――最悪だ。
 
 森の中に走り去ったライは、苦渋を噛み締めて手近な木の幹を叩き付けた。腕から胴体へ衝撃が走るが、そんなものはこの焦燥を鎮めるのに何の役にも立ちはしなかった。




   3、狂気の胎動



 

 先程の戦闘――屋根の上から の支援を受けて、敵の剣をはね飛ばしたところまでは覚えている。だがそこからの記憶が……ない。

 気が付いたら、己の指が の細い喉を締め上げているところだった。苦悶を浮かべながらも、名前を呼ばれた気がする。それで引き戻されるまでの間に自分が何をしたのかは、周囲の惨状と の様子を見るに明らかだった。

 咳き込んだ が顔を上げる。苦しげであっても、見上げた瞳は相変わらず真っ直ぐに自分を映した。だがその喉に刻まれた青い指の痕が、己の罪を知らしめた。

  に背を向けたのはとっさの行動だった。あんな場所に死体と雌一匹を残すなんて、冷静に考えれば危険以外の何物でもない。だがライは逃げた。 の瞳に恐怖と絶望が浮かぶのを恐れて。


 あの雌猫は、馬鹿だ。コノエと同じくらい……いやそれ以上に馬鹿かもしれない。
 昼間は交わった後に激昂していたくせに、夜には躊躇いなくライに加勢をしてくる。その挙句に自分などを追い掛けて、その狂気の餌食になった。

 怒っても、呆れても、傷付けられても、何故自分に関わろうとするのか分からない。
 だがそれこそが という猫なのだと、どこかで納得している自分もいた。




 雌猫を思い浮かべてふと考え込んだライは、だがその後にやってきたフラウドの言葉によって再び最悪な気分に叩き落された。


 死体を抱えてきたフラウドは、一部始終を見てきたと言った。そしてライが温もりを欲し、隠し切れなくなってきた事を指摘して、歓迎するよと口にした。……「こちら」の世界へと。

 ――図星だった。全てを見透かすように哂うこの悪魔は何者だ。
 挑発されて足を踏み出そうとしたライは、死体を抱いたフラウドが起こした風に阻まれてその場に踏み止まった。そのまま浮き上がったフラウドが、思い出したかのように口を開く。

「ああ、君の相棒の子猫ちゃんは僕が寝かせておいてあげたから。すごい熱だったけど多分大丈夫だよ。それから……あの大事な雌猫ちゃん」

「……?」

 突然告げられた身の回りにいる猫の話題に、ライの眉が寄る。それを楽しげに見つめ、フラウドは微笑した。

「あの子、随分タフだね。猫も結局は雌の方が強いって事なのかな?」

「……あいつに何かしたのか」

「まさか。何もしてないよー。……でも僕と彼女、ライバルになっちゃったんだ。だからこれから何かするかもね」

「貴様……!」

 不穏な笑みに再び挑発され、ライが声を荒げる。だが既に高く浮き上がったフラウドは、そのまま夜の闇へと消えていった。残されたライが舌打ちをする。

「……くそっ」



 







 宿に戻ると、深夜の受付には勿論猫の姿はなかった。疲労した心身を引き摺って階段を上ると、自室の前に誰かが立っているのが見えた。あれは――アサトだ。


「……邪魔だ。どけ」

「嫌だ。……お前に話がある」

「……俺は貴様と話す事など、何もない」

 殺気を撒き散らしてアサトが声を掛けてくる。今はこいつと話している気分では到底ないし、何よりも二匹の安否を確認する必要がある。アサトを押しやって扉に手を掛けようとすると、その腕が強く掴まれた。不快な行為にライの眉が寄る。

「俺だって本当は話したくなんて、ない。……コノエと ならもう寝ている。お前なんかが気にする事はない」

「……飼い主の体調窺いも奴隷の仕事、という訳か。勤勉な事だな」

 取り合えず二匹が無事でいる事に内心安堵しながらも、分かりやすい皮肉でライは冷ややかに返した。しかしアサトは予想外にも挑発には乗らず、静かに頷いただけだった。

「そうだ。俺はコノエも も大切だから、具合が悪い時には心配するし無理なんてさせない。……お前とは違う」

「…………」

 真っ直ぐに告げるアサトの視線に、わずかな苛立ちが沸き上がる。だが感情を鎮めるように溜息をつくと、ライは再び扉を押し開けようとした。

「下らんな。そんな事を俺に自慢してどうする。……それを言うためだけに待っていたのか」

「違う。―― のあの傷は、お前がやったのか」

「……っ」


 扉に掛けた手が止まる。ライは思わず呑み込んでしまった息を整えると、是とも非とも言わずに冷静な視線を作ってアサトに向けた。

「……あいつが、そう言ったのか」

「違う。 は何も言っていない」

 ……そうだろうと、思う。あの猫は他者の事は気にするくせに、己の怪我や不調は周囲に悟らせまいとする。親しい猫であっても、だ。
 そして普段の態度に反して意外と器用に物事を装うのだ。こんな事まで隠す必要などないだろうに。
 ライがそんな事を苦々しくも妙に冷静に考えると、硬いアサトの声が続けられた。


「さっき少しだけ見かけて……隠していたが、痣が見えた。それから―― からお前の匂いがしたから、もしかしたらと思った。……お前がやったんだな」

「ずいぶんと鼻の利くことだな」

 再び突き付けられた刃に酷く苦いものを感じながらもライが呟くと、アサトがライの胸倉を掴み上げた。噛み殺しそうなほどに顔を近付けられ、強い殺気が放たれる。

「お前が…ッ、何で にそんな事をしたかなんて分からないし知りたくもない。……お前の事は殺してやりたいが、コノエが困るから今はしない」

「…………」

「でも、お前は にふさわしくない。 から離れろ。今度また を傷付けたら――その時こそ、殺す……!」

 吐き捨てるように告げて、アサトがライを突き飛ばす。ライがわずかによろけると、アサトは悔しげな顔をして顔を背けた。


「……貴様ならば、あいつにふさわしいとでも?」

 衝撃と共にかすかな苛立ちを感じてライが問い掛けると、アサトは項垂れて静かに首を振った。

「……俺も、ふさわしくない……。俺たちは、 とコノエの側にいるべきじゃない……」

「…………」

 予想外の反応にライが息を呑んだ直後、アサトは窓を押し開けた。冷えた外気が二匹の間を割る。


「……なんでお前なんかに、
は――」

 顔を歪めて呟いた黒猫は窓枠に足を掛けると、そのまま夜の街へと跳躍した。









「……貴様に言われるまでもない」


 繰り返され、次第に彩度を増していく夢。確実に育ちつつある己の中の黒い衝動。
 それらは近いうちに訪れるだろう忌まわしい未来を暗示していた。解放する訳にはいかない。

 ――それを殺し切れないのならば、あの猫たちの側にいるべきではない。


 焦燥と逡巡を抱え、ライは静かにコノエの眠る部屋の扉を開けた。










 

 

 

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