「へぇ、本当にカガミみたい。ふーん……」
「おい。……なぜ、お前がここにいる」
「ッ!? ……近付くなら気配殺さないでちょうだい。驚くんだけど」
――発情期の翌日、カガミ湖で偶然落ち合った二匹は互いに憮然として睨み合った。
4、誤解
翌朝、
はフラウドの言っていたライの右目に縁のある場所……カガミ湖に向かうべく支度を整えた。フラウドの言葉そのものが罠かもしれないと思ったが、自分をどうこうしたところで何か得があるとも思えない。
はそう納得し、早速そこに行ってみる事に決めた。
コノエを誘おうかと思ったが、既に出かけていていなかった。仕方なくひとりで出かけようとした
に、珍しく受付に座っていたバルドから声が掛けられた。
「おう、出かけるのか。コノエもさっき出てったな」
「熱下がったのね、良かった。……ライは? 部屋にいなかったみたいだけど」
さり気なさを装って
が問うと、バルドは小さく首を振った。知らぬうちに出かけていた、という事だろうか。
――昨夜、ライに首を絞められた。それは狂気に囚われた際の出来事だったし、ライと向き合うにはこれくらいでいちいち怖気づいてはいられない。
はそう覚悟を決めていたが、ライは
を……自分の犯した狂気の痕を、見たくはないかもしれない。
が無意識に薄布を巻いた首に手を当てると、バルドが重い調子で口を開いた。
「……ライの事が、気になるか?」
「……ええ」
問い掛けてきたバルドに、
は今度こそはっきりと頷いた。もう否定する事は出来なかった。
「あいつに惚れてんのか?」
「さあ。そんなお綺麗な感情だったらいいけど。……執着しているのは確かだわ」
「…………」
言い切った
に、バルドが沈黙する。やがてがしがしと頭を掻くと、バルドは苦々しげに口を開いた。
「悪い事は言わんが……あいつに深入りするのはやめた方がいい」
「……それは、アンタが言ってた『悪いクセ』があるせい?」
半ば予想していた言葉に
は息を詰めたが、すぐに切り返した。思えば、以前もバルドは
がライに関わろうとするのをさりげなく牽制していた。そこまでして止めようとする何かがライにある事を、バルドも知っているという証拠だ。
「知ってたのか。……あれを見た事があるなら、尚更だ。あいつに深入りするな」
「…………」
重ねて忠告してくるバルドに
はしばし沈黙したが、やがて無言で首を振った。
「それは無理だわ、バルド。だってもう引き返せないところまで踏み込んでいるもの。……私の意志で。アンタがライを思うのをやめられないように、私もアイツに関わるのをやめない。もう、決めたの」
が静かに告げると、バルドは苦い顔で深々と溜息をついた。その苦渋と呆れの中に、わずかに喜びが混じっていたように感じたのは――きっと自分の願望に過ぎないだろう。
道のりをバルドに尋ね、
は昼過ぎにカガミ湖へ辿り着いた。見た事もない幻想的な光景に息を呑み、硬い水面に触れようとすると背後から聞き慣れた低音が響いてきたのだった。
「なぜここにいる、と聞いている」
「なぜも何も……私がどこにいたっていいでしょう」
二匹は並んで、湖のほとりで対峙した。なぜライがここにいるんだろう。それはむしろ
の方が聞きたい事だったが、聞いても答えてはもらえない気がして
は静かに薄い色の瞳を見つめて告げた。
「ふざけるな。……あの悪魔に何か聞いてきたのか」
……どうやらフラウドに聞いたのはバレているらしい。
は内心で舌打ちすると、ゆっくりと頷いた。隠したってボロが出るだけだ。
「あいつに言われた場所にノコノコやって来る馬鹿がどこにいる! あれは悪魔だ。罠だったらどうするつもりだ」
「罠でもいいと思ったから、来たのよ。阿呆で結構って言ったの、忘れちゃった?」
挑発的な
の言葉に、ライの瞳から苛立ちが沸いた。……そんな顔をさせたい訳じゃないのに。言葉が足りず、どうしてもいがみ合いになってしまう己の態度に
は溜息をついた。 目を逸らした
は、ライの瞳に苛立ちとは別に焦燥が宿っているのには気付かなかった。
「……来たいと思ったから、来たの。必要があるなら……私はどこにでも行く」
いつかも口にした言葉を、
はまた呟いた。必要、言い換えれば自分自身の望みがあれば、どこへでも――例え狂気の淵だろうと、行ってみせる。
ここに来たのは、知りたいからだ。失われた右目が、今のライの不安定さにどう影響しているかを。 アンタの事が、知りたい――だがそんな事をライに言える訳もなく、
はただじっと傍らの雄猫を見上げた。
白い顔、薄い青色の怜悧な瞳、銀の髪――。相変わらず、この猫は綺麗だ。やはり失いたくない。
「……阿呆猫が。おい、何をまたジロジロ見ている」
「あ、ゴメンゴメン。つい……、――っ! な、なに!?」
またもやライを凝視してしまい指摘された
は、次の瞬間雄猫に強く引き寄せられた。ぼふ、と衝撃を伴ってその胸に倒れ込む。慌てて見上げると、ライは厳しい表情で森の奥を見据えていた。
「……敵だ。近付いてきている」
「! ……冥戯の猫かしら」
固唾を呑んで敵の到来を待っていた二匹だが、察知した猫の気配がそれ以上近付いてくる事はなく、やがて湖の周囲は再び静かになった。拍子抜けした
が細く溜息をつく。
「なんだったのかしら……」
「さあな。ただ猫が通りがかっただけかもしれん」
見上げた
は、ふと自分たちの体勢に気が付いて身を硬直させた。先程引き寄せられたまま、ライの腕の中に収まっている。逞しい腕に肩を抱かれ、胸板に頬を押し付けられるとライの香りがした。
「……っ」
その腕が、その身体が、昨日自分に何を与えたのか―― 頭から追い払っていた光景が突然甦り、
の頬が染まった。こんな時に、こんな体勢で思い出すなんて!
「ごめん……、もう大丈夫だから……」
「……ああ」
わずかに身じろいでライの腕から解放されると、
は赤くなった顔を隠すように俯いた。ライの視線を感じる。
「……身体は、平気か」
「身体……? ああ、これ。大丈夫よ」
喉元に探るような視線を受けて、
はふと顔を上げた。今は布で隠しているが、ライはその奥を見透かすようにじっと凝視している。その瞳が苦いものを堪えるように伏せられ、ライは小さく口を開いた。
「……すまない。今度戦闘があったら……俺から距離を置け。俺がお前を、手に掛ける前に」
「…………」
その言葉は先程の行動と矛盾しているのではないか。
はそう思ったが、あまりに真剣なライの眼差しに有無は言えず、静かに頷いた。 本当にそうなったら、きっとまた自分はライを引き止めようとしてしがみ付くのだろうと思いながら。
――
が頷いた瞬間にライがわずかに緊張を和らげたのが、哀しかった。
出鼻をくじかれた二匹は、宿に戻る事にした。森の中を微妙な距離を保ちつつ歩いていると、前方を行くライから声が掛けられた。
「身体は、平気か」
「? だから平気だって言ったじゃない」
「違う。――発情期の方だ」
「はつ……、ッ!?」
思わず舌を噛んだ
は、ライの言葉に硬直して尾を逆立てた。なぜ今その事を掘り返すのか。さっき思い出してからようやく忘れかけていたのに! しかもご丁寧な事に、ライはわざわざ足を止めて
を振り返ってきた。……ああ、今は顔を見ないでほしい。
「……やはりきつかったか」
「…………平気です。ていうか、気にしないでって言ったはずだけど」
目を逸らしてそれだけ告げた
は、ぎくしゃくと歩き始めた。ライの顔が見られない。早く街へ着いてくれないだろうか。
「おい。……お前、何か誤解していないか」
「いいえ、なんにも? 誤解なんてこれっぽっちもしてませんよ?」
と同じく再び歩き出したライが、横に並んでくる。いちいち突っ掛かってくる事にかすかに苛立ちを感じながら、
は馬鹿丁寧に返した。……まだ昨日の屈辱を忘れたわけではないのだ。
「……おい。いい加減にしろ」
「――ッ、いい加減にしてほしいのはこっちよ! 思い出させないでよ。私が怒ってたの、知ってるでしょう……!?」
苛立ちを含む声で言われて、沸点の低い
の堪忍袋の緒が切れた。本当に思い出させないでほしい。あの事を思うと感情が乱れて仕方ないのだ。
「他の雌を抱いた、と言っていたな」
「そうよ! 別にそれが悪いって言うんじゃない。私はそんな事を言う立場じゃないし。ただ、するなら分からないようにやってほしかった。最低限のマナーだわ」
横目で睨んでそう告げると、ライは無言で呆れたように溜息をついた。
「……だからそれが、見当違いだと言っている」
「――は?」
予想外のライの言葉に、
は目を見開いた。唖然として問うと、ライは小さく舌打ちをしたようだった。
「やはりな。……いいか、俺は昨日と一昨日、娼館に行った」
「いや、そんな堂々と説明されても……」
「いいから黙って聞け。雌を買いに行ったんじゃない。……俺の求めていた情報を、そこの猫が持っていたまでだ」
「情報……?」
――ライが言うには、ライがずっと追ってきた魔物の情報を、娼館の猫が持っていたという事だった。以前に戦い、右目の代わりに相手の両目を奪って相打ちになった魔物……その魔物が、カガミ湖付近の洞窟に生贄を集めていたと言うのだ。
そんな場所に
を誘導してきたフラウドの正体と真意が気になったが、それでも
は腑に落ちなかった。今の話のどこが見当違いなのだろう。
「そう……。それで、ついでにその猫と楽しんできたと」
「おい。なぜお前はすぐそっちに持って行きたがるんだ。……娼婦には手を出していない。初日にお前目当てではないと言ったら、香水を投げ付けられた。まったく、あの雌猫――」
「……はい?」
何か、とんでもない発言を聞いたような気がする。頭が付いていかず
が聞き返すと、ライは苦い顔で繰り返した。
「だから、手を出していないと言っている。俺も発情してたのが何よりの証拠だろう」
「ッ! ア、アンタ……最低! 仕事してる猫に向かって何てコト言うのよ! そりゃ何か投げたくもなるわよ!」
真相が明かされ、
は照れるよりも反省するよりも早く、その雌猫の事を思って激昂した。
の言葉にライが目を見開く。
「お前が見当違いに腹を立てているから、誤解を解いただけだろう。なぜまた怒る」
「……くっ……! そうだけど、そうだけど……!」
誤解は解けたが、ライに対する理不尽な怒りは
の中でくすぶり続けた。怒りというよりは、もう呆れかもしれない。 夢を売るはずの場所で、仏頂面な雄に「お前目当てではない」と言われ、その猫のプライドはどれほど逆撫でされた事だろう。
は顔も知らない雌猫の事を想い、見当違いな嫉妬をその猫にも向けてしまった事を深く詫びた。
(やっぱり発情、してたんだ……)
再び無言で歩き始めた
は、ライの揺れる尾を見つめて先程は怒りに負けて流してしまったライの言葉を思い出していた。
発情を共に散らしても良いと思う程度には、ライの中で
の占める割合があるという事だろうか。それともどうでもいいから相手になった、という事だろうか。……分からない。
「ねえ……なんでさっきの話、私にしたの?」
「誤解を解くためと言っただろう。身に覚えのない怒りを向けられても迷惑だからな」
が気まずさを払うようにふと問うと、ライは歩みを止めぬまま淡々と告げた。微動だにしないその背中が憎らしい。
「誤解したままでも、アンタが困るとは思えないけど」
「……知らん」
さらに問うと、ライは一瞬言葉に詰まったようだったが憮然とした口調で告げた。これは、ライも答えあぐねているという反応だ。それが分かる程度には、
とライとの付き合いは深くなっていた。 意外と分かりやすい反応を返す雄猫に、
の口から小さな笑みが零れる。
「別に、わざわざ掘り起こさなければ怒らないわよ……。きっともう少ししたら、忘れるくらいだわ」
「忘れる、か。……お前は忘れられるのか?」
「!」
何気なく告げた言葉を切り返されて、
は息を呑んだ。 ――忘れられるはずがない。その答えは昨日自分でも悟ったはずだが、いざその相手に突き付けられると不可解なほど胸がざわついた。
「余計な事を言ったな。……帰るぞ」
「……うん」
呟いた
は、そっと胸に手を当てた。昨日とはまた違う形で乱れる感情を、落ち着かせようとするように。
既に夜になってから藍閃に辿り着いた二匹を出迎えたのは、アサトだった。 ライと
が共にいる事に顔をしかめながらも、アサトが
に駆け寄ってくる。その表情は切迫したものだった。何かあったのだろうか。
「
。コノエが、帰ってこない」
「え?」
どれ程の事態かと思った
は、告げられた内容に唖然とした。……コノエが帰ってこない。 しかし何日も空けた訳でもなければ、日が変わった訳でもない。子供ではないのだから心配する程でもないと思うのだが、それよりももっと気になる事がある。
「……アンタ、その傷どうしたのよ」
心配そうに告げたアサトそのものが、心配させるような格好をしている。細かい傷があちこちに走り、血が滲んでいる所まである。よく見ると、青痣がうっすらと見えた。
「俺は、何でもない。それより、コノエが――。……嫌な予感が、する」
「…………」
真剣な表情で告げたアサトに、
も杞憂だと笑い飛ばすことが出来なくなってしまった。今にも駆け出していきそうなアサトを押し止め、項垂れたその頭をぽんぽんと撫でる。
「取り合えず、落ち着いて。……手当てをしながら、考えましょう。もう暗いから闇雲に探しても非効率だわ。……ね?」
「ああ……」
アサトの肩を叩いた
は、気付かなかった。己の頭上で、雄猫二匹が冷たい視線を交し合った事に。
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