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「おい。お前、そんな所で何をしている」
「……? なんでアンタがこんな場所にいんのよ……」
1、揺さぶられる感情
あれから少しして、
はふらつく足取りで宿へと歩き始めた。しかし眩暈と頭痛が間断なく襲ってきて、数分もしないうちに再び道端に座り込んでしまっていた。 ぼんやりと霞む目で地面を見つめているとふいに視界が暗くなった。まずい、貧血だろうか。そう思って顔を上げようとした
の耳に、呆れたような低音が飛び込んできた。
白猫の姿に
は目を見開いたが、ついいつもの調子で憎まれ口を叩いてしまう。だが顔を上げた拍子に視界が大きくぶれて、顔を歪めると
は尻餅をついた。
「お前、馬鹿か。正真正銘の阿呆猫だな。こんな日にふらふら出歩く馬鹿がどこにいる」
「な、んですって……」
ライの言葉の意味は分からなかったが、いきなり馬鹿だの阿呆だの連呼されて
の眉が寄る。苦しい息をこらえて見上げると、ライは
からわずかに視線を逸らして顎をしゃくった。
「立て。宿までは仕方ないから送ってやる」
「いいわよ。そんな事しなくてもひとりで帰れるわ。……ッ」
そう言って立ち上がろうとした
は再び眩暈を感じてへたり込んだ。なぜだろう、ライが来てから症状が酷くなってきた気がする。
「……馬鹿が。そのままでは襲われて嬲られるのが目に見えている。……立て」
「――ッ!?」
苛立だしげにライが
の二の腕を掴んだその瞬間。
は強い電流のような刺激を感じて思わず手を振り払った。
――なんだ、今のは。 目を見開いた
は、唐突にある一つの可能性に思い当たって愕然とした。 身を苛んできた不調、そして他の猫に触れられたときの強い刺激。それらはすべて、昔に聞いた本当の発情期の症状と一致していた。
今までも発情期はあったが、家にいれば済んでしまう程度のもので今日のそれとは全く異なっていた。だけど今日は違う。
自覚をして、
がライから目を逸らす。
先ほどの言葉、ライは
の不調の理由を知っている。それがいたたまれず、
は身を竦めるとこの場から白猫が立ち去ってくれることを願った。
「帰るぞ」
「……ゴメン、先に帰ってもらえる? 私やっぱり休んでいくから……」
「おい」
「……ッ! いいから早く帰って! お願いだから――」
は顔を伏せると強く頭を振った。身勝手な事を言っているのは分かっている。ライは心配して
を連れ帰ろうとしているのだ。 だが身体の不調はピークに達しつつあったし、何より自分が発情している姿をこれ以上見られたくなかった。この猫にだけは。
「――
チッ、阿呆猫が」
「え……うわッ!?」
の願いも虚しく、ライは苛立だしげに舌打ちすると次の瞬間
を抱え上げた。急に高くなった視界に
が息を詰める。荷物のように肩に上げられると、
は力の入らない腕でライの背中を叩いた。
「ちょっと、何すんのよ……! やだ、下ろして…っ!」
「うるさい、黙れ。いいから黙って負ぶわれていろ」
これではいつかのやり取りと同じだ。だが、あの時と今日とでは状況が違う。宿へ帰るつもりかと様子を窺っていた
は、ライが図書館の裏へと足を進めたのに気付いて困惑した。
「う……」
「…………」
が下ろされたのは、図書館裏手にある林の中だった。周囲に猫の気配はなく静まり返っている。滑らかな表面の大木に寄り掛かると
は荒く息をついた。
「なんの、つもりよ……宿に帰るんじゃ、なかったの?」
「間に合うのならば、な。……だが帰ったとしても苦痛が続くだけだ。何故だかはさすがに分かるだろう」
切れ切れに問い掛けた
は、逆に切り返されて言葉に詰まった。ライから目を逸らし、小さく呟く。
「それは、分かる……けど」
「そうか。だったら今ここで選べ。衝動を解消するか、苦痛のまま取り合えず戻るのかを」
「え…!?」
ライの発言に
は
目を見開いた。まじまじと見上げると、あの薄い青の瞳が静かに
を見下ろしている。
――静か? 違う、よく見るとライの目もわずかに熱を帯び始めている。いつもとは様子の異なる白猫の様子に
の喉がわずかに鳴った。
「アンタも、なの……?」
「…………」
呆然として問うと、ライは目を逸らして沈黙した。沈黙は肯定だ。聞かなくとも強い発情は互いに生じるものだと知ってはいたが、確認しなければ
はその事実を信じられなかった。 波長が合う。それがどういう事か分からないはずがない。目の前の雄猫を急に意識して、
は心音が跳ね上がるのをはっきりと自覚した。
「深く考える必要はない。熱を冷ますための荒療治だと思え」
沈黙を続ける
を促すように、ライが冷ややかな声で告げてくる。だがその声には隠し切れない熱が見え隠れする。
――苦しい。ライもきっと、
ほど
ではないにしても苦しいはずだ。 押し流されれば楽になれる。
はその誘惑に縋りたくなったが、うなずくにはまだ理性と羞恥が大きすぎた。
「でも……ここで…?」
沈黙に耐え切れず
はぽつりと漏らすと、周囲に目を遣った。陽の月が沈みつつある森は、それでもまだ十分に視界が利いた。頭上でわずかに葉がざわめく。
――ここは外なのだ。いつ誰が来てもおかしくない。
「誰も来やしない。――どうするんだ。目の前に相手がいるんだ。熱を散らすのに利用しない手はないだろう」
「……ッ」
――利用。まるで物を扱うような言い方に
の胸がすっと冷えた。 そう、相手がいるから利用するだけ。だからこの行為に深い意味なんてない。 ただ
がそこにいたから。ただライがそこにいるから。だから熱を交わし合う、たったそれだけの事だ。
「そうね……」
は目を伏せると、わずかに唇を笑ませて提案を受け入れた。なんだかもう、どうでも良かった。
いったん視線を外すと、ライは静かに装備を解き始めた。
も最低限の装備を外す。迷ったがフードも取ることにした。正直、身体が熱くて着ていられないのだ。
「…………」
緊張の一瞬。
がライを見上げると、ゆっくりとその手が伸ばされた。軽く肩を押され、背後の木に押し付けられる。そのまま顔を寄せてきたライを目を逸らさず見つめていると、
の目は突然冷たい何かに覆い隠された。――ライの手だ。
「……ッ」
頬の辺りに何か柔らかいものが触れる。……これは髪だ。そのくすぐったさに身を竦めると、首に濡れたものが押し付けられた。
「ちょっ…と……!」
熱い舌が首筋を這う。その気色悪さ――違う、ゾクゾクとした不可解な感覚に毛を逆立てながらも、塞がれた視界に
は困惑した。これではライが何をしているのか分からない。
「……お前、恋猫はいないのか」
「……?」
「想う相手がいるなら、そいつの事でも考えていればいい。すぐに終わる」
そう告げたライが再び顔を埋めてくる。まさか、視界を覆って
に他の猫の事でも考えさせようと言うのだろうか。 ――ふざけるな。
はとっさにそう思った。
恋猫なんて、いる訳がない。想う相手がいたならば村を飛び出したりなんてしなかった。 しかしそれ以上に、あくまで利用されるものとして振舞おうとするライに
は怒りを覚えた。 いくら視界を奪われたって、
が今身体を委ねているのはライだ。
に触れる髪も、唇も、腰に回された腕もライ以外のものだと思える訳がないのに。
「……ッ、やめてよ!」
は鋭く叫ぶと目元に置かれた手を振り払った。肩口のライが顔を上げる。その隻眼に見下ろされ、
は歯を食い縛って顔を上げた。
「……やはり、嫌か」
「違うわよ。……目なんて隠さないで。そんな事をする必要はない」
「なに……? ――ッ!」
わずかに目を細めたライの襟元を掴み、
はそれを強く引き寄せた。勢いで唇同士がぶつかる。雄猫の牙に当たり
の唇の端がわずかに切れたが、構わず
はライに口付けた。 ライが瞠目する。
はすぐに唇を離すと、その目をまっすぐに見上げて告げた。
「――ライ」
「……っ」
「ライ。……利用でもなんでもいい。深くなんて考えなくていい。でも、他の奴の事を考えろって言うのは無理よ。……そんな事、思えるはずがない」
他の誰でもない、アンタの事を考えている。自分はそれを分かってライを受け入れている。 そう伝えるために、
はずっと口にしないままだったその名を呼んだ。ただ一つの、この白猫の名を。
自分だけが楽にしてもらおうだなんて虫が良すぎる。自分とライは対等であるはずだ。 たとえ利害が一致したから熱を交わし合うのだとしても、共犯者でありたかった。ただ享受するだけにはなりたくなかった。
「アンタが私を楽にしてくれるなら、私だってアンタにそれを与えられるんでしょう? ……だったら私に自覚させて。アンタがしているんだって、ちゃんと感じさせて」
「……ッ、――馬鹿が」
目を見開いたライは、次の瞬間低く吐き捨てると
の肩を掴んだ。そのまま荒っぽく身体を裏返される。幹に手をつく形で立たされると、
の視界は再びほとんど利かなくなった。
「ちょっと……っ」
思わず振り返ろうとした
の頭をライが押さえ付ける。腰に手を回され引かれると、わずかに身体が前傾した。
「見るな。……見えなくとも、感じるだろう」
「…………」
わずかに息を切らした声に
は固まった。そう、たしかに視界は利かなくともライの体温や吐息や鼓動はありありと感じられる。それに、やはりああは言ってみたものの顔を見られるのは実際のところ恥ずかしかった。 だったら、これでいいのかもしれない。
は息を吐き出すとわずかに頷いた。
「……ッ、ん……」
引き寄せられた
の背に、ライの身体が当たる。先程と同様に肩口に顔を埋められると今度はうなじを舐められた。
「ふあッ……! ――ッ」
ゾクリとした刺激に思わず声が漏れた。その大きさと濡れた響きに
は息を呑むと唇を噛み締めた。 絶対に声を上げたくない。誰が近くにいるとも限らないし、何よりライに聞かれるのが恥ずかしかった。
の上着をたくし上げ、ライの手が腹に触れる。手袋の外された素手は予想外に冷たかった。
の肌が粟立つ。わななくように尾が逆立つと、温もりを求めるようにライの腰に巻き付いた。
「……冷たい」
「我慢しろ」
ライの手が冷たいのではない。自分の身体が熱くなっているのだ。だがそれを肯定するのは気恥ずかしく、
が小さく抗議するとライは静かに返した。 冷たい手が腹を這い回る。触れられた部分を起点に腰と尾に快感が溜まっていくようで、
は細かく身体を震わせた。
「……っふ、くっ……、んん――、…ッ!?」
「あまり噛み締めるな。切れるぞ」
声を上げないように必死に唇を噛み締めていると、不意に口元が何かに覆われた。ライの手だ。 長い指が唇を割り開き、牙が外される。
は厚い手のひらに口を塞がれた。
「……ふ、ん〜〜!」
の声を封じて、先ほどよりもやや強引にライの手が動き始める。 上着に侵入した手は滑らかな肌をたどるとやがて膨らみに行き着いた。巻いた布を割って下から掬い上げられると、擦れた先端がわずかに痛む。 右から左へ、手が動く。冷たい手のひらが徐々に温かくなってきた。尖った先端を引きずられて、
の背が軽くしなった。
「ん、んん……っ」
胸から離れた手が、今度は下に降りてくる。下衣を割って下着に手が差し込まれた。 臀部をさらりと撫でた指が、ふいに尾の付け根に触れる。そのまましごくように逆立てられ、悪寒のような快感が
の背を走った。
「ン――!!」
急所に与えられた愛撫に
が抗議を込めて尾を強く振ると、その先端がわずかな痛みをもって動きを止められた。ライの唇に、はまれている。甘噛みする牙の感覚を呆然として追っていると、指は尾を離れて前に回された。 温もりを持った手が深く沈んでいく。指の腹で芽を潰されて、
は自由にならない尾を強く振った。長い指が亀裂を割る。それが滑らかに動き始め、そこがもう十分に潤んでいる事を
は知った。
わずかな摩擦が、快楽を確実に煽っていく。
は弱々しく首を振ると、たまらず大きな手のひらの下で口を開いた。
――苦しい。発散されない吐息が腰に重く溜まっていくようだ。 思わず舌を出してその手を薄く舐めると、わずかに拘束が緩んだ。はっとして息を吸い込もうとした
の唇に何かが押し込まれる。――ライの指だ。
長い指が、くすぐるように
の牙をなぞる。身体のあらゆる部分に与えられる愛撫に
はもう溺れそうだった。 やがて差し込まれた指は
の舌に触れた。突然触れられてビクリと舌を竦めたが、次の瞬間
は衝動的にその指に舌を絡めた。
「ん……っふ、……ッ。はぁっ、は……」
焦がれていた水を待ち望むように。または指ではないどこかを舐めしゃぶるように。
は一心に指を吸い、舌を絡めた。ピチャピチャと耐え難い水音が漏れたがそんな事はもうどうでも良かった。
――自分もライに与えたい。自分だって何かをしてやりたい。 ライの身体に触れられないこの体勢がもどかしい。
は片腕を幹に押し付けると、空いた方の手で視界に映った白い物体を掴んだ。……ライの尾の先端だ。
「……っく……、おい」
初めて掴んだ太い尾は、予想通りふわふわとしていた。それを、今自分がライの唇で施されているように指で擦った。 他愛無い稚拙な愛撫。だがライは小さく息を詰めると、手を離して乱暴に
の下衣を引き摺り下ろした。
「……! ふっ……ン!」
膝まで露わにされて
の身が竦む。せわしない衣擦れの後、指で亀裂を割り開かれて
はその意図を悟った。
――待って。そう言おうとした
の口が再び手のひらで覆われた。頭を固定され、身動きが取れない
に熱い塊が押し付けられる。
「――ッ!!」
一度は引っ掛かった熱が、次の瞬間鈍い衝撃と共に
に押し込まれた。先が入れば、後は抵抗なく根元まで呑み込んでいく。全てが埋まったその瞬間に
の背に走ったのは痛みではなく、圧倒的な歓喜のような快感だった。
「……ッ」
「――ッ、……動くぞ」
掠れた声でライが告げる。
は呆然として頷くこともできなかった。 腰を焼く熱に、
はたまらず目の前の木にしがみ付いた。爪が押し出され、樹皮を引っ掻く。震える
の腰を抱えてライがゆっくりと動き始めた。
「ふっ、んんっ、……ッ!!」
抽送は滑らかだった。摩擦の繰り返しに尾が上がっては下がる。始めは遠慮がちに動いていたライも、次第にその動きを大胆にしてきた。大きな手のひらの下で、いくつもの喘ぎが消えていく。 ――熱い。押し込まれた熱が、穿たれた腰が熱い。身体中でライの存在を感じる。
「……っ……、少し、足を開け……」
の耳元でライが囁く。その熱を滲ませた余裕のない声に
はわなないたが、ふと思った。 ――顔を、見てみたい。
このいつも冷静な雄は、今どんな顔をしているのだろう。衝動的な欲求を感じて、
は強く頭を振ると手を振り払った。そのまま背後を振り返る。
霞む目で見上げた雄猫の顔は上気はしていなかった。だが、青い瞳の中には凶暴な熱が閃いている。――捕食されている。そんな被虐的な思考に捕らわれて、
は捕食者を誘うように吐息を零した。
「ライ……」
「――ッ」
息を詰めたライが、唸るように喉を鳴らして顔を寄せた。噛み付くように口付けられる。無理な姿勢に
は苦痛を感じたが、熱い舌が入り込んでくると夢中で舌を絡めた。 顎を伝って唾液が落ちていく。ライの舌は血の味がした。
の血の味が。
やがて痛みを覚えて
が首を外すと、腰が引き寄せられた。身体が深く曲がり、穿たれる角度が変わる。
「ふあッ!! ん――!」
再び手で口を塞がれて、ライが追い詰めるように腰を突き上げてくる。臀部に当たる腰骨が痛い。だがその痛みすらも快感を高める糧にしかならない。
「〜〜ッ! ン――!!」
背筋を強い衝撃が駆け上り、
の思考を白く攫った。木にしがみ付くと身体を硬く強張らせる。浮遊するような感覚があり、
は声無く達した。
「……! く、は…ッ」
その直後、ライが強引に身体を引いた。わずかな呻きを上げ、
の腰を掴んだ手が震える。 ……ライも達したんだ。頭の隅でそう安堵すると、
は脱力して膝を折った。崩れ落ちる身体をライが受け止める。
よろよろと身体を持ち上げると、
は幹に顔を伏せた。熱い吐息が口から零れる。ライも背後で息を整えているようだった。
「……は……」
「…………」
頭の隅に、徐々に冷静な思考が戻ってくる。頭痛や眩暈はもう感じない。 だが入れ替わりにたった今まで行われていた事や自らの痴態がはっきりと甦ってきて、
の頬に血が上った。
思考を散らそうと大きく息を吸った
は、今まで感じなかった香りを捉えて目を見開いた。 わずかな香水の香り。……昨日と同じ香りだ。だが昨日よりも香りがやや強まっているような気がする。そう、まるで新たに逢瀬を重ねたかのように――
その意味を考えて
は顔を強張らせた。ゆっくりと身を起こすと、ライを振り向かないまま下衣を引き上げようとする。だが掛けられたライの言葉に
はその動きを止めた。
「――ッ。お前、生娘だったのか――」
「……? あ――」
硬いライの声にふと自分の身を見下ろすと、その内腿にわずかに赤い血が伝っていた。
「なぜ先に言わなかった」
慌てて拭って服を上げると、
は厳しい視線を向けるライを見上げた。非難するようなその口調になぜだか苛立ちが湧いてくる。
「……なにそれ。じゃあ知ってたら、アンタ抱かなかったとでも言うの?」
「……ああ」
「――ッ!!」
顔を強張らせて
が問うと、ライは静かに肯定した。それを見た
の怒りは頂点に達した。 なんなのだ、この猫。やった事と言っている事がまるで噛み合わない。
「馬鹿にしないでよ!! 深く考えるなって言ったのはアンタじゃない! それを、今更なんなの!?」
叩きつけるように
が叫ぶと、ライは目を見開いた。その様子にますます怒りが煽られる。
「――ッ、こんなの、大した事じゃない。気にされる覚えもない! それにアンタだって他の雌を抱いてきたんでしょ!? 移り香つけて……アンタにだけは、言われたくない!」
怒りが身体を焼く。屈辱で目がくらみそうだった。なぜこんなにも腹立たしいのか分からない。
の喉に熱い塊が込み上げた。――まずい、泣く。 だがこの猫の前では絶対に涙を見せたくなくて、
は背を向けると大きく息をついた。冷静になれと自分に言い聞かせる。
「先に、帰る……。今日の事は、気にしないでいいから……」
震える声でなんとか告げると
は駆け出した。 身体は違和感を訴えたが、これ以上ライの側にいる事は出来なかった。
「最悪……」
宿に帰り着いて、
は頭を冷ますために屋根へ上った。帰ってきたライに会いたくないという気持ちもあった。 身体は疲労していたし、何より心が磨耗していた。様々な感情に乱されて冷静な思考が利かなくなっている気がする。
後悔はしていなかった。した事された事は恥ずかしいが、苦しみは去った。だからライには感謝していた。 だが他の雌を抱いた後に自分が抱かれるのを受容できるほどには、
は寛容ではなかった。
触れられたくなかった訳ではない。嫌ではなかった。けれど、他の雌の存在を感じさせられたのは嫌だった。――つまりこれは嫉妬か。
つがいでもない猫にそんな感情を抱くのもおこがましいが、
はその感情を否定できなかった。 ――嫉妬? じゃあ自分は、ライの事をどう思っているというのか。
「……あれ? でも、なんでアイツも発情してたの……?」
その時ふと頭に湧いた疑問を
は思わず口に出していた。だが思考するよりも早く、屋根に現れた影に
の葛藤は遮られた。
「――
。ここにいたのか」
「あ、アサト。……私を探してたの?」
現れたアサトに
は目を見開いた。アサトは首を振ると、
に近寄ってくる。その姿を目で追っていると、アサトが不意に顔を強張らせた。
「
、目が赤い。……泣いていたのか?」
「え!? ――そ、そう?」
激しく泣いた訳ではないが、先程の名残だろうか。
が慌てて顔に手を当てると、アサトが心配そうに覗き込んできた。
「あいつに何か、言われたのか?」
「……ッ」
図星を指され、思わず
の息が止まった。なぜ、この猫はこんな時に限って鋭いんだろう。
が沈黙すると、アサトの纏う気配がすっと冷えた。
「……何かされたんだな。――殺してくる」
「はぁッ!? ――ちょ、待ちなさい!」
殺気を込めて立ち上がったアサトに
は慌てて縋り付いた。こんな事で争われてはたまったものではない。
はアサトを座らせると大きく首を振った。
「違うの。ライは全然関係ないわ。……他の事で、ちょっと考え込んでいただけよ」
「……本当か?」
澄んだ青い目を見つめて言うと、探るようにアサトが覗き込んでくる。目を逸らさないようにこらえ、
はゆっくりと頷いた。心の中でゴメンと呟く。
「そうか。
が言うなら分かった。――でも、何かあったらすぐ俺に言え。殺してやる」
アサトは目を逸らすと、しぶしぶといった感じで頷いた。納得していないのが顔に出ている。だが付け足された言葉に
は後ろめたさも忘れると呆れてしまった。
「あのねぇ……もう、殺す殺す言わないの。コノエが嘆くわよ」
がアサトを軽く睨むと、アサトはきょとんと首を傾げた。そしてその後で「コノエを困らせるのは、嫌だ」と真面目に言ったのを聞いて、
は小さく笑った。
――この胸を満たす苦い感情は、忘れてしまおうと思った。
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