9、止まらぬ想い

  



 陽の月が昇った頃、身支度を整えた が部屋を出ようとすると、扉が控えめに叩かれた。
 扉を開くとそこに立っていたのは、なんと憤怒の悪魔ラゼルだった。 が思わず瞠目すると、ラゼルは静かに口を開いた。

「早くにすまんな。……話がある。食堂へ来てもらいたい」

「はあ……」

 突然現れた悪魔に驚きつつも、紳士的な態度に絆された は素直に従った。





 食堂には既に、コノエもライもバルドも、悪魔四匹も姿を揃えていた。
  が顔を向けると、ライは静かな目で の様子を一瞥してきた。正直言って昨日の事は宿に帰る途中から記憶が定かではないのだが、おそらくライが多少は面倒を見てくれたのだろう。
 だが が礼を言おうとしたその時、すぐ側の窓からアサトが飛び込んできて は目を見開いた。

「! ……アサト、おはよう。また窓からなんてビックリするじゃない」

「あ…… ……。おはよう……」

  を見たアサトが、歯切れ悪く返事をする。ふいと視線が逸らされて、アサトは から距離を置いて立った。……何だろう。
 だが疑問に思った が口を開くよりも早く、その場は話し合いが始まってしまった。 



 話は、まずはコノエに再び現れた痣の事から始まった。一通りを話したコノエが をちらりと見遣る。 は頷くと、上着の裾をそっとめくり上げた。

「私にも……痣が、現れたの」



 コノエと の痣は、今度は悪魔たちではなくリークスの力によるものであるらしかった。
 最後の時に向けて力を強めているリークスの居場所が、分かるようになってきたと悪魔たちは言う。そしてその「最後の時」とは月が重なる時、もしく雪が降った後ではないかとのライの推測であった。


「結局、今は力を蓄えておくしかないって事ね……」

 全て話が終わり、猫や悪魔たちが各々消えてしまうと は長く息を吐きながら呟いた。今はこちらからは動けないと言う事か。
 けれど取りあえず目下のところ、 には行くべき場所がある。共に行きたい者の名を が呼ぼうとした、その時。

「…… 。こっちに来てくれ」

「……? アサト――?」

 黒猫が、思いつめた声で の名を呼んだ。








「アサト、どうしたの? ……あ、また怪我してる!」

 食堂から連れ出された は、宿の裏手で立ち止まった。固い顔をしたアサトが正面に立つ。その肌に無数に走る新たな傷を見つけた はアサトに詰め寄った。するとアサトは両手で の肩を掴み、その瞳を覗き込んできた。

「……何?」

「…… 、あいつが好きなのか」

「え…!?」

 突然告げられた問い掛けに、 は一瞬意味が分からず呆然とした。……一体なんだ。

「な、なんで……?」

「…… は最近、あいつの事ばかり気にしている。だから……」

「…………」

  の困惑に、アサトは切羽詰った表情で答えた。耳が下がり、今にも泣き出しそうだ。
  はしばらく呆然としていたが、やがて小さく口を開いた。


「……うん……」

「っ!」

 ――好き。ライの事が……好きだ。
  はすとんと、この名前のない感情の正体を受け止めた。

 実際のところ がライに向けるのは、そんな可愛らしい言葉で片付けられるような感情ではないのかもしれない。嫉妬、切望、執着――決して綺麗ではない感情も、自分はライに向けている。
 けれどそういう澱みを取っ払って、根本にある自分の想いを見つめると……最後に残るのは、やはりライへの純粋な好意に他ならなかった。


「どうしてなんだ……」

「? アサ――」

 一瞬にして顔を歪めたアサトが、ぽつりと呟く。悲愴な響きに が顔を上げようとした、その瞬間。

「俺は、俺は……っ、 が好きだ……!」

「!!」

 ―― はアサトに、力強く抱きしめられた。




「アサト……!?」

「……どうしてあいつなんだ。あいつは の事もコノエの事も困らせてばかりいる……!」

「…………」

 驚愕の声を上げる を抱きすくめ、アサトが押し殺した声で叫ぶ。 は抱かれるまま、アサトの突然の告白に呆然としていた。

「あいつは冷たい。お前の事を大事にしない……! あんな奴と行ったら、お前はきっと傷付いて疲れてしまう。……俺なら、 を悲しませたりしない。大切にする。傷付けない……! だから俺と――」

「……っ」

 アサトの腕に力がこもる。必死なアサトの叫びに、 は胸を打たれた。


 ――突然の告白なんて、嘘だ。アサトが随分前から自分に向けている視線に、静かな熱のこもった眼差しに……気付いていない訳が、なかったのだ。

 好意を持たれているのは態度で分かる。それ以上の感情を持たれている事も……何となくだが、気付いていた。だが は気付かないフリをしたのだ。アサトに対しても――自分に対しても。
 そして自分の心とアサトとの距離を守り、ライの後を迷わず追っていった。…卑怯な逃げ方だ。

 その時にアサトが感じたであろう痛みが、いま自分に向けられている。この痛いほどの抱擁がアサトの想いだ。痛く、強く……激しい。


 真摯に寄せられた感情に、胸が締め付けられる思いがする。だが はアサトの胸の中で首を振ると、静かに口を開いた。

「……アサト、ごめん……。でも、あいつの事……そんな風に決め付けないで」

「……!」

  の背に回されたアサトの腕が、ビクリと震える。……ああ、本当にゴメン。 はそう思いながらも続く言葉を搾り出した。

「あいつ、冷たくなんてないわ。外からは分かりづらいけど……私の事、大事にしてくれたよ。たくさん優しさをくれた。何度も何度も、温もりを……くれた」

「…………」

「確かにアサトの言うような部分もあるわ。いい奴とも言い切れないし、側にいたら危険なのかもしれない。……でも、そういう部分も含めてのライを……私は理解したいと思った。闇があるなら、その根幹に触れたい。全力で関わっていきたいって……思ったの」

  の肩口で、アサトがわずかに呻く。大きく息を吸うと、アサトは静かに口を開いた。

「……お前が傷付くかも、しれない」

「……いいのよ。そうしなきゃ応えられないって言うんなら、仕方のない事だわ。もう気持ちは止められないもの。……だから、アサト――」


「……分かった」

 申し訳なく呟いた の言葉を受けて、アサトが腕を緩めた。二匹の間に隙間ができる。
  は青い瞳を真っ直ぐに見上げると、口を開いた。

「……ごめんね、アサト」

「いいんだ。気にしないでくれ。…… がそう言うのなら、仕方ない。俺は、逆らわない」

「…………」

 首を振って告げたアサトは、気持ちを断ち切ろうとしているようだ。その姿に の胸がズキリと痛む。だがもう一度謝ろうと思った は、アサトの達観したような呟きに言葉を遮られた。


「それに本当は……分かっていた。お前の気持ち」

「え……?」

 呟きを受けて、 は思わずアサトを見上げた。アサトは寂しげな笑みを浮かべて、言葉を続ける。

「お前はいつも、あいつを見ていた。それに、あいつといるとお前はよく怒っていたが、安心しているようにも見えた。昨日も、あいつに身体を委ねて――」

「……? 昨日……?」

 締め付けられるような想いでアサトの言葉を聞いていた だったが、あるところで引っ掛かりを覚えて首を傾げた。昨日とは、何だろう。

「……? 覚えて、ないのか?」

「? 何のこと? 負ぶってもらった事じゃなくて……?」

「いや、そうではなくて……」

 アサトが瞠目して問い掛けてくるが、全くもって身に覚えがない。 が怪訝に眉を寄せると、アサトは表情を和らげてどこか嬉しげな笑みを浮かべた。

「そうか、覚えてないのか。……それなら、忘れた方がいい。ロクな記憶じゃないから」

「え? は? ……はぁ」

 突然相好を崩したアサトに、 は圧されて頷いた。一体何だと言うのだろう。
 だが が首を傾げた瞬間、宿の裏に低い声が響いて二匹は動きを止めた。

「ここにいたのか。……出掛けるぞ。さっさと来い」





「あ……。ライ……」

 振り返ると、仁王立ちでライが立っていた。アサトが唸り声を上げ、威嚇する。ライは近寄ってくると の手を取った。

「行くぞ」

 こちらの顔も見ずに、ライが歩き始める。 は慌てて振り返るとアサトを見遣った。アサトは厳しい顔で、ライをじっと睨み付けている。


「…… を泣かせたら、殺す」

「…………」

「ア、アサト……」

 アサトが静かな威嚇をライの背に放った。ライは立ち止まると、わずかに動揺した の手首を強く握り直した。

。……気を付けて」

「アサト……。ありがとう……」

 アサトが表情を和らげ、笑顔を向ける。 はその優しい瞳を見つめ返すと、想いを込めて頭を下げた。ライはかすかに「ふん」と呟くと、 を連れてその場から立ち去った。









 やがて森に入った二匹は、カガミ湖への道を黙々と歩き始めた。すぐに離された手首を がぼんやりと見つめていると、前を行くライから声が掛けられた。

「何を話していた」

「え……。話したく、ない……」

 咄嗟に出てきた返事は、ライの反発を呼びそうなものだった。だが、さっきの会話は他者に語って聞かせるようなものではない。いつまでも大切に、自分の心の中だけに留めておこうと は思った。報いる事ができなかった気持ちへの、せめてもの償いだ。

 ライは憮然としたが、特にそれ以上言及してくる事もなかった。その事に少しだけ安心する。
 ライは歩調を緩めて の横に並ぶと、ふいにこちらをじっと見下ろしてきた。

「……何?」

「…………」

 探るような視線は、なんとなく居心地が悪い。 が問い掛けても、ライは を見るのをやめなかった。……何事だろう。

「……何よ」

「……覚えていないのか」

「は? ……何をよ」

 ぼそりと呟かれた言葉に が目を見開く。先ほどのアサトの言葉といい、一体何があったというのだろう。
 だがライは散々押し黙った後に「もういい」と呟くと正面に向き直ってしまった。心なしか、白い尾が膨らんでいるような気がする。


「私、何かした……?」

「知らん。もういいと言っただろう。さっさと歩け」

「え、ちょっと……! なんで機嫌悪くなってんの!? ワケ分からないんだけど!」

「知らん」

 


 突然歩調を速めたライを追って、 が駆け出す。二匹がカガミ湖に着くまで、不自然にピリピリとした道中は続いたのだった。
 













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