6、断罪





 厚い雲に覆われた頼りない陽の月の光のもと、雌猫の肢体が震えた。

 ただ一言を発したきり、 は言葉を口にできなかった。……否、意味のある言葉は口にできなくなっていた。
 もともともたれていた壁にさらに押し付けられ、布越しにそっと悪魔の手が触れた。それだけで切迫した身体と意識は感極まり、声にならない吐息を零すことしかできない。……あとは、目の前の彼の名を呼ぶだけ。


「……は…っ……、――ル、ツ……。カルツ……」
 
 先程の、悪魔の返答。陳腐な言い方をすれば――夢かと思った。
 同情ではなく、期待をされてもいいのだと――そういう意味で、言ってくれたのだろうか。……都合のいい夢を見ているだけではないか。そんな疑念が胸を過ぎったが、深く考えるには身体がもう蕩けきっていた。
 それでもなんとか真偽を問おうとカルツを見上げた は、金の目に宿った『雄』の欲を目の当たりにして迷いが吹き飛んだ。

 ――いい。夢でも構わない。今このときだけでも……カルツが自分に触れてくれた。雌として見てくれた。今はもう……それだけでいい。
 発情の衝動にいい加減麻痺した心は、ささいな変化すら極上の悦びと捉える。熱を与えようとしてくれる愛しい相手に縋り、雌猫は喉を仰のけて歓喜に酔った。


 カルツは を強引には抱かなかった。限界に達していた身体を弄ぶこともなく、慈しむように布越しに全身に触れ、金の髪と尾を撫でた。
 直接肌に触れてこないのがもどかしい。優しくも遠慮がちな愛撫に は吐息を漏らしたが、恥ずかしくて訴える事もできない。けれど何度も触れられるうちに服の下で熱が込み上げ、知らず声を上げていた。

「……っ、ん……、……あ……っ」

 もしもこの手に荒々しく触れられたら……こんな日になど、どうなってしまうか分からない。情けなく泣いてねだってしまうかもしれない。だから今は、これくらいが丁度いい。
 ……だが、これからどうなるのだろう。カルツは自分を――抱くのだろうか。


『お前――初めて、だったのか……』


(……っ……!?)

 初めての行為を頭の中で想像してしまった は、次の瞬間ぞくりと身を竦めた。未知への期待に浮かされた一方で――思いがけない言葉が頭の中で弾けたのだ。

(初めて……? 私、初めてだった? 本当に――)

 思っても見なかった問いに急に暗い思考に落ちそうになった は、腰をかすかに引かれてハッと目を上げた。カルツが、 の下衣を下ろしたのだ。

「……あ――」

「……? ……やはり、やめておくか?」

 剥き出しになった下肢にカルツが視線を向ける。あられもない格好を見られて は頬を赤くしたが、カルツのわずかに乱れた息に首を振って答えた。


「ううん……。……して――」

「……っ……。ああ……」


 今は――カルツの事だけ感じていればいい。下穿きが取り払われ伸びてきた指に、 は高く甘い声を上げた。



「……あ……、あっ……!」

 くちゅりと濡れた音がした。潤みきったそこをなぞり、差し込まれ、腰がわなないた。
 もたれかかった壁から背がずり落ちる。触れるまでもなく準備が整っていた に、カルツが静かに覆い被さった。

 カチャカチャとまるで戒めのごとく並んだベルトを外す音がして、太腿がぐっと割り開かれる。緊張と期待とで思わず下方を見てしまった は、かすかに息を詰めた。
 端整な顔の悪魔が服の下に隠していた――欲望。そそり立ったそれは、生々しい雄の欲をはっきりと示していた。ゴクリと唾を呑んだ の顔を見つめ、カルツは静かに腰を進めた。





「……っふ……。……あ……!」

「……っ……」

 ぐっと一気に腰を進めたい衝動を抑え、カルツはじりじりと の中に己を突き立てていった。――きつい。
 強く締め付ける胎内に全てを埋め終えると、わずかに身体を起こして を見下ろす。


  は生娘ではなかった。長く雄を受け入れなかったことによる抵抗感はあるが、その身体は雄を知ったものだった。
 誰が抱いてこうして を見下ろしたのかなど――考えるまでもない。胸にずきりと重い痛みが走り、カルツは思考を振り切るように腰を動かし始めた。

「……あっ……、…ぅ、あ……っ。あ……っ……!」

 きつく締め付けていた内壁が緩み、屹立した熱がなめらかに滑る。 はすぐに甘い声を漏らし始めた。
 ふちを染めた緑の目が伏せられ、耳が快楽を伝えるように下がる。発情期でタガが外れているとは言え、その声は表情はカルツの欲を存分に煽り立てた。 以上に久し振りだろう誰かと交わる感覚に、カルツは陶酔しそうになった。


 ずり上がって頭をぶつけそうになっていた の腰を掴み、引き戻す。すると指先にいびつな感触を覚え、カルツはハッと目を見張った。滑らかな背中に深く刻まれているのは――傷痕だ。

「……っ……」

 この猫の身体にアサトが唯一残した、痕跡。それはこの先もきっと消えることがないだろう。
 この猫を抱けば抱くほど――より強く息子の存在を感じずにはいられない。


 アサトは……どんな想いでこの猫を抱いたのだろう。
 吉良の猫たちに疎まれてきたあの子を、初めて受け入れてくれた外の雌を……アサトはどんなにか愛しく思っただろう。求めたのだろう。

 幸福になれたはずのふたりの未来にヒビが入ったのは、己の出自と禁じられた恋の代償だった。だが自分がカヤと出会わなければアサトが と出会うこともなかった。矛盾の果てに決裂した子供たちの哀しい恋に、胸が引き絞られる。
 その激情にますます熱が煽られ、カルツは強く腰を振った。



「……あ……! っん、ア……っ」

 カルツの抽送が激しくなった。揺さぶられ、 はしがみつくようにカルツの上着を掴んだ。
 ――気持ちいい。良すぎて頭がおかしくなりそうだ。どこかに飛んでいってしまう。
 繋ぎとめるものが欲しくて目を開くと、獰猛な熱を宿した金の目と視線が合って はうろたえた。カルツが――見ている。

 その瞬間腰が震えたのと同時に、 は何か閃くものを感じて鋭く息を呑んだ。


 この視線を――知っている。自分を組み敷いて求めてくる視線を……知っている。

 ――知っている? ……どうして……?

「……っ……」



『―― ……、欲しい……っ』
 
『お前を大事にしたいのに、何度も滅茶苦茶にして奪いたいと――』

『…… 。俺は…… が、好きだ』



「あっ……!」

 記憶がフラッシュバックする。たった今まで上げていた甘い嬌声でなく、悲鳴のような響きにカルツが動きを止めた。

(いや……嫌……っ! ……怖い――!)


「……どうした……?」

 カルツが心配そうに覗き込んでくる。 はカルツを強く引き寄せると、懇願するように口を開いた。

「カルツ……、カルツ……ッ。お願い……キスして――!」

「……え……」

「もっとあなたを感じさせて。あなたが抱いてるんだって、もっと私に教えて……! お願い…っ、……怖いの――!」


 身体の奥から、喉元に痛みが込み上げてくる。咄嗟に口を覆って顔を逸らした は、こらえきれず一滴だけ熱い雫をこぼした。
 強い快楽と込み上げる感情に翻弄され、思考はすでに滅茶苦茶だ。胸に溜まった澱みを吐き出そうと口から手を外すと、次の瞬間 の唇は温かい何かによって塞がれた。

「……っん――」

 確かめるまでもない。カルツの唇だ。カルツが……口付けてくれた。
 初めて触れる悪魔の唇。 を繋ぎとめるそれは、何よりも温かく力強い。 はカルツの首に手を回すと、深くカルツの舌を受け入れた。


「……大丈夫だ。ここにいる。君を抱いているのは、私だ。君は何も……怖がることはない」

「あ……」

 唇が離れ、耳元に荒くも優しい囁きが落ちた。 は眉根をほぐすと金の瞳を見上げた。綺麗な色の目が、ただ だけを見下ろしている。
 確かにわけの分からない恐怖心はいつしか薄くなっていた。 の身体が幾分か緊張を解いたのを合図に、カルツは再び を揺さぶり始めた。





「は……っ、あ、あ……っ。カルツ……ッ、ん……、あっ……!」

 擦られ、急速に上り詰めさせられる。思考はすでに白く混濁し、何も考えられなくなっていた。目を閉じて、ただ必死に雄が与えてくれる熱だけを追う。

「……ッ! あ……ッ!!」

 下肢が震え、腕に力が入った。浮遊する感覚に襲われた瞬間、 は小さな悲鳴を上げて高みに達した。



「……っ、は……、はぁ………」

 意識が身体に戻る。 は強くしなった後にぐったりと脱力した。
 弛緩した身体から屹立が抜けていく。わずかな呻き声を上げて、雄が達したようだった。
 荒い息と共に の横に身体が横たえられる。窓から差し込む曇天の光を遮るように、 は瞼の上に腕を乗せた。
  は目を覆ったまま――自分を抱いていた雄の名を呼んだ。


「……アサト……」





「……ッ!!」

「え――?」


  は呆然と目を開けた。今、何気なく呟いた名前は――この雄のものではない。 はハッと飛び起きた。
 
「……あ……」

「……カル…ツ……。な――。え……!?」

 同じように身を起こしたカルツが、目を丸くして を見ている。だが違う名で呼ばれたカルツ以上に は驚愕し、狼狽した。一体……誰の名前だ――。
 そしてカルツが に触れようとしたその瞬間。頭の中で、パキリと氷が砕け散るような衝撃がした。


「……っ、あ……!」

 手を差し伸べたカルツの顔に、青い瞳の黒猫の姿が重なる。浅黒い腕を伸ばし、 だけが全てだと言うように真摯な眼差しで見つめてきた――猫が。

「……! あ……、ああ…っ!」

「…… ……!」

 カルツの手から無意識に身を引き、 は口を手で覆った。目はカルツを見据えたままでも、心は既に目の前の光景を映してはいなかった。



 記憶が――流れ落ちてくる。堰を切ったように、留まることなく。
 押し止められた『彼』の姿が、奔流となって の胸に押し寄せる。


 黒い猫。森で出会った猫。吉良に追われていた……吉良の猫。

 冷徹な戦士の素顔は子供のようにあどけなく、まっすぐな想いを にぶつけてきた。運命に翻弄されたその孤独な猫を自分は愛し、受け入れたのだ。ずっと側にいると誓って……!

 けれど闘いの果てに、自分はその猫を――死なせてしまった。



「……あ……」

 視界が揺れる。指が濡れて、涙が零れたのだと知った。

 どうして――どうして忘れていられたのだろう。あれほど愛した……猫のことを。


「アサト……ッ!」


 雌猫が紡いだその名前に、カルツは目を閉じると静かに天を仰いだ。








 ――嗚咽してしまいたかった。絶叫したかった。哀しみだけにとどまらない、爆発しそうな感情を全て……吐き出してしまいたかった。

 息を吸い、まさにそうしようかと思ったそのとき。 の意識はカルツの視線を察してハッと踏み止まった。
 悲哀を示す痛ましい視線の奥にひそめられた――優しい情が、 をこの場に踏み止める。


 ――駄目だ。この悪魔の前で泣き喚くわけにはいかない。優しいこのひとを、これ以上哀しませたくない。

 けれど我慢できない。 は手早く乱れた衣服を整えると、立ち上がって扉に手を掛けた。自分を呼び止めた悪魔の顔は見られず、かろうじて返事だけを返す。


「……ちょっと、出てくる……。大丈夫、ひとりになりたいだけだから心配しないで。すぐ戻るから――ゴメン!」

 扉を押し開け、 は黄昏の森へと飛び出した。悪魔は追ってはこなかった。








「……っ、……はっ、……ッ!」

 月が沈みかけいっそう暗い森の中を、ひたすらに走る。足がもつれても息が上がっても、 は足を止めなかった。そうして完全にあの小屋が見えなくなったところで は立ち止まり、正面の大木に両手で縋りついた。


「あ……、あ……! うああぁぁ……ッ!!」


 記憶が――全て戻った。せき止めていた感情が溢れ、 は絶叫を迸らせた。
 


 ――アサト。

『……お前、誰だ……』

  あの出会いを。

『この花全部を、俺は に贈る』

  あの笑顔を。

『……俺と がつがいになれば、いいのか?』

  あの言葉を。

『本当は、死にたくなんてない。 と、ずっと一緒にいたい』

  あの嘆きを。

『これで……いい――』

  そしてあの別れを。

 
 彼と過ごした時間のすべてが、 の脳裏にはっきりと甦った。



 これが、自分が忘れていた事。死にたいと切望した自分を生かすため、カルツが忘れさせてくれた事。カルツが に近付く事をためらった理由にして、 が怯え続けた――罪。


「ふっ……、う……っ」

 縋りついた爪が樹皮を掻き、力なく落ちていく。止まらぬ嗚咽を漏らしながら、 は膝をついた。


……』

 哀しみで押し潰されそうなのに、後悔と申し訳なさで心が砕けそうなのに、なぜ――思い出すのは雄猫の笑顔ばかりなのか。



「アサト……。アサト……ッ、アサト……!!」


 暮れてゆく森の中で、 は口にする事のなかった時間を埋めるように雄猫の名を叫び続けた。




 











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