「こうなるだろうと思っていた。……無茶をするからだ、阿呆が」
「そういう言い方はないだろ。知りたいって思うのは当然なんだから」
「……あの、どっちでもいいんだけど……降ろしてもらえませんか……」
8、うたかた
コノエに支えられて呪術師の祠からふらふらと出た
は、入り口に立つ白猫の姿に目を見張った。どうやら、あの後追いかけて待っていてくれたらしい。
その姿に安堵を感じて
は思わず顔を緩めそうになったが、次の瞬間無言でライに抱え上げられて目を剥いた。抵抗しようにも、熱で目が回り力が湧いてこない。 そのままぐったりと顔を伏せた
は、またしてもライに運ばれて宿に帰る事になった。
本っ当に恥ずかしいので勘弁して欲しい。そう呟いた
の言葉は、白猫ににべもなく却下されたのだった。
だがなんとか宿までは持ちこたえていた
の意識も、自室に辿り着く頃にはかなり怪しくなっていた。寝台に倒れ込むと、熱を発する腹部を押さえてうずくまる。 誰かの手がそっと装備を外し、衣服を寛げてくれるのをぼんやりと感じたのを最後に、
の意識は闇へと呑み込まれた。
――ぴちゃり。
耳元で、何か……水音がする。ポタポタとかすかな音を立てて、傍らの気配が揺れた。
「――阿呆猫。あんな事の後で、無茶をする馬鹿がどこにいる」
(――? ……ム、失礼な。いきなりこんな事を言う奴は誰よ……)
はウトウトと、聞こえてきた低い声に対する文句を浮かべていた。 この声はいつも聞いている気がする。というかこんな事を言う猫は、一匹しか思い浮かばない。
「そう言って投げ出せない俺も、相当の馬鹿猫か……」
溜息に紛れた声は今度は聞き取れなかった。けれど額に突然冷たい何かを置かれて、
はぼんやりと覚醒した。
「…………、ライ……?」
視線が彷徨う。薄暗い部屋の中に白い塊が見え、よくよく目を凝らしていくとそれは知った猫の顔である事が分かった。
が乾いた唇でゆっくりとその名を紡ぐと、掠れた声がかすかに漏れた。
「起きたか。……まだ熱が高い。いいから寝ていろ」
「…………」
気だるい身体を何とか動かして額を探ると、そこには水に濡れた布が置いてあった。指先に触れた冷たさを心地良いと思い、自分が発熱している事を
はようやく悟った。
「私……熱、出したのね……。水、ある? 少し飲みたい……」
ライが無言で動くと、
は片肘をついて身体を起こした。少しの動きなのに酷く身体が重い。手渡された器を受け取ると、
はゆっくりと乾いた喉を潤した。 水が沁み込むのに伴って、少しずつ意識が浮上してくる。一息ついた
を見遣ると、ライは器を受け取って寝台の端に腰掛けた。
「……腹は」
「腹? ……ああ、これ。なんかズキズキいってる」
再び横になった
は左の腹部に手を当てると、わずかに服を握り締めた。先刻ほどではないが、相変わらず脈打つように熱を持っている。
「よりにもよって、喜悦だなんて……。趣味悪すぎ。乙女の柔肌に何てモン刻んでくれたのよ……」
「……誰が乙女だ。カガミを見て言え」
が弱々しくも苦笑すると、ライも幾分か緊張の和らいだ顔で答えてくれた。相変わらずの仏頂面ではあったけれど。
「……コノエに、聞いた……? 痣の事とか、最後の時の事とか、……私の、事とか――」
やがて
は再びウトウトし始めた。身体がだるくて非常に眠い。それでも無意識のうちに一瞬の逡巡を込めて問い掛けた
に向けて、ライは静かに口を開いた。
「ああ。……だから、お前から聞く事など何もない。黙って寝ていろ」
「……そっか。……ふふ、ふ……変なの――」
一見冷たく思える答えを返された
は、次にクスクスと笑い始めた。笑い声に咳が混じる。それを不機嫌そうに見遣ったライは、憮然とした視線を
に向けた。
「だから喋るなと言っている。……何だ」
「ふふ……だって、アンタが妙に優しい。……こんなの変だわ。夢みたい」
は瞳を閉じると、緩慢な口調で呟いた。視界が遮断されると途端に熱感と暗闇が襲ってくるが、もう開く事はできなかった。
「……でも残念。絶対忘れちゃうんだから……。覚えてたら、からかってやるのに――」
「……相変わらず口の減らない」
傍らにあった気配が動き、低い声がわずかに揺れる。そう感じた次の瞬間、
の耳は何か濡れた物に触れられていた。温かく湿ったそれに、そのままザリザリと産毛を梳かれていく。
――これは、何? 考えようとするが、もう思考が上手く働かない。
「……ン……、……きもち、いい……――」
ざらついた何かが、今度は手を取り腕を丁寧に舐めていく。 普段ならば……ましてこんな日ならば、誰かの体温が側にあるだけでも飛び起きそうなものなのに、
は心地良い感覚に身を委ねるとうっとりと喉を鳴らし始めた。
「忘れろ。……こんなに従順なお前など、おかしいからな」
やがて身体が抱き起こされ、その頬に濡れた感触が落ちても
は目を開けなかった。
よりも粗い舌がゆっくりと毛を繕っていく。 とうとう完全な眠りに落ちようとした
の意識は、しかし飛び込んできた声によって覚醒を促された。
「――
、大丈夫か! 倒れたとコノエから聞い、た……。――ッ!?」
「……馬鹿猫か。騒々しいぞ」
「なんで、お前が、いる――」
交わされる会話に
はぼんやりと目を開いた。銀の髪の向こうに、黒猫の姿が見える。 ……ライ、まだいたんだ。さりげなく失礼な事を考えた
は、黒猫の名を小さく呟いた。
「…………アサト……?」
アサトが、呆然と目を見開いている。……どうしてそんな哀しそうな顔をしているんだろう。
はそう思ったが、ふいに頬を舐め上げられて思わず吐息を漏らしてしまった。
「……ア…ッ……」
「
――。……ッ…!」
白猫の視線を受けた黒猫がたじろぐ。上気した顔で白猫に身を委ねた
を一瞥すると、アサトは無言でその場から立ち去った。
そして次に目覚めた時、
の隣には誰もいなかった。心なしか身体に残る毛繕いの感触に首を傾げながらも、
は熱の下がった身体で伸びをしたのだった。
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