2、狂気の足音





 アサトと共に屋根から下りた は、部屋に戻って眠った。だが真夜中に何故か起きてしまい、結局する事もなく再び屋根に上っていた。
 寝転んでぼんやりと月を見上げる。眠りについた事で、昼間の激情はだいぶ治まったようだった。


「明日どんな顔して会おう……、――ッ!?」

 ぽつりと呟いた は微かな殺気を感じて身を起こした。
 自分に向けられたものではない。だが荒々しく窓が開く音がしたため慌てて屋根の下に目を向けると、ライが跳躍してきた。……一匹ではない、誰かと打ち合っている。

「冥戯の猫……?」

 暗くてよく見えないが、あれは以前もやり合った冥戯の猫ではないのか。……コノエを襲いに来たのだろうか。
 そこで はライの側にいるはずのコノエの姿がない事に気が付いた。気配はある。という事は眠っているのか、または戦えない状態なのか。
 とりあえず分かるのは、今はコノエの支援がないという事だけだ。

 ライは冥戯の猫と打ち合っている。相手は一匹のようだし、ライが負けるはずはない。そう思う一方で、ここで傍観していていいのかという気持ちになってきた。
 支援したい――でも昼間に喧嘩別れをして、どんな顔で出て行けばいいのかまだ迷っていた。
 そんな事で迷っている場合かと思いつつも、 は結局屋根から歌で支援をする事にした。


 昨日歌ったばかりだから、ライに歌を送るのは予想外にスムーズだった。炎を作って歌に乗せる。
 感情が乱れても、憤りを感じても、数を重ねるごとに歌が届きやすく、また力強くなっていくのが分かる。これが絆…なのだろうか。

 赤い光が届き、ライは屋根の上の を振り返った。
 ライからは遠いし、夜だから顔も見えないだろう。だがそれで良かった。歌が届けば全て通じてしまうのだから。
 無事にこの闘いを切り抜けてほしいと思う気持ちも、自分がライに向ける不可解な感情も。

 歌を受けて、ライの剣が途端に速度を増した。冥戯の猫が徐々に押されていく。ライは、こんな時でも冷静だった。静かに隙を見極め、確実に仕留めるように踏み込んでいく。
 そして相手の剣が弾かれ、戦いは決着がついた――ように見えた。


「良かっ――、…ッ!」

 次の瞬間 は、今までにないライの激情を感じて身を強張らせた。はっとして凝視すると、冥戯の猫が顔を抑えて後ずさっているところだった。だが、ライも右目……眼帯を抑えている。まさか斬られたのだろうか。

 歌で繋がった闘牙から、ダイレクトに感情が流れ込んでくる。その昏い狂気に当てられないよう歌を遮断すると、 は己の失態を悟った。
 ――ライが笑っている。狂気と愉悦の笑みを顔に刻んで。それはもう何度も目にした光景だった。



  がとっさに屋根から下りるのよりも早く、逃げ出した相手をライが追っていく。
 茂みを掻き分けて が追いついたその瞬間、咆哮を上げてライは猫の喉を刺し貫いた。

「――ッ!! ……ライッ!」

 目の前の惨い光景に は息を呑んだが、ライが剣を返して再び猫を刻んだのを見るとその背に縋り付いた。

「ライ! やめて!! やめなさいよ…ッ! もう死んでる!」

 自分よりもずっと大きな背中を強く叩く。それでもライが凶行を止めることはなかった。
 止めなければ……連れて行かれてしまう。どこになんて分からない。だけど、行かせない――!

「戻ってきなさいよ…! ――あっ!」

 渾身の力で引き戻そうとする を、鬱陶しげにライが払った。 が容易く血溜まりに倒れ込む。立ち上がった はライを見上げて凍り付いた。


 その目は を見ていたが、正気ではなかった。
 その唇は笑みを刻んでいたが、狂気しかなかった。
 その指が伸ばされ の顔に飛んだ血を拭うと、赤い舌が赤い血を舐め取っていった。


「……血が、甘いな」

「――!! グ…ッ!」

 狂気に当てられた次の瞬間、ライの手が の首に伸ばされた。避ける間もなかった。長い指が首に巻き付き、締め上げられる。

「……かは…ッ、や、め……!」

 息が出来ない。視界が赤く染まっていく。涙で目が霞む。ライの腕に爪を立てるが、その力は少しも緩まなかった。
 急速に、視界が今度は暗くなっていく。――もう、駄目かもしれない。 は生理的な涙を流しながら、唇を微かに動かした。

「――ラ…イ……」

「――!!」


 意識がブラックアウトする直前、拘束は突如として外された。重力に従って身体が崩れ落ちる。 は喉を押さえると、泣きながら咳き込んだ。
 喉がヒュウと鳴って上手く空気が入っていかない。たまらずにむせていると、頭上から呆然とした声が振ってきた。

「お前――俺、が……?」

「……? ライ……」

  がのろのろと顔を上げると、ライは信じられないという顔で己の手を見つめていた。
 ――ああ、ライだ。戻ってきた。 はこんな状況なのに何故だか安堵して、泣きたくなった。


 ライの目が無残な姿になった敵の姿と、 の首にくっきりと刻まれた指の跡を交互に見つめる。その顔がみるみる強張り……ライは顔を背けると静かに踵を返した。

「ちょ……どこ行くのよ!」

「……すまない……。頭を冷やしてくる。お前は宿に戻っていろ。落ち着いたらそいつを弔いにくる」

 謝罪と強い拒絶を受けて、 が立ち竦む。だがこんな時にひとりにして大丈夫とは思えない。 が追い掛けようとすると、ライは叫んだ。

「これ以上俺の側に来るな! ……また、お前を手に掛けるかもしれない。頼むから……帰れ……」

「……ッ……」

 懇願するような拒絶に、 はもう何も言う事が出来なかった。ライが走り出す。その背はあっという間に見えなくなり、 は死体と共に森に残された。





「あーあ、行っちゃったねぇ」

「――ッ!?」

 立ち尽くしていた は、突如として耳に吹き掛けられた声に全身の毛を逆立てた。咄嗟に爪を出して振り向くと、喜悦の悪魔が微妙に宙に浮いて立っていた。

「フラウド!? アンタ……なんでここに……っ」

 怖気を感じて、 は悪魔から一歩飛び退いた。
 まったく気配を感じなかった。ニコニコと笑う悪魔が急に得体の知れないものに思えて、 は警戒しながら口を開いた。

「なんでってコトもないでしょ。あれだけ殺気を撒き散らされちゃあ、ね…?」

「……見てたの……?」

 ちらっと死体に目をやったフラウドが、意味ありげに囁く。 は直感した。
 ――この悪魔、ライの異変に気が付いている。

「僕はいつだって白猫ちゃんを見てるさ。それにしても……君も随分ひどくやられたねぇ」

「……ッ触らないで!」

 つ、と指を伸ばしたフラウドが の首に触れようとする。……きっと痣にでもなっているのだろう。だがこの悪魔に触れられたらそのまま取り込まれてしまいそうで、 は強く身を引いた。

「おやおや、何だか嫌われたものだねぇ。……それとも白猫ちゃんだけに許すのかな? そういうプレイが好きなのかい? ゾクゾクしちゃうなぁ」

「何言って……」

 身をよじって陶酔したように言うフラウドに、 が困惑の眼差しを向ける。物騒かつ卑猥な事を言って身悶えるフラウドを横目に眺め、 はある事に気付いた。

 先程の発言といい、先日にライと話していた様子といい、この悪魔は何かとライに突っ掛かっている。もしかしたら、何か知っているのではないか……そう考えた は安全な距離を保ちつつフラウドに問い掛けた。


「……アンタ、ライについて何か知ってるの? なんでライに構うのよ」

「おや? おやおや? ……君、本気かい? 本気であの白猫ちゃんに惚れてるのかい?」

「――は?」

 だがフラウドの返答は、 の期待するものとは異なっていた。ますます生き生きしてきたフラウドに、 は気色悪いものを感じて後ずさった。

「だってそうだろう? 好きな相手だから知りたいんだろう? 僕もよく分かるなーその気持ち。好きな相手の事なら、初めて獲物を殺した日から初めてセックスした日、今まで殺ってきた猫の数の事まで、何から何まで知りたいよね!」

「ちょ……」

 それはただのストーカーだ。アンタと一緒にされたくない。
 思わず訂正しようした を、上機嫌なフラウドが遮る。フラウドは指を立てて振ると、にっこりと笑った。

「僕も他人の恋路は邪魔したくないんだけど、君とは対象が被っているからねぇ……一つだけ教えてあげるよ」

「かぶッ……、え…!?」

「白猫ちゃんのコトを知りたいなら――カガミ湖に行ってみるんだね。彼のあの右目が失われた大事な場所だよ」

「……ッ!」

 フラウドは相変わらず から距離を取って浮いている。だが今の言葉は、耳のすぐ傍……というよりも、頭の中に直接吹き込まれるような不快な感覚がした。 が毛を逆立てると、フラウドは「よっこいしょ」という掛け声と共に死体を細い身体で抱え上げた。

「さて、僕はこの子を弔いに行こうかな。それからちょっかいを出してこようっと。……君も早く顔を洗った方がいいよ。可愛い顔が台無しだ」

「――待って! 何でアンタがそんな事を知ってるの!?」

 すっと浮き上がったフラウドを、 が呼び止める。だがフラウドはニッコリと笑むとそのまま跳躍した。

「それは僕と白猫ちゃんの秘密だよ! ――じゃ、バイバーイ」

「……フラウド!」
 





 高く飛び去った悪魔はすぐに見えなくなった。 は暗い夜空から地面の血痕に視線を移すと、強く顔を拭った。
 今更のように痛む喉を押さえながらも、 は心の中である一つの決意を固めていた。



 ライの狂気は、日に日に酷くなってきている気がする。とうとう にもその牙が向けられた。
 あの変貌の原因が何なのかは分からないが、フラウドがわざわざ口にするように、あの頑なに隠された右目と何か関係があるような気がしてならない。

 ――行かせたくない。狂気に呑み込ませたくない。
 あの怜悧な瞳が愉悦を刻み、そしてその後で深い後悔をたたえる様を何度も見た。あんな顔は……させたくない。

 苦かろうが何だろうが、あの猫の事を忘れられるはずなんてなかったのだ。
 これが恋だなんて思えない。ただの自己満足で、エゴでしかないのかもしれない。
 それでも、真っ直ぐに前を見据えるあの猫を失いたくなかった。


 苛立ちを感じても、馬鹿にされても……大切だと思う猫を。間違いなく、惹かれている猫を。
 ――失いたくないと、強く思った。




  は歯を食いしばると、宿に向けて力強く歩き始めた。忍び寄る狂気を振り払うように。
 












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