カルツはわずかに膝を進め、 ににじり寄った。


「私に……何かできる事はないか? 君が嫌がることはしない。だが君が苦しんでいるのを見るのは……私にとってもつらい。だから――」

「……やめてよ!」

 カルツが続く言葉を口にしようとした瞬間、 は鋭く叫んだ。眉を歪め、カルツを見上げる。 は一瞬後悔するような表情を見せた後に視線を合わせて告げた。


「やめて……! 優しい言葉を掛けるのはやめて! できる事なんて…してほしい事なんて、一つに決まってるじゃない! だけど……絶対言えない。それを言ったら、私はもう抑えきれる自信がない!」

「……っ」

「そんな事をしたら――後できっとあなたを困らせる。あなたにはそんな気は全然ないのに……期待するわ。勘違いするわ! そんなのはもう嫌なのよ! これ以上、あなたを困らせたくない……っ」


 感情の昂ぶりを示すように高くなった声が、掠れて小さくなっていく。 は一息に叫んだ後、唇を引き結んで項垂れた。金糸に縁取られたその顔をカルツは呆然とした思いで見下ろした。

 ……身体の奥で、何かがざわついた。そこから目を逸らしてカルツは眉を寄せた。


 なぜ、言わせてしまったのか。 にとって苦痛以外の何ものでもない言葉を。 
 ――言えない、と言いながらも何よりはっきりと吐露された想いが、鋭く胸を突いた。

  の気持ちから逃げ続けてきた報いが、これか。雌猫にとって極限の状況で――選択しろと。この先に進むのか、引くのかを。



「……っ……く……」

 激昂が負担になったのか、 は息も荒く壁にもたれている。熱を帯びた吐息が漏れ、どくりとカルツの身体が揺れた。――忘れたはずの本能が、ゆっくりと目を覚まし始める。


(……何を……)

 発情したわけではない。もっと生々しい、雄の欲望が……刺激される。
 喉が渇く。本能に身体が引きずられそうになり、カルツはその場に固まった。

 ――駄目だ。……そんな事があってはいけない。感化されては。

 咄嗟に視線を逸らそうとしたカルツの双眸を捉え、そのとき が口を開いた。


「……行って……。行かなきゃ襲うわよ。悪魔が猫に襲われるなんて恥ずかしいわよ」

 苦しげに顔を上げた は、カルツを見据えてわずかに微笑んだ。泣き笑いのような表情を浮かべ、カルツを手で制する。


「……私に触らないで。馬鹿な期待を持たせないで。……私が我慢できなくなる前に、黙って出ていって。そしたら……次はいつも通りになってるから」

「……っ」


 ――思考が白く染まる。目で欲しながら手で己を遠ざける に、場違いな怒りすら感じる。
 なぜ――ここまですれ違ってしまったのか。



「それは――聞けない」

「……!!」

 一気に膝を進めると、カルツは を固く抱きしめた。









「カルツ!? ……やめて! こんな事しなくていいから!」

 一瞬身体を竦ませた は、カルツを拒絶するように腕を突っぱねた。それを押さえ込み、熱い身体をより深く引き寄せる。



 ――これは欲望か。本能か。雌猫の媚態に煽られただけか。
 カルツとて雄で、元猫で、何より今は悪魔だ。綺麗事を並べても、所詮欲望には逆らえない。

(違う……!)

 頭に浮かんだ『理由』をカルツは咄嗟に打ち消した。――違う。違う…! そんな事のためにこの猫に触れたわけではない。理由など――



「触らないで……! 抑えきれなくなる! 同情で触れられるくらいなら、ここで見捨てられた方がいい!」

「――ッ、馬鹿なことを言うな……!」

 先程の笑みをかなぐり捨てて、 は悲痛な叫びを上げた。その顎を取り強引に上を向かせると、カルツは緑の瞳を覗き込んで叫んだ。


「君は――馬鹿だ。それ以上に私は愚かだ。君に、こんな事を言わせるとは……!」

「……ッ」

  がびくりと動きを止める。見開かれた双眸を見つめ、カルツはゆっくりと口を開いた。


「――言いなさい。……君が、望んでいることを」





 ――これは裏切りだ。カヤに対する、アサトに対する、明白な罪だ。


  に触れるのは何故だ。発情期の苦しさを解消するため? 今夜の闘いへと集中するため? この猫があまりに憐れだから?
 ……違う。そんな事ではない。全く考えないとは言わないが、そんな『理由』のために に触れるのではない。

 息子の恋猫だった猫。自分のせいで運命を捻じ曲げられ、負わなくても良い罪を背負った猫。温もりを求めた猫。寂しい猫。……だがその猫が、いつしか自分の側にいることが当たり前になっていた。

 ――愛しい猫。自分が癒すはずだった存在は、いつの間にかカルツに柔らかな熱を灯させていた。


 同情や哀れみだけでは共にはいられない。家族愛や同属愛といった言葉では足りない。
 その存在の側にあり、触れて慈しみたいと思うこと――それが、愛でなくて何だと言うのだ。

 覚悟を決めろ。全てを思い出したときに離れる事になったとしても……今の の気持ちを、受け入れる覚悟を。



 この想いは罪だ。だがそれが にとって救いとなるならば――私は、甘んじて罪を犯す。
 






「な……。だから――!」

 呆然とした が、苦痛を訴えるように声を張り上げる。「なぜ分かってくれないのか」とその目は告げていた。……それはこちらの台詞だ。
 今まで足りなさすぎた言葉と覚悟を補うように、カルツは に畳み掛けて告げた。


「同情などしない。そんな理由で、君に触れたりはしない。――言いなさい。私はきっと、君の願いを叶えられる」

「――ッ! ……あ……」


  が震える。視線が彷徨い、感情をこらえるように歯を噛み締める。その唇が開き細く長い息を吐き出すと――震える声で、 は告げた。



「………抱いて――」














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