光を反射する湖面を前に、二匹の猫が立ち止まった。雌猫が座り込み、硬い湖面を叩く。 


「結局この前は渡りそびれたからね……。これ、どう行ったらいいのかしら」

「水面は硬いんだろう。ならば、歩いて行けばいい」

「ちょ……ッ。アンタ、後先考えずに……!」

 白い尾を振り、ライが鏡面を歩き始める。ぎょっとして顔を上げた も、その背に続いて足を踏み出した。


「落っこちても、知らないからね……!」





 10、誓い






 コツコツと、硬質の音を立てて水面を歩く。 は足元の美しい水面を見つめ、次いで前を行くライの尾を眺めた。
 ……先ほどの、アサトとの会話を思い出す。 は自分がライに抱く想いの種類を、ようやく自覚した。だが、だからと言って二匹の関係が今すぐどうこうなるというものでもない。

 雄と雌の関係を望むのか、と言われれば正直なところ否定はできなかった。雄として、惹かれているのも事実だったから。

 けれどそれと同時に、猫としての純粋な憧れがあった。あの真っ直ぐな視線の先を、自分も見てみたいと思った。ライと同じ目線で、共に。
 それを闇や狂気が邪魔するならば、自分も共に立ち向かいたい。関係を発展させる事など、この際二の次でいいと は思った。




「……うぷッ……!」

 だが考え事をしながら歩いていた は、ふいにライの背中にぶつかった。呆れたような顔にじろりと見下ろされる。

「どこを見て歩いている。余所見するなら置いていくぞ」

「…………」

 本当に、なんでこんな奴を好きになってしまったんだろう。自虐癖があるとしか思えない。
  は一瞬本気でそう思ったが、顔には出さずに辺りを見回した。
 湖は終わり、目の前に岸壁が迫っている。ライの言っていた洞窟がこの付近にあるはずだが、そんなものは見当たらなかった。

「……少し探してみましょうか」

 首を捻った と憮然としたライは、手分けして周囲を調べ始めた。









「まさかあれが、まじないだったとはねぇ」

「お前が賛牙だから解けたんだろう。歌に力のある者だけがまじないを扱える」

 数分後、二匹は岩壁に開いた洞窟の中に足を踏み入れた。
 湖の淵に書かれていた不思議な文字を が見つけ、何の気もなしに読み上げたら突然岩に大穴が開いたのだ。ライが言うには、目くらましを掛けてあったのだろうという事だった。

 洞窟の中は暗く、湿っている。足場の悪い地面を歩きながら、 は胸が塞がれるような居心地の悪さを味わっていた。


 無言で歩くうちに最深部へと辿り着いたようだ。ライが足を止め、わずかに強張った顔で天井を眺める。そこには、細長い何かが垂れ下がっていた。足元には……白骨が。

「!!」

「……生贄として連れてこられた若い雌は、目隠しをされて魔物の訪れを待たされたらしい」

「…………」

 目を見開いた は、思わず口元を覆った。生々しい過去の残骸に、吐き気が込み上げる。
 ここは……雌たちの牢獄であると同時に、墓場でもあるのだ。自分と何も変わらぬ雌たちが囚われ、悲鳴を上げ、殺されていった……。

 感じ取れはしなくとも、この空間にはどれほどの怨念と無念が漂っている事だろう。肌を突き刺すような冷気を感じて、 はゾッと総毛立った。
 だがライの視線が足元の一点で凍り付いたように止まっている事に気付き、 は口を開いた。

「……ライ……? どうしたの……」

「……あれは……俺の剣だ」

「え?」

 抑揚なく呻いたライが、尾を膨らませる。その視線の先を追うと、刃こぼれのひどい古びた剣が地面に突き刺さっていた。俺の剣という事は……前に魔物と闘った時に使っていた剣なのだろうか。
 暗い闇に目を凝らそうと が一歩踏み出した、その時。

「!! ……ぐッ!!」

  はライに、洞窟の岩壁へと叩き付けられた。







「……はッ……、うぅ……ッ!!」

 衝撃そのままに壁にぶつかり、肺から空気が押し出される。
 強い痛みに は一瞬意識が飛んだ。だが何とか体勢を立て直そうと目を開けると、目前に焦点のないライの瞳が迫っていた。

「ッ!!」

 ――これは、あの時の瞳と同じだ。あの、正気を失って の首に手を掛けた時のライと。 は咄嗟に腕を伸ばすと、無表情に迫ってくるライの腕を押しのけた。


「ライ! 目を覚まして! 何おかしくなってんのよ!!」

「…………」

 ぎりぎりと、ライの力に抗う。どう考えたって敵う訳はないのだが、剣を抜く事もできない今、できる抵抗といったらこれ位のものだった。
 押し負けた の腕が、プルプルと震え始める。歯を食い縛った が、もう一度怒鳴ろうとライの顔を見上げた瞬間。わずかな笑みと共に、ライは の腕を振り払った。

「あっ……! ……ッ!!」

 容易く払われた腕をのけて、ライが の頭に手を伸ばす。がしりと頭を掴んで横に傾けると――ライは の肩口へと噛み付いた。

「……ッ、アア――ッ!!!」



 身に走った激痛に は高い悲鳴を上げた。悲痛な叫びが洞窟内にこだまする。
 牙が……肉に喰い込む感触がダイレクトに伝わってくる。 は浮かんできた涙を散らせながら、ライの髪を掴んだ。

「はな…離して! ライ! 元に戻ってよ……!!」

 強く髪を引くが、ライは肩から顔を上げない。より深く牙が埋まり、 はたまらず目を閉じて顔を仰のけた。

「っう、あ…っ、ア――!!」

 血が啜られる感触がする。激痛に唇がわななく。ムッとする血臭が鼻を掠めて、 は気が遠くなった。
 ……私たちは、こんな終わり方をするのか。ふっと諦めが身を過ぎった は、ぼんやりと瞳を開いた。視界の端で逆立つ白いものを目にし――ハッと目を見開く。


「……ライ!!」

「ッ!!」

 最後の力を振り絞って、 は白いもの――ライの尾を、渾身の力を込めて引っ張った。急所への仕打ちに、流石のライも目を見開いて牙を離す。その隙に が腹を蹴り上げると、ライは後方へと倒れ込んだ。 も同時に壁際へ崩れ落ちる。




「……っはッ……はぁ……ッ……」

 倒れた は、咄嗟に肩口を手で押さえ付けた。指の間から温かい血が溢れて手を濡らしていく。……だけど、死んではいない。ズキズキと痛む傷口を押さえて が地面の先を見やると、倒れ込んだライがぴくりと動くのが見えた。

 ……どちらだろう。これで正気に戻っていなければ――もう、駄目かもしれない。
 うっすらとした恐怖を纏った が固唾を呑んで見守ると、ライがゆっくりと起き上がった。


「…………」

「……ライ……?」

  の呼び掛けにライがこちらを向く。振り向いたその瞳は正気を宿しており、 は一気に肩の力が抜けた。だがライは倒れ伏した を見ると、顔を強張らせて絶句した。

「……お前……!!」



「……、良かっ…た……」

 目を剥いたライが駆け寄ってくる。その必死な表情を見やった は、次の瞬間ふっと意識を手放した。

(……意外と、子供みたいな顔するわよね……)






 
  

 意識を失った を抱き起こしたライは、己の目を疑った。
 ぐったりとした細い首の付け根から鮮血が溢れ出ている。咄嗟に手のひらで傷を覆ったライは、血に塗れた の手を見やり、そして己の口元に残る血生臭さを感じ取り――電流のような衝撃を受けた。

 これをやったのは――俺だ。薄く首筋に残る指跡も、いま血を流す傷も……全て全て、己の狂気によるもの。
 途方もない闇がついにここまでやって来た事を感じ取り、ライは の顔を見ると一つの決意を固めた。


 手当てを施した を、冷たい地面に横たえる。あとは目が覚めるのを待って、告げるだけだ。……ただ一言を。
 ライは から離れて座り込むと、己の指にこびリ付いた血痕を舐め取った。
 それはひたすらに苦く、どう考えても甘いなどと……思える訳がなかった。








「あ……」

 ふ、と意識が上昇する感覚がして、 はパッと目を開いた。暗い洞窟の天井が見えて、まだここにいたのだと認識する。
 そっと肩口に手をやると、そこには布が巻かれていた。誰が巻いたのか……ぼんやりと考えた は、ハッと目を見開くと周囲を探った。

「……ライ……」

「…………」

  から少し離れて、ライが座り込んでいた。目を向けるとふいと視線が逸られた。 が起き上がると、ライは苛立ったような口調で低く告げた。


「……戻れ」

「え?」

「……街に戻って、コノエに伝えろ。すぐに他の闘牙を探せと。それからお前も……俺から離れろ。手の届かない場所へ行って……俺など忘れて、生きろ」

「な……」

 突然告げられた言葉に は呆然として目を見開いた。……何を、言っているのか。

「どういう事よ……」

「無理だ」

「だから何が……!」

「もう無理なんだ! 分かるだろう!」

 押し殺した声で問い掛けた を遮って、ライが叫ぶ。その切羽詰った響きに は息を呑んだ。

「もう時間がない。これ以上側にいれば――お前たちを……殺す……!」

「……ッ……」


 それは宣告だった。突き付けられた言葉に はぐっと顔を歪めた。もう……迫ってきていると言うのか。
 ライの叫びも分からないでもない。それは以前から態度や言葉で示されてきた事の延長であったから。だけど――だけど。

 
「なんなのよそれ……。……ッなに勝手な事、言ってんのよ!!」

「!」

 抑え切れなかった感情が溢れ出し、 は怒鳴ると咄嗟にライの頬を打ち据えていた。乾いた音が響く。 はライの胸倉を掴み上げると、至近距離からその瞳を睨み付けた。

「アンタねえ……! そんな事、コノエの気持ちを考えてから言いなさいよ!! 勝手に拾って連れてきて、勝手に育てて、自分の都合が悪くなったら見放すの!? まだ何も解決しちゃいないのに、どれだけ勝手な猫なの……!」

「……ッ」

 ライの顔がしかめられる。 は構わずに、迸る怒りを叩き付けた。

「あの子を賛牙って決めたんでしょう!? 育てるって決めたんでしょう!? だったらアンタには責任と義務がある。アンタのつがいはコノエよ!! ……狂気が何よ……! それくらい抗って、抑えつけて、最後まで闘牙としての自分を全うしなさいよ!」

 ライの膝に乗り上げた は、腕を離すと強く薄青の瞳を見上げた。 を見下ろす瞳には動揺が揺れている。 は息を吸うと、強く目を閉じた。そして気を落ち着かせるように息を搾り出すと、再び目を開く。


「それに……私に対しても、そうだわ……。私の行く先を、アンタが勝手に決めないで。私は私の意思で行動するの。行きたい場所があるなら、どこへでも行く。……アンタ、私の言ったこと覚えてる……?」

「何……?」

  は若干声を抑えて問い掛けた。ライの眉が怪訝に寄る。

「私、言ったわよね。アンタの事が知りたいって。それが、何の覚悟もなく出た言葉だと思う……?」

「…………」

「アンタの側にいるのは危険だって、そんなの随分前から分かってた事だわ。覚悟なんてとっくにできてる。私は……これからもアンタの側にいるわ」

  がはっきりと告げると、ライは顔をしかめて黙り込んだ。視線を逸らし、低く呟く。


「馬鹿か……。狂気に囚われれば、俺は躊躇わずにお前を手に掛けるぞ。……それでもいいのか。恐れはないのか」

「恐れ……? ――はっ。アンタ、私のことナメてんの? ……恐れているのはアンタでしょう。私は怖くなんてない」

 殺すような声で問い掛けてきたライを、 は鼻で笑い飛ばした。挑発にライの眉が寄る。……そうだ、私の言葉がこの猫に届けばいい。
 実際のところは握り締めた指は震えていたし、紡ぐ声も揺らいでしまいそうだったが、 はこらえると強くライに告げた。


「狂気に囚われるのが怖い? 罪なき猫を傷付けるのが怖い? だったら――もしそうなったら、私が先に、アンタを殺してあげるわ」

「……何……」

  の静かな宣告に、ライは目を見開くと呆然とした顔を向けた。 はぐっと唇を引き結ぶと、もう一度決意を口にした。

「……アンタのつがいはコノエよ。でも……もしアンタが狂気に囚われて、もう戻れないって言うんなら、その時だけは――私がアンタのつがいになる。ここを貫いて……アンタを殺すわ」


 ――それは、命を賭した誓いだった。
  は傍に落ちていたライの短剣を拾うと、その鞘を静かに取り払った。鋭い切っ先をライの左胸にピタリと押し当てると、滑稽なほど腕が震える。
 震えを隠さずに、 は続く言葉を搾り出した。


「アンタが正気を失うって言うんなら、私はその場所にこそ行きたい。そしてアンタを――殺すの」


 それは、 の切望だった。ライと共に行きたい。生きたい。そう願うのも真実だが、この誇り高い瞳が喪われるのなら……その時は、自らの手でその命を断ち切りたいと思った。

 これは死を前提にした絆だ。その先に未来などありはしない。あるのは血に濡れた絶望と、おそらく気が狂うであろう自分の姿だけだ。
 だが他の誰にも譲れない願いだと は思った。たとえ、相手がコノエであっても。




 ライは、打たれたように黙りこくっていた。呆然とした表情を浮かべた後に、静かに短剣を見下ろす。そしてゆっくりと視線を上げると、 の瞳を見つめた。


「……俺と共にいれば、安寧など得られんぞ。……平穏が、欲しくはないのか」

 投げられた質問に は目を見開いた。だが剣の位置は変えずに、はっきりと告げる。

「いらないとは言えないわ。けど、それは今じゃなくてもいい。アンタを失わないとそれが手に入らないって言うんなら――私はそんなもの、欲しくない。……アンタとの未来しか、私は欲しくない」

 ライが大きく目を見開く。 の瞳を探るように見つめると、しばらくしてライはわずかな苦笑を浮かべた。



「……剣を突き付けておいて、未来が欲しい、か。……矛盾しているな」

「……うっさい。放っといて――あッ!」

 ライの冷静な指摘に が思わず言い返そうとしたその時。 の手から短剣が叩き落された。そしてその直後――

「ッ!」

  はライに手首を引かれ、バランスを崩すとその胸に倒れ込んだ。



「……こんなに震える腕で、俺を殺せると思うか」

「……っ、私は……本番に強いタイプなのよ……」

 体勢を立て直した は、顔を上げてライを見上げた。……距離が近い。乗り上げた太腿から、ライの温度が伝わってきた。


「……阿呆猫が。……お前は本当に、どうしようもないくらいの……阿呆だ」

「アンタだって、相当な馬鹿猫だわ……。馬鹿と阿呆でちょうどいいじゃない」

 眉を歪め、ライが苦笑する。苦笑をつられた が言い返すと、ライはふと真顔になって の手を握り締めた。そしてそのまま、自らの胸へと導いていく。


「……忘れるな。ここだ」

「……ッ」

  の手が押し当てられたのは、先ほど が剣を突き付けたのと同じ場所……心臓の、真上だった。握りこまれた手が、熱い。布地の下でどくどくと鼓動が響いているのが、ありありと感じられた。

 これが……ライの命。 はその重みを噛み締めると、ぎゅっと目を瞑った。決して忘れないように。そして願わくば、誓いが果たされぬように。


  はライの手ごとそっと手のひらの位置をずらすと、静かに頭を垂れた。そして瞳を閉じると――心臓の真上に口付けを落とした。


「……忘れないわ。絶対に」










 

 踵を返すライの後を が追う。夕暮れの光に包まれた二匹の姿は、解ける事のない確かな絆で結ばれていた。








 





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